スプーン

 「キッチンの歴史」という書物の訳者あとがきには、「料理道具の歴史書というよりも、料理道具の歴史を題材に、人間的に豊かな生活とは何かを現代人に考えさせる文化論である」と書かれてあります。その国の人たちが何を、どのように調理して食べるかということでその道具は変わってきます。以前のブログで、ミラーニューロンが偶然発見された時は、人類が手を使うようになる重要な動機として、食べ物を口に運ぶという動作であるということを研究していたチームによってでした。

 それを考えると、手でつかんでものを口にもっていけるようなものであれば、特に道具の必要もなかったのでしょうが、つかめないものの場合、それをすくうためにスプーンは作られていったのかもしれません。「キッチンの歴史」には、中国では、ワンタンスープをすくうため、ジャムの様なべたべたした保存食品が多いロシアにはそのためのスプーンがあるそうです。貧しいヨーロッパの家庭のひしゃく形の木製スプーンは、隣人たちが寄り集まって、一つの鍋を囲んでスープをすくって食べるのに使われたため、全く中国やロシアと異なった食文化を表わしているそうです。

 1960年代に、ジューン・グドールは、チンパンジーが草の葉をスプーンのような形にして、シロアリをすくい取って食べやすくしているのを目撃したそうです。遠い昔、人間は貝殻に棒を結わえ付け、これを使って、指では食べられない液体の食物を食べたのです。もちろん、道具があって、その道具を使って食べるものの種類や食べ方が変わってきたということもあるでしょうが、食べたいものがあって、それを食べるために道具が作られていった方が多いと思います。

 「キッチンの歴史」には、こんな例が書かれてあります。エドワード7世時代に、半熟卵が好まれたことを反映して作られたのが、真珠層でできたエッグスプーンで、なぜ真珠層なのかというと、贅沢だからではなく、卵の黄身が銀に染みをつけるからだそうです。また、17世紀後半、イギリス人が紅茶にミルクを入れるようになり、ミルクと砂糖と紅茶をカップの中でかき混ぜる必要が生じます。そこで、ティースプーンが誕生します。

 ここで、「キッチンの歴史」の中では、多くの人が気づかない食事用スプーンの二つの働きを示しています。スプーンの役目は、みな詰まる所食物を口に入れることなので、スプーンのすくう部分はカップの1種として見立てることができると言います。その縁に口をつけて液体を飲むことができます。もう一つは、シャベルのように、固形物を運べるようにも作られています。それで、二種類の役割を持ったスプーンが作られていましたが、今日では、すくう部分が卵形のスプーンは、カップとシャベルの妥協点の産物になっています。デザートスプーンでピラフをすくうのに使おうが、ブロスの汁をすくって飲むのに使おうがかまいません。しかし、確かに厳密には使うのには少し不便もありますが、用は足せます。

 自由に使える手持ちの小道具が多ければ、すなわち台所道具が多ければ、生活が楽になるとは必ずしも言えないと書いてあります。豪華な晩餐のテーブルにずらりと並んだナイフとフォークを見て、「こんなにたくさんのフォークを使った時代はおそらくなかった。トマトフォークというものがそこに置かれているだけで、どんなに不安をかきたてることか」とゴールドスタインという人は書いているそうです。また、それが、礼儀作法をうみだしているというのです。