向き合う

 積み木は、フレーベルが考えたわけではありません。多分、昔から子どもたちによって遊ばれてきた同じような積み木があって、それをきちんと整理をし、並べ直し、子どもへの経験として説明をつけたのが恩物だったのでしょう。フレーベルは教育的努力は、人間を、個々人においても、全民族においても、全人類においても、 自己にもどすこと、自己自身へ還らせること即ち自己理解と自己意識へ、また自己創造と自己活動に向かわせることにあると考えました。それを具体的に「分離」 と 「統一」を体感するために「恩物」がつくられ、子どもたちに与えられたのです。

それは、彼が人生の課題として出している次のような例に見ることができます。「かの庭師や農夫が、彼らの作物を自然との全面的な関連において完成させ、あらゆる要求に応じて育てているのと同じような方法で、子どもや人間を、その本性、その内的法則に忠実にしたがい、生命や自然との濁りなき融合において、一切の生命の根源と絶えざる融合において観察し、発達させ、そして教育し統治するように、われわれが努力することによってである。」

しかし、私はその言葉に彼の恩物における問題点を見出します。彼は、教育において農夫と彼らが育てている作物と向き合わせています。それは、恩物が、子どもはある一個の対象物との関係において、「子どもが自分自身で自己活動的に、さらに進んで、かつもっと完全に発達することのできる、そういう対象物を必要とするのである。」と言っています。それは、対象物は外的活動、身体活動のためというよりもむしろ内的活動、精神的活動のためのものであり、いかなる対象物が彼自身の真の対立的同一物として提供されるかは最も高い意義をもつことがらであると位置づけています。

その思想に対して、以前のブログでも紹介しましたが、デューイらの経験主義、児童中心主義の教育運動は、当時の形式化しつつあったフレーベル主義者やモンテッソーリ主義者による教育への批判とともに、フレーベルの「恩物」やモンテッソーリの教具の本来的教育的価値について疑問を持ちます。デューイは、こう言っています。「恩物自体には幼児を引き付ける魅力が十二分にあるのだが、幼児の自由な遊び方を許さないほど系列化・体系化された保育方法に難点がある。」

それに対して恩物を研究している山口大学幼児教育学教室の荘司泰弘氏は、「恩物が両親教育・家庭教育に主体を置いている点を軽視している」と反論しています。デューイの経験主義、児童中心主義は、学校などの施設での理論だというのです。この反論は、全く私と同意見です。それは、モンテッソーリの教具にも言えることで、農夫が作物と向き合うように、子どもと恩物、教具と向き合う話であって、それは、両親教育、家庭教育でなすべきことだと思います。

子ども集団があり、複数の保育者がいる保育園、幼稚園で、果たしてこの序列化した恩物を丁寧に子どもたちに知らしめることができるのか、また、その必要があるのかというを考える必要があると思います。子どもと恩物と向き合うのであれば、家庭でも十分と体験できます。むしろ、家庭の方が両親から丁寧に体験していく手順を教えてもらうことができます。それとも、塾とか、小さい子どもの家のような環境で学ぶべき手順の気がするのです。