計量

 「キッチンの歴史」の本の中で、6章の次に私が興味を持ったのが、以前ブログでもその興味について書いた「計量する」という章です。それは、食事道具ではなく、また、「食の歴史はテクノロジーの歴史である」というサブタイトルからは思いつかない分野だからです。もう一つ、訳者あとがきに書かれてある内容に興味を持ったからです。

 「ほとんどの国が食材を重さで量るなか、アメリカ人がカップ計量を好む。」のはなぜかという疑問です。それは、アメリカで、「幌馬車で移動する西部開拓時代に秤よりもカップの方が身近にあったから」と言います。確かに、秤はなかなか手に入りませんね。カップで量る、スプーンで量るための道具は身近にあります。それを、遅咲きの料理学校校長が料理初心者にも手軽にできる計量法を編み出し、普及させたということです。この「計量する」は、第4章で取り上げられています。

 アメリカのキッチンに厳密さという時代をもたらしたのは、「すり切り計算の母」というニックネームがついた料理研究家のファニー・メリット・ファーマーという女性でした。彼女は、「いい加減な台所仕事を嫌った。これを一つまみ、あれを一握りといった態度とは無縁の、きっちりすり切りで計量することを好んだ。」とあります。彼女による20世紀初頭にアメリカで出版された「ボストン・クッキングスクール料理の本」は、1915年に売上部数36万部数を突破してベストセラーとなったのです。そこでは、正確で「厳密な」計量による(安心できる科学的な)調理を全編にわたって主張したのです。「すり切りでカップ一杯、すり切りでテーブルスプーン(大さじ)一杯、すり切りでティースプーン(小さじ)一杯」このような同じ言葉を繰り返し、料理の説明をしたのです。かならず、ここには、食卓用ナイフを使ってすり切りにすることは忘れず、決して、余分な小麦粉が盛り上がることはなかったと言われています。

 こんな時代を迎え、ファーマーさんは、手探りとあてずっぽうの暗黒時代はもう終わり、「確実に一番うまく作る方法として、正確な計量は絶対に必要です。」と書いています。そして、この計量は混とんとした世界に秩序を与える手段であり、ファーマーさんは、中流階級の読者に対し、料理の作り方を教えるだけでなく、台所仕事は完全にコントロールできるという自信を与えたと言います。

 これまでの経緯を見ると、なんだか違和感を感じます。そして、どこか、育児方法の変化に似たものを感じます。調理をするという行為は、人類独特なものです。私は、人類は、計量する道具を元々持っていると思っています。それは、ファーマーさんが嫌った、一握り、一つまみ、それよりももっと正確なものは、「舌で感じる」という調味料を量る道具である「舌」です。

 私は、ブログでも紹介したことがある「乳幼児世界展」というイベントを主催していました。ある年のテーマが「ファジー育児のすすめ」というものでした。その内容は、育児をするうえで、もっと人間が持つ感覚を大切にしようというものでした。体温計で熱を測ることで熱のあることを知るのではなく、抱っこした時に、「あれっ?なんだか熱くない?」という感覚が育児には大切なのです。「なんだか元気がなさそう」「なんだか食欲がないね」という気づきも、育児には大切です。

計量” への9件のコメント

  1. 確かに、調味料をしっかりと計量して、いつでもどこでも同じ味を提供できることは素晴らしい革命ですね。しかし、一方では「舌で感じる」という“計量”を失わせてしまう危険性があるのですね。また、味覚は体調によって変わってくると思うので、昨日と同じ量の調味量でも、日によって感じ方が違うと思います。本文を読んでみて、味見をして美味しいと感じた量が、実はその日一番ベストな計量であるということが起きるのではと感じました。味に合わせるのではなく、体調に合わせた計量が自然の原理ということでしょうか。以前、ある保護者が、子どものことで園から電話が来た時のことを話してくれました。看護師が、その子が普段とはなんだか様子が違うという雰囲気を感じ取り、熱はないが心配で保護者に電話をしたそうです。それを受けた保護者は「熱がないのに電話をしてくるなよ」と内心で思ったそうですが、数時間後、本当にその子が熱を出し、再び電話が来た時、「子どもの姿をよく見ていてくれたんだ。すごいなぁ。」と感じたと、話してくれました。世の中が、様々な計量によって均一化されていくなかでも、「シックスセンス(第六感)」の要素を大切にしなければいけないのですね。

  2. 以前のブログから計量ということについてぼんやりと考える機会が多くなっていました。計量は美味しい料理を振る舞う思いやりにもなるのかなと思ってみたりしました。ある程度のきっちりさは大切なんだろうと思いますが、「舌で感じる計量」ということも忘れてはいけませんね。自分の身体感覚に従うということを走り始めて少しずつ感じるようになりました。走っている時に今日は体が重いなや、今日は調子がいいぞと思うことがあります。走り始める前に、だいたい今日は何キロ走ろうとあらかじめ決めてから走ることがほとんどなのですが、そうではなく、その日に体の調子に合わせて距離を決めることも増えてきました。また、走る前から今日は走る気分じゃないな〜と思ったら無理せずに走らないようにもなりました(このあたりは怠けと紙一重かもしれませんが)。今日のブログを読んで感じたのですが、様々な健康法があるとします。あの人はこんな健康法を試している、あの人は…といろいろありますが、参考になる部分もあるとは思うのですが、それはその人の体に合った健康法なのかもしれませんね。自分に合った健康法は自分の体の声を聞くことから始まるのかもしれません。なんだか話が変な方向にいってしまいましたが、軽量することはまだまだ考えていきたいです。

  3. 今回のブログへのコメントは一日遅れで岩手にて作成しています。外気温6度でまた冬に戻ったような天気です。夜からは雪になるようです。積もらないことを祈っています。さて、計量、「すり切りでティースプーン(小さじ)一杯」、この表現に生で接したのは、息子のミルクの量を計る時でした。私にとっては初めて耳にする表現なので印象に残っていました。そして、今回久しぶりにその表現に再会したというわけです。「すり切り計算の母」のファーマーさん、そしてやはり連想してしまうのが「三歳児神話」の立役者、「スポック博士の育児書」ことスポックさん、このお2人は戦後の日本の育児現場にどっぷりと深入りした米国人です。食の領域で行けば、集団給食施設は徹底した計量主義?でその権化は病院給食ですね。我が園の給食は「味見」によるところがあって、いい意味でバラエティに富んでいるとも言えます。もっとも職員さんの中には、きっちり計量して「いつでも同じ味を」と主張する方もいらっしゃいます。ファジーさ加減は私も重要だと思っています。それには私たちが持っている五感からの判断をもっと大切にすべきでしょうね。たとえば、調味を計量に頼ってばかりいるとやがて舌の味見感覚は衰えていくことでしょう。味覚という感覚を養える環境を私たちはもっと大切にすべきでしょうね。米国式の考え方が横行している今日この頃です。東洋のファジーさの復権を。

  4. 料理番組でよく使われる「塩少々」あるいは「ひとつかみ」は、親指と人差し指で自然につまんだくらいの量。「ひとつかみ」となるともう少し多めで、親指と人差し指、中指の三本で自然につまんだくらいだそうです。みそ大さじ1杯は18g、小さじ1杯は6g、カップ1杯は230gになるとか。といっても、味加減は作り手の感覚で決まるものだし、地域によって、また家庭の味もあって正確にこれと決まったものはないでしょう。特に日本料理は、素材の味を最大限に引き出すのが特徴で、あまり手を加えず、だしも控えめにするのが常道です。

    今日、仲間たちと山の中の手作りの小屋で、男だけの料理教室を。武骨な男たちが慣れない手つきで、買ってきた食材で豚汁を作りました。スペシャルゲストの講演もあり、まるで生臥龍塾でした。自称料理名人もいて、なかなかの味を堪能。味加減も適当でしたが、みんなおいしいと大満足。細かい計量に頼らず、いい加減にしたのが良かったようです。人生と一緒、何事もいい加減がちょうどいい加減なのです。

  5. 私が料理をし始めた頃は料理の本に載っている分量をある程度正確に守って作ることから覚えていきました。でもそれを続けていて、正確さを求められる料理がなんだか楽しくなくなり、ちょっと適当にやるようになっていきました。正確な分量が書かれていると同じように調理できる安心感がありますが、もちろん食材はそれぞれ微妙に違っていますし、その時に手に入る食材ではないモノが必要になったりもします。そんなことに対応しようとすると、あくまでも作り方は参考程度に捉えて、後はその場その場で食材に対応していかなければいけません。そうやって個々の味が作られていくようにも思いますし、人が料理を作るというのはそういうことでもあるんじゃないかなあと思ったもします。

  6. 料理本などを見て始めての物を料理をする上でまず重要なことは工程で、その次は分量だと思います。その分量も料理本には詳しく書いてありますが、私の場合はある程度の参考にして、結構目分量でやってしまいます。ただ妻に言われたのは、お菓子やパンを作るときは正確に計って作らないとダメだよと、注意されたのを覚えています。その違いが何か気になりますが・・・。ただ計量するのも、作り手の味の好みによって大きく変わるような気がします。とくに給食になると、日によってお味噌汁が濃かったり、薄かったりなど、大きな差があるのは問題かもしれません。だからと言ってしっかりと計量するのも時間もかかるし、素材の水分によって変わってきます。そういう意味での「舌」の感覚はとても大切になってきますね。

  7. 以前のブログでも少し考えさせてもらい、お菓子作りに結びつけて書かせてもらいました。分量を計る事に対して考える中で今回のブログを読み、自分の「舌が調理道具」というのは感動しました。更に納得しますし、感覚として忘れてはいけないところだと感じます。毎日の給食を食べるにあたって今日の味噌汁は少し味が濃いなぁと感じることがあると今日の味噌汁を作った調理さんは少し疲れているのかな?考えてみたりしています。ところが子どもの身体が熱いという感覚がまだ私には鈍い気がしています。自分が抱っこをしていた子が数分後女性の保育士に抱っこしたら、なんか熱いね、と言って熱を計ったら熱があったという経験があります。どうして私は気づけなかったんだと自己嫌悪になる時もあります。そういった感覚を磨かなければいけないなと感じますし、様々な感覚というのは色々な気づきに繋がるのですね。

  8. 計量することができるようになり、誰でも同じ料理が作りやすくなった半面、簡単になった故に、センスであったり、経験から生まれる感覚のようなものが減ってしまう。書かれているように保育でも同じようなことが言えると思います。

    料理を作るときに、普段から計量カップを頼りに作ることに慣れてしまった人はそれなしでは不安を覚えることでしょう。おいしい料理を作れるようになる、過程として、計量カップを使って練習する。何が目的なのかをしっかりと考えていきたいともいます。

  9. きっちりと計量するということは確かに誰にでもできることですし、食事の作り方に秩序を与えることになったでしょうね。しかし、その反面、自分の舌で「好みに合わす」ということに関しては難しくなっていると思います。そう言われてみると今の育児の状況と似ているかもしれません。育児書やこういったHow toのものは多く出回っています。確かに一つの指標としてはそれは有効ですが、それに捕らわれてしまうと逆に子どもにとっても負担になりますし、育児を行う親自体にも負担が起きます。「ファジー育児」という言葉は初めて知りましたが、自分自身の感覚を大事に育児をしていくことも大切ですね。そのためには根本に「子ども」のことを考えていることが前提ですが。。。

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