積み木と社会性

 私は、最近人類学的に、また進化論から見る人類の特徴を見る時に、ヒト族の中で唯一生き残ったホモ・サピエンスは、協力という手段をとることで生存してきました。それは、遺伝子の中に組み込まれた営みなのです。そして、人類は育つ中でそれを学んでいきます。社会の中での多様性、その中での自己肯定感、それは、ホモ・サピエンスの子孫である私たちは育つ中での様々な体験から学んでいくのであって、大人からの知識の伝達で学ぶわけではありません。そこに、私はフレーベルが考えた恩物やモンテッソーリの教具の欠点を見る気がします。一人で机の前に座り、恩物や教具と向き合って、黙々と学んだり、作業をしたりする姿は、工場労働者が、言われたことを黙々とやっている姿とダブってしまいます。それは、決して、恩物や教具がひどいということではなく、それ自体はよく考えられ、きちんと発達や学びにそって序列化されていることは、大いに保育をするうえで参考になります。

 そうなると、積み木も最終的に一人で黙々とつくることだけでなく、二人以上で、集団で、協力してつくり上げるものである必要があります。そして、それは、何かの形が先にあって、その作品が大きいために集団で協力して作るというのは幼児ではあまり意味がありません。集団で作っているうちに、様々な発想が生まれ、作品が変化していくようなことが必要です。しかも、その広がりが、上に伸びるだけでなく、水平にも広がっていく発想が必要になるのです。そこでも、集団における試行錯誤がチームワークを作っていきます。

 そして、最後に積み木のとても大切な役割を考えます。それは、現代における課題にも関係することで、私が現場での子どもの姿から考えたもので、フレーベルでいうところの「分解」と「統合」についての新しい考え方です。

ブロックを子どもに用意した時に、乳児はその形、素材を確かめるかのように「見つめ」「触り」「舐める」ことをします。そして、積み始めます。その後の行為は、保育園でなければなかなか見ることができないことをし始めます。それは、赤ちゃんは「積み木を見つめる」ということを、自分の目の前の積み木だけでなく、他の子が触れている積み木を見つめるのです。そして、それを触ろうとします。tomonisawaru同じものが自分の目の前にあろうが、他人のものに触ろうとします。これは、大人になると、「隣の芝生は青い」と言われるようなことに近いように思いますが、どうも、社会を構成して生きていく私たちの遺伝子で、関わろうとする芽生えのような気がします。

また、その行動は、時として、あたかも人が遊んでいる積み木を奪うかのように見えます。しかし、奪うという意識はなく、まだ、自分のものと他人のものという区別がないだけで、それ以上にそのものへの好奇心がそのようにさせるのです。しかし、奪われた方は、せっかく自分が遊んでいるものを取られてしまうわけですから、きょとんとするか、泣いてしまいます。そんな時に大人は喧嘩しているとか、意地悪しているとか思ってしまうことがありますが、ただそのものに興味を持つだけです。しかしこのやり取りは、将来に役に立つ、非常に需要なことなのです。
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