料理人の感覚

 人の能力は、どんな科学にも勝るものを持っています。科学的に解明できないものが、まだまだあります。よく、特集で「おいしいラーメン店」という企画がありますが、この「おいしい」という感覚は、科学的には解明できないかもしれません。それは、個人によって好みが違うからです。また、年齢によっても、その日の具合によっても、疲れ具合によってもおいしいと思う基準が違うからです。食は、体調を調節する役目もあるわけですから、体調によって摂取したいものが変わってくるのは当然です。甘いものがたべたくなるときと、塩辛いものがたべたくなるときと、さっぱりしたものがたべたいときと、日によって様々です。

 また、料理は、食材を使うときに必要なのは、その量だけでないいろいろな要素があります。例えば、新鮮さです。特に生ものの時には、それは重要な要素になります。それは、料理法にも影響してきます。古くなったものは、火によく通すとか、生で食べないで煮たりします。また、分量もその時の食べ合わせによって変わってくることがあります。私が、ほぼ毎週「生臥竜塾」という勉強会を行っているのですが、その参加人数は基本的には7人ですが、夕食を食べる時に炊くご飯の量は、その時のメイン料理によってずいぶんと左右します。先週は、3月末ということで一人の職員のお別れ会を兼ねていましたので、手巻き寿司ということで8合炊きました。また、食べる場所によってもその分量は違ってきます。例えば、外で食べる時は多いとかです。全体の量とか、調味料の分量とかは、ずいぶんと微妙なものです。

 そのあたりのことを、「キッチンの歴史」の中で、興味深い書き方をしています。「もともと味の好みは人によって千差万別だ。計量にこだわりすぎるとそれが仇になり、カップ計量がかえって料理を台無しにしてしまうことになりかねない。がちがちの公式に囚われると、料理で最高の尺度は個人の裁量であることを忘れてしまう。」さらに、こんなことも言っています。「どんな料理にも計量は付きまとう。5感も無意識に計算を働かせている。玉ねぎを炒めている時、透明になったか目で見ればわかる。ポップコーンが弾け終わったか耳で聞けば分かる。トーストが焦げそうか鼻で嗅げばわかる。こうした5感の計算に基づいて、たえず評価と決定を下しながら私たちは料理する。容量、時間、温度、重量 ― これは料理を進める指針となる変数だが、優れたテクノロジーを駆使して、より厳密に計算すれば、それだけ料理がうまくなるとは限らない。料理の公式にこだわるとかえって生産性の妨げになることがある。腕のいい料理人の感覚に勝るテクノロジーはない。よくきく鼻、鋭い目、熱いコンロで長年鍛え抜かれた手の感覚、こうした5感はどんな人工の道具よりも雄弁に食物を評価する。」

 まったく、この意見に賛成です。まさに、料理は人間の5感を駆使して行う行為なのです。ですから、料理は、人類しかしないのです。また、それは、子どもクッキングの重要な意味なのです。ということは、子どもにクッキングさせるときに、作ることだけに目が行くのではなく、作る過程で、5感をフルに活用することを働きかけなければならないのです。「いいにおいがしてきたね」と臭覚、「色が変わってきたよ」と視覚、「ぐつぐついっているよ。煮えてきたのかな」と聴覚、「もう少し冷ましてから」と触覚、「ちょっと、味見をしてみよう」と味覚とフル回転です。そして、カップで量ることで、算数の量の体験、そのほか、数、重さ、いろいろな学びが含まれています。

いい加減さ

 いい加減な台所仕事を嫌ったアメリカの料理研究家ファーマーさんは、食材の測定方法に計量カップを使いました。しかし、実は、この計測応報は厳密ではないのです。「キッチンの歴史」の中でもビーさんは、「ファーマーが測定の一方法、カップ計量という手段を選んだのは奇妙な話だ。本来カップ計量は不正確で曖昧なため、誤差が大きくなる傾向にある。」と書いています。

 彼女が提案したカップ計量は、すべての食材を量で表します。それは、液量も、穀量も、バラバラでも、ギュッと詰まっていても、一定の容積の計量カップを使って量るのです。いくら細かい粉のようなものでも、トントンとするとしだいに沈んでいき、もう少し量は増えます。もっと、大きな粒ですと、その隙間のあり方で量が変わってきてしまうはずです。この計量カップで量るのは、重量でなく、容積で量るということであり、「容積測定」とも言われることもあるそうです。

 そんな曖昧な計量ですが、ファーマーさんの影響で、アメリカでは今日でも料理書では、ほぼカップ計量が採用されており、各家庭でもカップ計量が幅を利かせていると言います。その結果、一時期、カップ計量を取りいれたオーストラリアとニュージーランドでは、やめてしまったために、アメリカだけの特徴になってしまっているようです。もちろん、ヨーロッパでも、一般的に液体に対しては容積測定はするのですが、アメリカでは、動植物でも無機物でも何でもかんでもすべての食材を容積で量るのです。

 私は、独身の間、一人ですんでいた時は、すべての食事は自分で料理をしていました。当時は、弁当屋やコンビニ、ファミレスはありませんでした。また、スーパーには、一人用の分量の食材も売っていませんでした。ですから、朝、晩は、料理をしていました。その時に、どうしていたかというと、味付けなどは昨日のブログではありませんが、人間の感覚に頼りました。適当に調味料を入れて味を見ながら味付けをしました。また、ご飯を炊くときには、計量カップでコメの量を測りました。それは、水の量との関係が重要だからです。たまに、米を窯に入れて、人差し指で「お米の表面」から「第一関節部分」までに水を調整して炊いたこともありました。ただ、その中で、きちんと秤でその量を測って料理をしたものがありました。それは、2種類以上の食材を混ぜて、ある意味で化学反応を起こすようなときには、その分量の違いによって、化学変化が起きないことが多いからです。たぶん、そのような料理法は、昔にはあまりなかったでしょうね。

 ということを考えていたら、「キッチンの歴史」の本の中にも、同じようなことが書かれてありました。「優れた料理には、科学の実験のような正確さが求められる。ティースプーン(小さじ)四分の一の塩加減、わずか30秒の違いが、1流の料理と並みの料理の分かれ目となる。レシピとは料理で何度でも作れるようにするためのものだ。科学では、違う研究者がそれぞれに実験しても、正確に再現できる能力を再現性という。レシピの質とはまさにこの点に尽きる。家に帰って、あなたのアップルパイのレシピ通りに私の台所で作っても同じ味になるのが理想なのだ。」

確かにそういうところがありますね。ほんの微妙な量の違いで、全く違うものになってしまうことがあります。ところが、科学者なら容認できないような本質的でない様々な要素の変数に、料理の条件は大きく左右される部分があるところが、料理の面白いところかもしれません。

計量

 「キッチンの歴史」の本の中で、6章の次に私が興味を持ったのが、以前ブログでもその興味について書いた「計量する」という章です。それは、食事道具ではなく、また、「食の歴史はテクノロジーの歴史である」というサブタイトルからは思いつかない分野だからです。もう一つ、訳者あとがきに書かれてある内容に興味を持ったからです。

 「ほとんどの国が食材を重さで量るなか、アメリカ人がカップ計量を好む。」のはなぜかという疑問です。それは、アメリカで、「幌馬車で移動する西部開拓時代に秤よりもカップの方が身近にあったから」と言います。確かに、秤はなかなか手に入りませんね。カップで量る、スプーンで量るための道具は身近にあります。それを、遅咲きの料理学校校長が料理初心者にも手軽にできる計量法を編み出し、普及させたということです。この「計量する」は、第4章で取り上げられています。

 アメリカのキッチンに厳密さという時代をもたらしたのは、「すり切り計算の母」というニックネームがついた料理研究家のファニー・メリット・ファーマーという女性でした。彼女は、「いい加減な台所仕事を嫌った。これを一つまみ、あれを一握りといった態度とは無縁の、きっちりすり切りで計量することを好んだ。」とあります。彼女による20世紀初頭にアメリカで出版された「ボストン・クッキングスクール料理の本」は、1915年に売上部数36万部数を突破してベストセラーとなったのです。そこでは、正確で「厳密な」計量による(安心できる科学的な)調理を全編にわたって主張したのです。「すり切りでカップ一杯、すり切りでテーブルスプーン(大さじ)一杯、すり切りでティースプーン(小さじ)一杯」このような同じ言葉を繰り返し、料理の説明をしたのです。かならず、ここには、食卓用ナイフを使ってすり切りにすることは忘れず、決して、余分な小麦粉が盛り上がることはなかったと言われています。

 こんな時代を迎え、ファーマーさんは、手探りとあてずっぽうの暗黒時代はもう終わり、「確実に一番うまく作る方法として、正確な計量は絶対に必要です。」と書いています。そして、この計量は混とんとした世界に秩序を与える手段であり、ファーマーさんは、中流階級の読者に対し、料理の作り方を教えるだけでなく、台所仕事は完全にコントロールできるという自信を与えたと言います。

 これまでの経緯を見ると、なんだか違和感を感じます。そして、どこか、育児方法の変化に似たものを感じます。調理をするという行為は、人類独特なものです。私は、人類は、計量する道具を元々持っていると思っています。それは、ファーマーさんが嫌った、一握り、一つまみ、それよりももっと正確なものは、「舌で感じる」という調味料を量る道具である「舌」です。

 私は、ブログでも紹介したことがある「乳幼児世界展」というイベントを主催していました。ある年のテーマが「ファジー育児のすすめ」というものでした。その内容は、育児をするうえで、もっと人間が持つ感覚を大切にしようというものでした。体温計で熱を測ることで熱のあることを知るのではなく、抱っこした時に、「あれっ?なんだか熱くない?」という感覚が育児には大切なのです。「なんだか元気がなさそう」「なんだか食欲がないね」という気づきも、育児には大切です。

トング

トングは食品をピンセットのようにはさみ込むことによって、箸よりも簡単に、また、軽い力ではさみあげられる道具です。それは、末端が支点となった構造で、ばねの力で緩く開く状態になるように作られており、先端部は物品をはさんで落とさないようにするために広く、へら状になっているものがあったり、凹凸がついていてはさむ対象に食い込むようになっているものもあります。私の園では、トングは箸のようにものを挟むことでつまむために、箸の練習の初めとして、箸を使い始める2歳児から3歳児にかけて、トングを遊びに使うようにしています。

トングは、昔からつかむものによって、異なった形状のものがあり、使い分けることができるようになっています。熱い石炭をつかむためにはファイヤートング、鍋の肉を裏返すのにはミートトング、傷みやすい緑の穂を扱うにはアスパラガストング、ガーリックバターで滑りやすいカタツムリの殻をつかむにはスプリングの付いたエスカルゴトングなどです。その後の変化について、「キッチンの歴史」の中でこう書かれてあります。「1990年代以降、人々は何にでも使える万能機具のキッチントングを好むようになった。持ち上げる、突く、取り分ける、何でもできる。ここで話題にしているのは単純な作りの安価なトングのことである。ステンレス製で、従来のハサミのようなシザートングでなく、エッジがホタテガイのようになっているものだ。シザートングだと、うっかり食物を切って崩してしまう。」

トングの機能を使うと、コンロ台での調理が敏捷になると言います。それは、あたかも手の先が耐熱のカニのハサミになったようなものであると言っています。それは、表面が焦げた熱いローストチキンのもも肉を持ち上げたり、ピラフからカルダモンポットを一粒一粒取り出したり出来るからです。ピンセットのように正確につかめるし、へらのように音がしません。とくに、トングは短いものが最適だと言います。

本格フランス料理の修業を積んだシェフは、これまで、柄の長い骨でできた先が二股の長いフォークをトングのように使っていたそうです。しかし、フォークだと機能が限られてしまっていました。ゆであがった瞬間に熱湯からリングイネを取り出せないので、ささっと巧みにハム、エンドウ豆、クリームであえることができませんでした。ところが、自在に操れるトングがあれば、コランダーがなくても、パスタサーバーがなくても困りません。手に取って扱う料理道具の中で、トングはナイフ、木製のスプーンに次いでもっとも役に立つ道具であると「キッチンの歴史」の中でビーさんは書いています。

「キッチンの歴史」の本の中で、最初に第6章「食べる」という章を読み進めながら、食事道具を見てきました。それがどうのような意味を持つか、訳者である真田由美子さん(彼女は、特に食に関する専門家ではありませんが)のあとがきに書かれてあります。「キッチンのない住宅など考えられない。キッチンにある包丁、鍋釜類、コンロも普段何気なく使っている。冷蔵庫や電子レンジもあって当然だと私たちは思っている。食卓で使う箸、スプーン、フォーク、ナイフ、皿にしても。ところが、こうした料理道具は先人たちの叡智の結晶だったのだ。そして、人知れず数奇な来歴を宿していたりする。」

この本の著者であるビー・ウィルソンさんは、2009年に「食品偽装の歴史」でアンドレ・シモン賞の最終候補に選ばれています。昨年、日本で大騒ぎになった食品偽装、それに対して警鐘を鳴らしていたのです。

サーバー

食道具というと、食べ物を口に運ぶ道具と、料理をするときの道具についてみてきましたが、もう一つ、料理を配膳したり、自分の皿に取るための道具があります。それを、サーバー (Server) といいます。しかし、このサーバーは、料理を各自の取り皿などにくばるための大型の器のこととして使ったり、フライパンや鍋内の食材をかき混ぜるためのフライ返しやしゃもじのことを指したり、個々人が飲料を摂取するために必要なグラスやカップに飲料を提供する器具のことを指したりします。

そのサーバーの中の使い方で困るのが、バイキングのときとか、立食パーティーのときとか、中華料理のときとかに、大皿に盛ってくる料理を取り分ける時に、スプ-ンとフォークが添えられてくるときに、その二本をどのように使うか迷います。それは、結婚式などの時にウェイターさんなどが上手に、この大きなスプーンとフォークを使ってお料理をお皿に取り分けしてくれるのを見ることがあるからです。どうも、これは、ホテルの料飲部門で働く上で身に付けなければいけない大切なテクニックのひとつだそうです。特に配膳人としてホテルで働く時には、必ずトレーニングさせられるのが、このサーバーの持ち方と使い方のようです。

 このときのサーバーとは、一般的にはサーバースプーンとサーバーフォークのことを指しています。また、サーバーの持ち方には、ジャパニーズと呼ばれる日本のお箸の持ち方をする方法とウェスタンと呼ばれる持ち方の2種類が主流のようです。日本式のサーバーの持ち方は、箸の持ち方が基本になっています。しかし、若干動かせ方は違います。箸は、上にくる箸を上下に動かして使い、基本的に下にくる箸は、固定して動きません。それに対して、サーバーの場合も、下にくるスプーンは薬指に固定し、上にくるフォークは、中指を上手く伸ばしたり、縮めたりして左右に動かします。

それに対して、ウェスタン式のサーバーは、日本式とは、まったく持ち方が異なります。スプーンを上に向け、人差し指と薬指がスプーンの上に、中指と小指が下にくるようにして持ち、次に小指をスプーンの枝の部分を引っ掛けるように曲げます。薬指は反るようにまっすぐ伸ばし、スプーンは、この小指と薬指、中指の3本の指で持つようにします。フォークは、人差し指と親指で持ちます。動かし方は、フォークを固定しながら、中指を握ってスプーンをフォークに寄せ、薬指を開くことによりスプーンをフォークから離します。

なんだか、ややこしいですね。しかし、実際は、日本式で取る方がいいそうです。それは、西洋式は、日本式に比べて、料理を取る時に脇が大きく開きやすいので、サービスマンがお客様にサーバーを使って料理の取り分けをする時に脇が開くとお客様に当たるからだそうです。また、一度銀盆や料理皿にサーバーをおくと、日本式に比べて西洋式ですと、すぐにサーバーを持つことができないからだそうです。

 これを一つにしたのが、「トング(tongs)です。英語では、「火ばさみ」のことです。それは、火を切るのではなく、火種をはさむためのものという意味です。本来は鍛冶屋の道具として「火ばさみ」といわれたものが、 他の用途に用いられるようになったものです。パン店や菓子店などで陳列棚から商品を取るときや、パスタを盛りつけるとき、氷をグラスに入れるときなどに使います。このトングについても、「キッチンの歴史」の中でコラムとして取り上げています。

スポーク2

 私たちは、なぜか便利なはずの「先割れスプーン」にあまりいい印象を持ちません。なぜか、便利な食事道具というよりも、食事を軽くあしらわれた気がするのは、私だけではないかもしれません。先割れスプーンのことを指すスポークは、マッカーサーが発明したという都市伝説は、本当ではありませんが、実は、同性であるオーストラリアのマッカーサーという人が、オーストラリアのバーベキューにうってつけの道具として、ナイフ、フォーク、スプーンの三役をこなす「スプレイド」というステンレス製の道具の発明し、1940年代に商標登録をしたからのようです。

 それに引き続いて、1970年代になると、「スポーク」が商標登録されます。このスポークは、プラスティック製で、ファーストフード店で流通します。それは、価格競争の中で、非常に優秀な商品でした。プラスティック製食器2本が1本の値段で買えるからです。このスポークは、ファーストフード以外にも、大口需要となります。その大口な利用者のことを、「キッチンの歴史」の中で、ビーさんはこう表現しています。それは、「学校、刑務所など、食事を食物摂取の日課として済ませる施設である。アメリカの刑務所で使われるスポークは、一般にオレンジ色のプラスティック製で、武器として使えないことが前提のため、柔にできている。」

 どうも、スポークを使うところは学校と刑務所というところが何とも言えません。というのは、学校と刑務所の建物は兄弟関係にあるからです。日本における学校建築は、とうじの兵隊の宿舎をモデルとしており、兵隊の宿舎は牢屋をモデルにしたと言われているからです。建物も、そこで使う道具も学校と刑務所が同じというのは、面白いですね。また、その二つの施設の特徴として、食事を「文化」として捉えるのではなく、「食物摂取」の日課としているところです。改訂前の保育所保育指針では、「一人一人の子どもの状態に応じて摂取法や摂取量などが考慮される必要がある。」と書かれてあるように、保育園では、食事を文化としてはとらえられていなかったのです。

 また、このスポークは、便利なものとして捉えられたわけではなく、アウトドア用品会社で働くノードウォールさんは、「私には妥協の産物のように思える」と記していますが、たしかに、フォークのように先が使えないし、スプーンのようにすくえません。スープを飲もうとしても隙間から汁がしたたり落ちてしまいます。そこで、ノードウォールさんは、両端にスプーンとフォークをそれぞれつけました。その後、様々なスポークが登場します。ライトマイファイヤーというキャンプ用スポーク、サラリーマン用スポーク、左利きスポーク、幼児用小型スポークなどです。その傾向について、ビーさんは、こう指摘します。

 「これまでの食事用具は、食事を前にしていかに振る舞うべきかといった文化の期待を背負っていたが、スポークは文化というものを持っていない。他の者がどう使おうは、本人が好きなように使えばいい。決まった慣習もなければ作法も求められない。スポークで食べることは、行儀よくも行儀悪くもない。

そして、スポークを使うときのテーブルマナーを皮肉ってこんな紹介をしています。「スポークを使って、発泡スチロール容器からマッシュポテトを食べる時、最後のポテトの欠片を取り出そうとスポークで発泡スチロールを引掻くのではなく、容器の底にある“スポークで取り切れなかったもの”はそのまま残すのが行儀いい。最後のひと欠片までポテトを食べたいのなら、指を使うことだ」

スポーク

 日本における給食の一つの特徴は、先割れスプーンを使うことにあると言っても過言ではないほど、だれでも給食の思い出と重なっているほどポピュラーなものです。これは、先の割れたスプーンのことで、スプーンとフォークが合体したもので、「スポーク」と言います。これにナイフの機能を持たせたものが、「スプレイド」と言い、先割れスプーンのふちの切れ味がよくなっているものです。そして、ナイフの機能を持ったフォークのことは、「ノーク」と言います。また、縁がギザギザのナイフになっているスプーンは、「スパイフ」と言います。そして、スプーン、フォーク、ナイフとすべてが合体した多機能食事道具は、「スポーフ」と言います。
 この中のスポークと呼ばれる先割れスプーンは、もともとファストフード店でもらえる使い捨てのお粗末なプラスティック製で、すくう部分とフォークの先を組み合わせたものでした。そのスポークは、イギリスでは、近年いくぶん皮肉交じりの愛好家が増えているそうです。そして、スポークのためのウェブサイトがいくつかあって、使い方に関する情報「割れた先を内側と外側に曲げ、スポークを立たせる。これこそ、『スポークの斜塔』とか、賞賛の俳句(『スポークや

 先割れスプーン、完成美』)、雑感を発信しています。こんなコメントもあったそうです。「スポークは人間存在の完全なメタファーになっている、スプーンとフォークの両方の機能を結び付けているが、この『二重性ゆえに共倒れになっている。浅すぎるので、スポークでスープを飲むことはできないし、先が小さすぎてスポークで肉を食べることはできない。』

 先割れスプーンは、何とも中途半端な道具です。便利とは、どっちつかずに通じますえ。「キッチンの歴史」のなかで、それを示す面白い逸話が書かれてあります。「ウォーリーというアニメ映画に登場するロボットは、荒廃した未来の地球で、人類が残した瓦礫の片づけをしている。健気にもプラスティックの食事道具を分別していると、やがてスポークに遭遇する。ロボットの小さな頭ではこの新型物質を処理できない。スプーンなのかそれともフォークなのか、スポークは分類不可能な物質だ。」

 また、アメリカ大統領だったビル・クリントンは、大統領時代、ホワイトハウスの特派員協会主催の夕食会で、こんなスピーチを行ったそうです。「スポークは、わが政権のシンボルです。(中略)折衷をいくものに、もはや右なのか左七日の二分法は無用なのです。」このスピーチに、かいじょうは拍手と笑いで沸き立ったそうです。さらに、「これは大いなる新発想です。さすがスポーク!」と冗談を連発していたそうです。

 このスポークの発明に、日本に絡んだ都市伝説があります。1940年代、アメリカが日本を占領していた時代、箸は野蛮な道具であるとマッカーサーは宣言したものの、フォークは、被占領民の日本人が武器として決起する恐れがあるとして危険すぎたので、西洋の食事道具で、なおかつ完全に形を変えたスポークを日本人に強要したというのです。しかし、この話は眉唾で、スポークという名称は、1909年以前が起源と言われているだけでなく、その形はもっと古くからあるのです。19世紀のアメリカの銀食器のうちにも、同じようなものがあったようです。

 それほど、先割れスプーンは、話題の中心になったのです。

機能ではなく文化

 私は、以前のブログでも書いたように、猫舌ですので、あまりに熱いものはすぐには食べたり飲んだりできません。少し冷ましてから食べます。ですから、少し冷めたものでも大丈夫です。しかし、人の中には頑固というか、こだわりが強い人もいるようです。私の猫舌は隔世遺伝で、私の祖父も猫舌だったそうです。その祖父はうどんが好きだったようで、こだわりが二つあったそうです。ひとつは、かならず家で、手打ちで作らなければだめだということ、もう一つは、アツアツのうどんを出してもらって、一緒に団扇を置いておき、熱いうどんをあおいで冷ましてから食べたそうです。最初から少しでもぬるいと、御膳をひっくり返したと母から聞きました。

 社交界の女主人エルジー・デ・ウルフが、1934年に「正餐を成功させる」秘訣として、「お料理は温かいでしょうか、熱々でしょうか」と訊ねているそうです。手で食べるなら熱くない方がいいのです。その時には、室温か室温よりやや温かい料理が理想的なのです。手で食事する国では、料理はこの作法にふさわしい形に発達し、手はフォークやスプーンやナイフが阻害してしまう能力を発展させたとビーさんは言います。例えば、インドのナンについて言えば、ナンを一切れ片手で持ち、もう片方の手でダール(レンズ豆のカレー)のボウルを持ち、浸してすくうと、フォークの必要を感じないと言います。

 指は、他の食事道具の代わりを果たすだけでなく、多くの点で勝っていると言います。作家のマーガレット・ヴィッサーは、「手で食べる人にとって、手は他の食事道具よりも清潔で、温かく、しなやかに動く道具らしい。手は音を立てず、温度や質感に敏感で、優雅である ― ただし、作法を習熟した手つきに限ってのことはいうまでもない。」と言っています。確かに、アラブ諸国では今でも手で食べることが標準だそうですが、食物を手から口へ運ぶ動きが実に起用で、敏捷です。食事中行われる多くの所作は、フォークでは真似できません。ご飯を丸めてすくい上げ、ご飯にラム肉やナスを一切れ詰め込んだかと思うと、ポンと行儀よく口の中に納めます。こんな申し分ない無駄のない動きを他の食事道具でこなすことはできないのです。

 「キッチンの歴史」の本の中で、食事道具のテクノロジーは、機能の面だけから理解することはできないと言います。実用性だけを考えると、ナイフ、フォーク、スプーンの3点セットあるいは箸を使えばできるのに、指とボウルを使ってできないことは(ある種の切る道具も使っていると考えると)ほとんどありません。食事道具は、あくまで文化的な存在であり、どんな食物をどのように料理し、その料理を前にしてどのようにふるまうかという価値観が伴うものであるというのです。そこで、誕生したのが、「スポーク」という食事道具です。「スポーク」というのは、なんと、先割れスプーンのことです。

 スポークとは、ナイフ、フォーク、スプーンの機能を備えたもので、この言葉が最初に辞書に載ったのは1909年で、商標登録がされたのは1970年になってからのようです。商標も現物も「スプーン」と「フォーク」が合体したもので、スポークという言葉もそれが合体した言葉です。いわゆる、消しゴム付きの鉛筆のように、技術分野では「組合せ型」製品と呼ばれるものであり、二つの発明を結びつけている道具なのです。

手づかみ

 食べ物を食べる時の道具としては、スプーンやフォークと比べて箸は万能に近い気がします。それは、箸の動きが手の指の動きに似ているからかもしれません。ということは、どんな食事道具よりも万能なのは、手かもしれません。以前、インドに行った時に、手で食べる文化を紹介しました。それは、ある保育園で、乳児が手づかみで食事をしようと動かした手をはたいて叱るということを聞いたからです。手で食事するのは、野蛮で良くないと思っているからでしょう。「キッチンの歴史」の中の6章食事の中でも手で食べることについて取り上げています。

 「歴史とは、理に適っていないことと定義できる。だから、素手で食べることに対する偏見は、実のところあまり根拠がないとわかっても驚くことはない。食物に手で触れるのは不潔なしるし、手で食べるのは不作法な証拠。この二つの偏見をよくよく検討してみると、根拠のないことがわかります。」と言っています。

 事実、ナイフやフォークやスプーンがないからといってマナーがないわけではないと言います。一貫して手で食べようとする人々の間では、入念な手洗いが食事のしきたりになっているからです。それを、こんな例を挙げています。「ヘンリー8世が手づかみで食べたのは下品なテーブルマナーだと笑い種になっているが、それでもサンドイッチを食べる多くの現代人に比べれば、国王は衛生とエチケットにはるかに心を砕いていた。国王の肉を切り分ける侍従は専用のナイフで食卓からパンくずを払っていた。介添えの侍従がナプキンを用意し、王の衣服から食物のくずを払い取った。食事の最後には、貴族が跪いて水盤を差し延べ、手についた食物の汚れを洗い落とした。ヘンリー王の手づかみの食べ方を笑う私たちのうち、食事中に王の半分ほども清潔を保つものがどれだけいるだろうか。」

 原始の時代は別として、食道具が発明されてなお手で食事をするのは野蛮だということではなく、手が食道具であるとしているのは、それなりにルールなり、作法があるからでしょう。その一つが、手で食べる食文化では、人々は清潔に対してきわめて敏感な傾向があるようです。古代ローマ人は、頭のてっぺんから足のつま先まで洗ってからディナーの望んだのです。砂漠地方のアラブ人は砂で両手をこするそうです。今日多くのアラブ人はフォークとスプーンを使いますが、伝統的な中東の食事の前には、招待客はソファーでもてなしを受け、そこで手を洗うようです。

 手で食事をする人は、どの指を使うかにも気を遣います。左手は、トイレで使用する「不浄の」手なので、食事の際使わないということをインド報告の時に書きましたが、右手のどの指を使うかにも制限があります。食物を手でつかむほとんどの食文化では、親指、人差し指、中指だけを使うのが礼儀正しいとされています。みんなで取り分ける料理の皿からあわてて自分の分を取るのは良くないとされています。食物を咀嚼し終わらないうちに、次の食物を噛み始めるのも行儀が悪いのですが、このルールは、ナイフとフォークのマナーにはないそうです。

 しかし、手で食べることのできないものがあります。それは、熱い食物です。たしかに、手で食べる文化では、ホットプレートやジュージュー熱い食物に対して、あまり愛着がないそうです。

箸4

 「キッチンの歴史」という本の中で、「割りばし」こそが、「食のテクノロジーで何を好んで受け入れるかは、機能よりも文化の力が大きく物をいう」ということの好例といえると書かれてあります。その本の割りばしの説明は、「使い捨てで、縦半分に割って使えるよう途中まで切り込みが入っている木製の安価な箸」であると書かれてあります。そして、発泡スチロールのカップと同じ性格を持ち、現代の西洋で考えられたと思われがちですが、実は、日本で18世紀に外食産業が誕生してからずっと使われてきたものであるとしています。料理店が、一人一人の客に新しい箸を出すことは、口に入れるものが不潔ではないことを客に保障する最良の方法だったと書かれてあります。

 しかし、この割り箸に関してエコの面から問題が起きています。もともと、割りばしは、江戸時代に「引裂箸」と呼ばれ、杉から作られ、吉原の有名な茶屋や高級料理屋で使われていたそうです。そして、現在、普及している木製の割り箸は、明治時代に、奈良県の吉野で樽材として使っていた杉の端材を有効に活用することから生まれたものです。端材とは、樽の製造過程で必要な部分を切り取ったときにできる余った木片などのことです。今でも、日本製の割りばしは、丸太から建築用材を切り取った時に出来る端材や残材、間伐材と使って作られており、決して割り箸を作るために伐採された木は使ってはいません。むしろ日本の割り箸の生産は、山村経済の活性化につながり、間伐等の森林の手入れを促進します。そして、荒廃が目立つ今の日本の森林を、CO2をたっぷり吸収する健全な森林につくりかえます。
 しかし、現状は国産の割りばしは、衰退傾向にあります。主な理由は、安い外国産材の割り箸が輸入されるようになったからです。現在、日本で使われている割り箸の約97%は外国産で、そのうち中国産の割り箸は98%を占めています。平成5年には、300軒以上あった国内の割り箸工場も現在は100軒程度になってしまっているそうです。

日本の割り箸使用量は、年間227億膳にもなり、それが使い捨てにされているのです。しかし、その使い捨ての割りばしを好む傾向は、中国にも広まり、今や中国では年間630億膳が生産されているそうです。日本の割り箸は「資源を大切にする心」から生まれた日本独自のアイディア商品ですが、状況はどんどん変わってきているようです。

 このあたりの事情を、「キッチンの歴史」の中で書かれてあります。今や中国では年間630億膳が生産されているそうですが、2011年に人口13億人の割りばし需要に供給が追い付かず、アメリカジョージア州の製造工場が助っ人を始めたようです。ジョージア州は、ポプラやモミジバフウの森林資源が豊富で、こうした木材は軽くてしなやかなため、漂泊処理しなくても箸を作ることができます。数十億もの割りばしが今やジョージアから中国、日本、韓国のスーパーへ輸出されており、すべてに“メイドインUSA”のラベルが貼られているそうです。
 どうも、日本で使われている箸は、中国産というのは少し前までで、今や、中国の大きな消費国になってしまっているのですね。割りばしは、国産の間伐材などを使っているから、環境についての問題はあまりないという認識は甘いようです。

最近のレストランでは、割りばしではなく、使いまわしの箸のところが増えてきましたが、やはり、もっと意識した方がいいかもしれません。