時代の移り変わり

 昨年のNHK大河ドラマ「八重の桜」では、新島襄が執念で大学設立に奔走し、八重が女子大を作ることに奔走した姿が描かれていました。その新島襄と親交があり、同じように大学設立に奔走した人がいます。彼の名は成瀬仁蔵で、彼は19歳でキリスト教に出会い、大阪の浪花教会で洗礼を受けた後、伝道活動を行う一方、梅花女学校で主任教師を務めます。その時に出会ったのが、同志社英学校を設立し、日本におけるプロテスタントの代表者であった新島襄でした。成瀬にとって、新島は信仰上の尊敬する大先輩であり、伝道活動のことなどを相談する仲でした。また成瀬が牧師となるための儀式には新島が出席しています。2人の交流は、新島が亡くなるまで続きます。

 彼は、梅花女学校長となりますが、その時に『女子教育』を出版し、女子高等教育の必要性を訴えて奔走します。そして、日本女子大学校を創立します。ここでは、人格教育を重視し、自発性を尊重する教育を進め、生涯学習を主張しました。そして、死を前に告別講演を行って、その教育理念を信念徹底・自発創生・共同奉仕の三綱領として書き遺したのです。

 この精神のもと、日本女子大を智恵子は卒業し、のちの宮本百合子こと中条ユリは英文科予科に入学したのです。そんな中条ユリの父は建築家で、札幌農学校の設計のため札幌に赴任し、百合子は 3歳までその地で過ごし、後に上京し、一家は旧駒込林町に住みます。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場、天才少女として注目を集めます。そして、1918年、父と共にアメリカに遊学、翌年コロンビア大学聴講生となり、そこで知り合った 15歳年上の古代東洋語研究者荒木茂と結婚します。帰国後、夫婦の間での生活の面での食い違いが生じて、離婚します。その後、野上弥生子を介して知り合ったロシア文学者湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した不幸な結婚生活を長編『伸子』にまとめ、近代日本文学の第一級作品といわれました。

 そして、プロレタリア作家として1927年 12月から湯浅と共にソ連へ外遊します。そして、西欧旅行などを経て帰国後、日本プロレタリア作家同盟に加入、プロレタリア文学運動に参加します。そして、文芸評論家で共産党員でもあった 9歳年下の宮本顕治と結婚しますが、プロレタリア文化運動に加えられた弾圧のために顕治は非合法活動に従事することとなり、過酷な人生を送ることになります。

 何度も検挙や執筆禁止などを繰り返し経験し、体調を害する事もありましたが、粘り強く文学活動を続けていきます。戦後、戦時中の執筆禁止からも解放され『風知草』、『播州平野』、『道標』など多くの作品を残します。そして、51歳で急死します。そんな、「宮本百合子ゆかりの地」に立つと、この地域でいろいろな時代に挑戦するような活動があったのだということに感慨深いものがあります。

 ブラヘイジは、そんな時代を振り返るきっかけを与えてくれると同時に、今何をやるべきかということを考えるきっかけにもなります。そして、その時代に必要な活動には、人のつながりを含めた縁が必要であることを感じます。縁が、個々の思いをつなぎ、それが一つの運動になっていくのですね。