機能ではなく文化

 私は、以前のブログでも書いたように、猫舌ですので、あまりに熱いものはすぐには食べたり飲んだりできません。少し冷ましてから食べます。ですから、少し冷めたものでも大丈夫です。しかし、人の中には頑固というか、こだわりが強い人もいるようです。私の猫舌は隔世遺伝で、私の祖父も猫舌だったそうです。その祖父はうどんが好きだったようで、こだわりが二つあったそうです。ひとつは、かならず家で、手打ちで作らなければだめだということ、もう一つは、アツアツのうどんを出してもらって、一緒に団扇を置いておき、熱いうどんをあおいで冷ましてから食べたそうです。最初から少しでもぬるいと、御膳をひっくり返したと母から聞きました。

 社交界の女主人エルジー・デ・ウルフが、1934年に「正餐を成功させる」秘訣として、「お料理は温かいでしょうか、熱々でしょうか」と訊ねているそうです。手で食べるなら熱くない方がいいのです。その時には、室温か室温よりやや温かい料理が理想的なのです。手で食事する国では、料理はこの作法にふさわしい形に発達し、手はフォークやスプーンやナイフが阻害してしまう能力を発展させたとビーさんは言います。例えば、インドのナンについて言えば、ナンを一切れ片手で持ち、もう片方の手でダール(レンズ豆のカレー)のボウルを持ち、浸してすくうと、フォークの必要を感じないと言います。

 指は、他の食事道具の代わりを果たすだけでなく、多くの点で勝っていると言います。作家のマーガレット・ヴィッサーは、「手で食べる人にとって、手は他の食事道具よりも清潔で、温かく、しなやかに動く道具らしい。手は音を立てず、温度や質感に敏感で、優雅である ― ただし、作法を習熟した手つきに限ってのことはいうまでもない。」と言っています。確かに、アラブ諸国では今でも手で食べることが標準だそうですが、食物を手から口へ運ぶ動きが実に起用で、敏捷です。食事中行われる多くの所作は、フォークでは真似できません。ご飯を丸めてすくい上げ、ご飯にラム肉やナスを一切れ詰め込んだかと思うと、ポンと行儀よく口の中に納めます。こんな申し分ない無駄のない動きを他の食事道具でこなすことはできないのです。

 「キッチンの歴史」の本の中で、食事道具のテクノロジーは、機能の面だけから理解することはできないと言います。実用性だけを考えると、ナイフ、フォーク、スプーンの3点セットあるいは箸を使えばできるのに、指とボウルを使ってできないことは(ある種の切る道具も使っていると考えると)ほとんどありません。食事道具は、あくまで文化的な存在であり、どんな食物をどのように料理し、その料理を前にしてどのようにふるまうかという価値観が伴うものであるというのです。そこで、誕生したのが、「スポーク」という食事道具です。「スポーク」というのは、なんと、先割れスプーンのことです。

 スポークとは、ナイフ、フォーク、スプーンの機能を備えたもので、この言葉が最初に辞書に載ったのは1909年で、商標登録がされたのは1970年になってからのようです。商標も現物も「スプーン」と「フォーク」が合体したもので、スポークという言葉もそれが合体した言葉です。いわゆる、消しゴム付きの鉛筆のように、技術分野では「組合せ型」製品と呼ばれるものであり、二つの発明を結びつけている道具なのです。

機能ではなく文化” への9件のコメント

  1. 「スポーク」、これを使って子どもたちが食事をしていたのを見たことがあります。スプーンとフォークの組み合わせ型、スプーンのスとスプーンのプとフォークのフォーが合体してポー、そしてフォークのク、これらが合体して「スポーク」、名前もわかりやすくていいですね。さて、「食事道具は、あくまで文化的な存在」ですね。世界のあちこちの食べる習慣を知ることができると、その食習慣はまさに文化そのものです。つまり、食べるという人類共通の行為、すなわち普遍性をもった行動も実は地域、もっと端的に言うと、風土、に強く影響されて存在する、きわめて文化的行為ということが言えますね。日本の中でも、よくよくみるなら、食生活に地域性をみることができるのでしょう。これまでの一連の食事道具に関するブログのおかげで、普段は注意することもないそれら食事道具をまじまじと眺めては食事をする今日この頃です。今後、食事道具がどう変わっていくのか、あるいは変わらずにこのままいくのか、将来が楽しみですね。

  2. 食事道具は文化的な存在である訳ですね。何が何より優れているという機能的な考え方ではなく、その地域、その国によって発達した食事道具があるということを理解し、様々なものがあるということを知る、感じる、受け入れることが大切なのかもしれませんね。何かと比べたり、優劣をつけるのではなく、「そういうものもあるんだ」と受け入れることは何においても大切ですね。余談ですが、私はかなりの猫舌です。子どもの頃はみそ汁が熱いと氷を入れて冷ましていたほどでした。熱々のご飯も冷凍庫に数分入れて食べやすい温かさにしてから食べていました。袋ラーメンも一度水につけて、冷めてから食べていました。今でも熱々は苦手で、冷ましてから食べることが多いです。なので、ご飯も炊きたてではなく、残ったご飯がよくボールに入れられていたのですが、その冷めたご飯が好きでした。あげるとキリがないです。

  3. 料理が熱くなければ、手ほど思いのままに動かし、細かい動きを可能にするものはありませんね。手で食事をする人の「ご飯を丸めてすくい上げ、ご飯にラム肉やナスを一切れ詰め込んだかと思うと、ポンと行儀よく口の中に納め」る動きは、TVで見たことがあります。不思議と、その方たちは手元をあまり見ずにその所作を行っていたかと思います。それも、手だからこそ行えることですね。箸やフォークなどは、対象物を見なければ取ることはできませんが、手なら感覚だけで探り、掴み、口まで運ぶことが出来ます。また、掴みとる時、一口で入る大きさのもの、口まで持っていく最中に落ちないであろう量や、硬さに自然と調整しているのでしょうね。これを考えると、赤ちゃんが手で食べようとしている行為の難しさを改めて感じます。そして、食事道具は、あくまでも文化的な存在である、とありました。「スポーク」を生んだ文化とはいったどのような文化であることが考えられるでしょうか。「組み合わせ型」とあったように、物事の効率性を求める文化であったのかなぁと感じました。

  4. 箸やスプーンやフォークが何故使われているかを考えるときに、手で食べることを抜きにしてはいけないんですね。それらの道具がなかったころは手で食べていて、それに特別不自由はなかったように思います。それが各地でいろんな食文化が誕生し、道具が出来上がっていったことを考えると、道具の存在を軽く考えることはできませんね。スプーンなどを軽視するわけではありませんが、まずは箸についてはじっくり考えてみたくなりました。そこから見えてくる文化であったり、食に対する価値観であったりを、保育の中で取り上げてみたいと思っています。まだ漠然としていますが、なんとなく面白いことができそうな気がしています。

  5. あ~藤森先生も猫舌だったんですね。当地のうどんもさぞかし食べにくかったかも。一昨年は熱々の鍋焼きうどんでした(笑)。名産のうちわが要りましたね。どうも気がつかなくてすいません。

    以前テレビで猫舌が特集されていました。実際に猫舌の人と猫舌でない人に熱々のグラタンを食べてもらい、その時間を計測。猫舌でないグループは開始6分で全員完食。猫舌の人たちの平均完食時間は15分24秒、猫舌ではないグループは5分50秒でした。続いて、猫舌の人が口に入れることの出来る温度の限界を調べていました。すると50~55℃で限界がくるようでした。こんなにも違うものなんですね。

    そもそも猫舌は病気ではなく、舌の使い方に原因があるようです。舌の先は温度に対して敏感ですが、逆に真ん中から奥にかけては熱さを感じる部分が少ない。つまり、猫舌でない人は無意識に敏感な部分に触れないようにして食べることができている-というのが専門の先生の見解です。たとえばお茶を飲むときも、熱に敏感な舌先を下の歯の歯茎のところに当てて隠して、ずずっと吸い込むような感じにするといいようなんです。藤森先生、いっぺん試してみてはいかがでしょうか。

  6. 実家でメロンやスイカを食べる時にスポークを使って食べていました。そもそも、スプーンの先が割れている物が「スポーク」という名前は今知りました・・・。最初は何のために先が割れているのか分からず使っていましたし、気にも留めようともしなかったので、そのままにしてきましたが、ようやく解決しました。
    ナイフ、フォーク、スプーン、箸、そして「手」という道具を使って世界では食事をしている人がいますが、ナイフとフォーく、箸などの道具を違った持ち方や、作法で行儀悪く食べている人にしたら、スマートに手で食事をしている人の方が、礼儀正しく見えます。道具を使っているから礼儀正しいというのでなく、ブログにも書いてあるように、料理された物に対して、どのようにして振舞うかの価値観というのは、とても納得しました。

  7. スポーク、初めて聞きました。思い浮かぶのが違うかもしれませんが幼い頃イチゴミルクを作る時にイチゴを潰すために用意された物でした。刺せるし、すくえるなぁと思った覚えがあります。面倒くさがりやだった私には丁度よかった印象です。「組合せ型」という考えになんだかひかれます。色々な機能がついているボールペンだったり多機能な物が好みかもしれないと感じました。かといってとてもシンプルな物も好きですが…。多機能があることで効率が良くなります。価値観が伴うと同時に効率の良さも考えられいたのでしょうか。気になりますね。
    「手で食べる人にとって、手は他の食事道具よりも清潔で、温かく、しなやかに動く道具らしい。手は音を立てず、温度や質感に敏感で、優雅である」という文があります。そんなことは考えたことはありませんでしたがすっと納得がいきまいした。

  8. その時は名前まではわかりませんでしたが、「スポーク」は学校の給食で使った記憶があります。

    指を使って食事をする地域において熱いものはどのようにして食べるか、それはパンやナンなどを、つけて食べるということだったんですね。確かにその方法だとスプーンがなくてもスープ類が食べられると思います。日本では、シチューやカレーなどの時にときどきそういった食べ方忍足、お皿もきれいになるからというイメージでしたが、もともとはそういった起源がことに改めて驚かされました。

  9. 私の実家にもスポークはあったと思いますが、どうも私の記憶にそのスポークを使った覚えが数度しかありません。そして、残念ながら、フォークとしてではなく、スプーンとして使っていたように思います。それにしても、箸やフォーク・スプーン・ナイフといった食事道具は「熱いもの」を食べることを可能にしたということは、言われてみて改めて納得しました。確かに1歳児の食事など手づかみする子どもたちに食事を渡すときはある程度冷ましたものをだすようにしています。熱いものをだすようにするのは道具を使えるようになってからですね。また、「手で食べる」ということの便利さは誰もが思うことでしょう。しかし、「熱くない」ものでなければいけないですし、そこに至るまでの躊躇もあるでしょう。そういったことを考えると私たちは文化というものが根底に根付いているということをとても感じます。

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