スポーク2

 私たちは、なぜか便利なはずの「先割れスプーン」にあまりいい印象を持ちません。なぜか、便利な食事道具というよりも、食事を軽くあしらわれた気がするのは、私だけではないかもしれません。先割れスプーンのことを指すスポークは、マッカーサーが発明したという都市伝説は、本当ではありませんが、実は、同性であるオーストラリアのマッカーサーという人が、オーストラリアのバーベキューにうってつけの道具として、ナイフ、フォーク、スプーンの三役をこなす「スプレイド」というステンレス製の道具の発明し、1940年代に商標登録をしたからのようです。

 それに引き続いて、1970年代になると、「スポーク」が商標登録されます。このスポークは、プラスティック製で、ファーストフード店で流通します。それは、価格競争の中で、非常に優秀な商品でした。プラスティック製食器2本が1本の値段で買えるからです。このスポークは、ファーストフード以外にも、大口需要となります。その大口な利用者のことを、「キッチンの歴史」の中で、ビーさんはこう表現しています。それは、「学校、刑務所など、食事を食物摂取の日課として済ませる施設である。アメリカの刑務所で使われるスポークは、一般にオレンジ色のプラスティック製で、武器として使えないことが前提のため、柔にできている。」

 どうも、スポークを使うところは学校と刑務所というところが何とも言えません。というのは、学校と刑務所の建物は兄弟関係にあるからです。日本における学校建築は、とうじの兵隊の宿舎をモデルとしており、兵隊の宿舎は牢屋をモデルにしたと言われているからです。建物も、そこで使う道具も学校と刑務所が同じというのは、面白いですね。また、その二つの施設の特徴として、食事を「文化」として捉えるのではなく、「食物摂取」の日課としているところです。改訂前の保育所保育指針では、「一人一人の子どもの状態に応じて摂取法や摂取量などが考慮される必要がある。」と書かれてあるように、保育園では、食事を文化としてはとらえられていなかったのです。

 また、このスポークは、便利なものとして捉えられたわけではなく、アウトドア用品会社で働くノードウォールさんは、「私には妥協の産物のように思える」と記していますが、たしかに、フォークのように先が使えないし、スプーンのようにすくえません。スープを飲もうとしても隙間から汁がしたたり落ちてしまいます。そこで、ノードウォールさんは、両端にスプーンとフォークをそれぞれつけました。その後、様々なスポークが登場します。ライトマイファイヤーというキャンプ用スポーク、サラリーマン用スポーク、左利きスポーク、幼児用小型スポークなどです。その傾向について、ビーさんは、こう指摘します。

 「これまでの食事用具は、食事を前にしていかに振る舞うべきかといった文化の期待を背負っていたが、スポークは文化というものを持っていない。他の者がどう使おうは、本人が好きなように使えばいい。決まった慣習もなければ作法も求められない。スポークで食べることは、行儀よくも行儀悪くもない。

そして、スポークを使うときのテーブルマナーを皮肉ってこんな紹介をしています。「スポークを使って、発泡スチロール容器からマッシュポテトを食べる時、最後のポテトの欠片を取り出そうとスポークで発泡スチロールを引掻くのではなく、容器の底にある“スポークで取り切れなかったもの”はそのまま残すのが行儀いい。最後のひと欠片までポテトを食べたいのなら、指を使うことだ」

スポーク2” への8件のコメント

  1. 「文化」という単語を調べると、『人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと』とありました。社会の一員(形成者)として、どういう振る舞いが良いかといった指針が「文化」を作りだすのであれば、「決まった慣習もなければ作法も求められない」スポークからは、「文化」は生まれないということでしょうか。正直、私自身もこれまで「食事」を文化として捉えてなかったと思います。まさに、「食物摂取」であり、“食べられればなんでもいい”状態でした。しかし、そこには社会の形成者として獲得しなければならない振る舞いがあったのだと反省しています。また、食事道具にも、おもてなしの心があるのだと思います。スポークで取りきれなかったマッシュポテトがあるように、最後まで、食事を楽しんでほしい、最後の一口まで味わってほしいといった思いが飾り付けや装飾、そして食事道具まで意識させる点につながっていくのではと感じました。

  2. 本日の投稿は通常より若干遅めです。なぜなら、家内と息子が今夜夜行バスで田舎に戻り、それを見送ってきました。少しの間、離ればなれになります。寂しいものがあります。さて、本日もプラスチック製のスポークを目の前に置いて、今回のブログへのコメントです。しかし、見るからに、やはり、中途半端な食事道具です。しかも、この食事道具から連想できるのは、食べればそれでいい、といった、何といいますか、食を楽しむどころか、ただモノを口の中へと運ぶ、という無機的動作です。スポークの大口需要者さが「学校と刑務所」というのは、あることを象徴して余りありますね。わが子から聞いた学校の給食の風景の一コマ、モノを口の中に流し込む、ということを耳にした時は流石にわが耳を疑いつつも、何と気の毒なと思い、それゆえ、家では好きなものを好きなだけ、食べるようになっています。選べないし、残してはいけない、・・・食事道具はスポークでよい、ということになるのでしょう。「食育」は、嫌いなものでも食べる、ということなのでしょうか。であるならば、相当さびしいものを感じますね。

  3. 学校と刑務所の建物が兄弟関係であるという話やそこで使う道具が同じという話はおもしろいですね。スポークは文化をもっていないとありました。文化は面倒と思える部分がもしかするとあるのかもしれません。ですが、利便性や経済的であるかどうかということに重点を置き過ぎると大切なものを見失ってしまいそうです。文化はそれを繋いできた人の歴史も感じますし、人の思いも感じるような気がします。そこから社会も見えてくるのかもしれません。文化を通して、昔の人の気配を感じることは大切なのかなと思いました。それは自分が住んでいる土地を好きになることということでもあるのでしょうか。食事を文化としてとらえることの方法はしっかり工夫していきたいです。

  4. スポークと文化の話は頷ける点が多くありました。確かに短時間で簡単に食事をとることを目指しているようにも思われるファーストフードやコンビニでは、このスポークが多く使われているように思います。でも食事は単にお腹が満たされればいいのではなく、文化として捉え、その作法も文化に合わせて文化なりに洗練されていくものだと考えます。特に子どもには単なる栄養摂取ではなく文化を伝えていくべきだと思うので、食事の際に何を使ってどのように食べるかについては、丁寧に考えていく必要がありますね。それにしても食の道具からこんなことまで考えることができるとは思っていなかったので、ちょっと驚いています。

  5. スポークの大口需要の理由として低価格で1本分の値段で2本買えるというのは納得がいきますね。更に学校と刑務所の建物は兄弟関係にある理由から使う道具までもが同じというのはなんだか不思議ですね。
    スポークには文化がないのですね。保育園の食事に文化がないというのは正直驚きです。確かに摂取量や摂取法は大事ですが、食事というのは一生共にする行為でもあります。和食文化のある日本であるのに、保育園での食事に関して文化がないというのはなんだか淋しい気もしますが、しかたないのでしょうか。少し子どもたちの食事について考える必要があるように感じますね。

  6. 藤森先生の講演の中で学校の教室は刑務所をモデルにしたという話しを聞いて、とても衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えています。自分たちは囚人だったのか・・・と瞬間思いました。さすがに給食ではスポークは出てきませんでしたが、食事を食物摂取として捉えていたということは、刑務所をモデルにしてるのであれば、食事もそういう風に捉えられるは仕方ありませんね。スポークには文化がないというビーさんの考え。確かに考えると箸やスプーン、フォークと比べると、ただ合体させて作り上げた道具であり、文化というものは感じないかもしれません。最後の最後まで残さず綺麗に食事を食べるには、昔から継承されてきた物が可能にし、さらには礼儀正しく食べれるのですね。

  7. 「スプレイド」思わずどんなものか夫婦話題になり、画像検索してしまいました個人的には、どんなのものか購入してみたいと思いましたが、奥さんの口ケガするでしょの一言で見送りになりました(笑)
    スポークはやはり学校で使われていたのですね。ブログの内容の通りの使いにくさも当時感じた記憶があります。しかし子どもの早くお代わりをという食欲でその不満もうまく相殺されていた感じもします。
    何が妥協で、何がそうではないのかしっかり考えていきたいと思います。

  8. 「妥協の産物」という言葉には思わず首を縦に振ってしまいました。確かにスポークは合理性を求めるが故に結果器用貧乏になってしまった道具のように思います。しかし、そのためか、どの機能もそこそこにあるというところではファーストフード店のような店にとってはその合理性は歓迎されたのかもしれません。そして、そこにはあまり食の文化というものはなく、利便性やコストパフォーマンス、まさに食を食物摂取として捉えるところにおいては、食事道具の文化というのはあまり重要ではなくなっていったんでしょうね。とはいえ、そこに使いにくさや矛盾などの疑問点がでるということはやはり自分自身にしっかりと文化が身についてるということのあらわれなんでしょうね。

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