いい加減さ

 いい加減な台所仕事を嫌ったアメリカの料理研究家ファーマーさんは、食材の測定方法に計量カップを使いました。しかし、実は、この計測応報は厳密ではないのです。「キッチンの歴史」の中でもビーさんは、「ファーマーが測定の一方法、カップ計量という手段を選んだのは奇妙な話だ。本来カップ計量は不正確で曖昧なため、誤差が大きくなる傾向にある。」と書いています。

 彼女が提案したカップ計量は、すべての食材を量で表します。それは、液量も、穀量も、バラバラでも、ギュッと詰まっていても、一定の容積の計量カップを使って量るのです。いくら細かい粉のようなものでも、トントンとするとしだいに沈んでいき、もう少し量は増えます。もっと、大きな粒ですと、その隙間のあり方で量が変わってきてしまうはずです。この計量カップで量るのは、重量でなく、容積で量るということであり、「容積測定」とも言われることもあるそうです。

 そんな曖昧な計量ですが、ファーマーさんの影響で、アメリカでは今日でも料理書では、ほぼカップ計量が採用されており、各家庭でもカップ計量が幅を利かせていると言います。その結果、一時期、カップ計量を取りいれたオーストラリアとニュージーランドでは、やめてしまったために、アメリカだけの特徴になってしまっているようです。もちろん、ヨーロッパでも、一般的に液体に対しては容積測定はするのですが、アメリカでは、動植物でも無機物でも何でもかんでもすべての食材を容積で量るのです。

 私は、独身の間、一人ですんでいた時は、すべての食事は自分で料理をしていました。当時は、弁当屋やコンビニ、ファミレスはありませんでした。また、スーパーには、一人用の分量の食材も売っていませんでした。ですから、朝、晩は、料理をしていました。その時に、どうしていたかというと、味付けなどは昨日のブログではありませんが、人間の感覚に頼りました。適当に調味料を入れて味を見ながら味付けをしました。また、ご飯を炊くときには、計量カップでコメの量を測りました。それは、水の量との関係が重要だからです。たまに、米を窯に入れて、人差し指で「お米の表面」から「第一関節部分」までに水を調整して炊いたこともありました。ただ、その中で、きちんと秤でその量を測って料理をしたものがありました。それは、2種類以上の食材を混ぜて、ある意味で化学反応を起こすようなときには、その分量の違いによって、化学変化が起きないことが多いからです。たぶん、そのような料理法は、昔にはあまりなかったでしょうね。

 ということを考えていたら、「キッチンの歴史」の本の中にも、同じようなことが書かれてありました。「優れた料理には、科学の実験のような正確さが求められる。ティースプーン(小さじ)四分の一の塩加減、わずか30秒の違いが、1流の料理と並みの料理の分かれ目となる。レシピとは料理で何度でも作れるようにするためのものだ。科学では、違う研究者がそれぞれに実験しても、正確に再現できる能力を再現性という。レシピの質とはまさにこの点に尽きる。家に帰って、あなたのアップルパイのレシピ通りに私の台所で作っても同じ味になるのが理想なのだ。」

確かにそういうところがありますね。ほんの微妙な量の違いで、全く違うものになってしまうことがあります。ところが、科学者なら容認できないような本質的でない様々な要素の変数に、料理の条件は大きく左右される部分があるところが、料理の面白いところかもしれません。

いい加減さ” への9件のコメント

  1. 本当に最近の話になりますが、以前に比べると料理をする機会が増えてきましたが、まだまだ「料理をしてます」とは言えない状況です。ですので、わずかな塩加減や30秒の違いがどんなものなのかあまり想像ができません。そんな違いが分かるようになればまた料理もおもしろくなりそうですね。レシピといえば、最近では料理本の他に様々なレシピが見れるアプリがありますね。あれはとても便利だなと思います。作り方も簡単に説明してあるのですが、それでも私は時間がかかってしまいます。手際よく料理を作る人はすごいなと改めて感じる今日この頃です。

  2. 本文を読んで、料理をただ完璧な物を食べる為にあるという認識と、そこに、これを入れたらどうなるんだろう、あの味を再現するには何が必要だろうか等と、自らで料理を築き上げていく面白さを求めるという認識があることを感じます。料理の目的によってそのプロセスは変わってくるかと思いますが、視覚・味覚・聴覚・触覚・嗅覚に、科学で証明できないような第六感的なものを加え、料理を娯楽そのものにするという発想も必要であると思いました。「いい加減さ」には、物事を楽しむことができる余地を与えるということでしょうか。それが、いい意味での“余裕”なのかもしれないとも感じました。高校時代、化学の授業で“化学式”や“化学反応”という内容を学んだ記憶があります。当時は、これが何の役に立つのかと思っていましたが、生活に一番身近な料理にこの言葉が出てきたことに驚きです。そして、藤森先生が朝夕のすべての料理を自らで行っていたと考えると、今の自分が恥ずかしくなります。

  3. 料理の食材の分量から調理法の細かなことまでレシピ化されていることが美味しい料理を作るためにもっとも大事なことだと話を聞いたことがありました。それは「愛情によって料理の味が変わるのではなく、レシピの正確さや再現の精度の高さによって決まる。」という話で語られていたことです。それはそうだと思うし、そうやって美味しい料理が広く伝わっていったことは確かなのでしょうが、もしもそれが料理だと言われるとやはりどこか面白さがないんですよね。本当に様々な条件によって料理の味は左右されますし、食べる方の味覚や食欲などもいつも一定ではありません。その中で料理をし、食事をどう営んでいくかということには、ある程度の遊びとか、その人の感覚とか、そういったものにも大切な役割があるようにも思えます。まあ素人考えではあるんですが。

  4. 「いい加減さ」はやはり「適切に、たとえば、調味料を加えたり、あるいはお塩の量を減らしてみたり、・・・」そうした加減の良さを言うのでしょう。結婚してから自分で料理を作るということがほぼなくなり、専ら連れの手料理を頂くのですが、たとえば、コロッケを頂くと、その味が微妙に異なることがあって、そのことについてたずねると、だいたいは新しい何かを加えたり、塩やスパイスの加減が前回と違っていたりで、そのことで話し合いが盛り上がることがあります。自分で作らない癖して、どうしてこの料理はこんな味になるのだろう、と普段から考えることがあります。もっともそのことを口に出すと、悪く取られかねないところもあり、問い方には気をつけています。さて、お米の炊き方で水の調整には「「第一関節部分」までに」をいまだに採用しています。炊飯釜には目盛りが付いているのですが、20代の時の癖がいまだに抜けません。今回のブログではここの部分にとても反応してしまいました。

  5. 料理とは関係ありませんが、テーマからの連想です。

    ≪一人の人間の中に、頑張る自分と、上手に頑張れない自分がいていい。弱さというのは、強さを持つ自分になるため必須なものだと気づいた。そのほうが鋼のように折れない強さになる。強さと弱さの加減が大事なのだ。「いい加減」が大切なのだ。≫(鎌田實著「いいかげんがいい」)

    「いい加減な」生き方とは、けっして手抜きをして生きることではない。実はものすごく真剣なのだ。自分の弱さを潔く受け容れ、決して我慢しないことだ。完璧な人間なんてかえって不自然だと思うことだ。人生に苦しみや悩みはつきものだ。悩むことは不幸ではない。悩みに負けてしまうことが不幸なのだ。どんなにつらくても鋼のようにたわんでいたらまた元気になれる。レジリエンスとはいい加減な生き方から生まれる。

  6. キャンプなどで飯ごうを使ってお米を炊くときには、ブログに書いてあるように指の第一関節と聞きました。今までに何度か試したことがありますが、固めになるか、柔らかくなるかのどちらかで、丁度いい硬さは難しかった記憶があります。ただ、そういう部分も料理の面白さがあるかもしれません。私の妻の友人にパティシエがいるのですが、聞いた話によると、生クリームのつくり方でも、混ぜ方や砂糖を入れるタイミングによって、出来上がりが全然違うと聞いたそうです。また最近、離乳食の作り方に関しても少し学びましたが、茹で時間や味付けも、季節によっての野菜の具合によって全然違うそうですね。もちろん形状や味のベースはありますが、最終的に茹で時間、形状や味は作り手の感覚になるそうです。レシピ通りに作る事も大切ですし、その時の状況によって柔軟に対応するのも重要だと思いました。

  7. 割と料理をする際には調べた後調味料の量は計る方ですが、レシピを見ないで作る時には適当に入れています。レシピを見るとなぜかそれ通りに作ってみせる!と意気込んでしまいます。その中でまだわずかな塩加減や30秒の違いというレベルには達していないため違いがわからないです。そこまでいくにはプロの領域なのでしょうか。以前に友人が作ってくれた煮物を食べ、美味しかったので自分で作ってみました。やはり自分で作るのと作ってもらうのでは少し味は違いますが美味しくできました。自分で作ることは自分の体調を考えた味付けをしたり食べてもらう人の好みに合わせた味付けをしたりというが楽しさの一つでもあると感じます。その加減を調節できる楽しさに魅力を感じています。ただブロクにあるようにしっかりと量を調べないと化学変化しないような料理にも挑戦したくなりますね。

  8. 以前、有名料理店といった特集で、そのおいしさの秘密は、決まったレシピがないことというものを見たことがあります。その時期の素材や気候など様々なことにより、味のつけ方が変わるため、大まかなレシピはあっても、塩加減といった味の付け方は作り手の勘に任されるというものでした。
    そういう風に考えると、確かに時期によっておいしいという味のつけ方が変わったり、家庭で作る料理だと、食べる人の疲れ具合などによっても濃いめや薄味が好まれたりその都度の変化が求められると思います。
    そんなさまざまな要素が味に出る、それが料理の面白さなのですね。

  9. 自分が雑な性格だからか、レシピ通りに作ってもなかなかうまくいかないことが多いです。どこかで雑さが出ているんでしょうね。ほんの細やかな手順や行程を飛ばすことでそのできばえは大きく違ってくるのが難しいところです。しかし、作り手によってはその行程を飛ばしてもおいしく作る人がいます。いつもなぜだろうと思うことばかりです。その人のもっている舌の感覚であったり、経験であったり、「いい加減さ」というものはひとそれぞれですが、そこが見える「料理」というコンテンツはとてもおもしろい分野ですね。

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