積み木

フレーベルというと、キンダーガーデンという幼稚園創始者としての業績は誰でも知っています。また、フレーベルの恩物という教育遊具が、幼児教育に使われていることは何となくしている人は多いかもしれません。しかし、具体的に何が恩物で、フレーベルはどうしてそれを恩物として考えたかは、あまり深く語られません。しかし、それを知るには、フレーベルの思想自体を学ばなければなりません。それは、昨日少しふれましたが、ずいぶんとその解釈は難しくなります。それは、モンテッソーリの考えた教具についても言えます。

確かに、フレーベルが考えた恩物は自然界にはない完全な形をしているものが多いです。ですから、どうしても形式化していきやすく、アメリカにおけるデューイらの経験主義、児童中心主義の教育運動から見ると、批判の対象になりやすいのです。しかし、その批判も、経験によるだけでなく、科学・技術・芸術の体系を年齢にふさわしい内容と方法で習得していくこと、ものごとの本質についての学習も必要と唱える本質主義により批判されていきます。

そんなこともあり、当時、日本では倉橋がフレーベルの恩物を思想から切り離して、独立した遊具として用いたのです。それが、積み木として取り入れられていったのです。この機能が生かされるのが、フレーベルが考えた「第3恩物 立方体の積み木」「第4恩物 直方体の積み木」「第5恩物 立方体と三角柱の積み木」「第6恩物 立方体と直方体の積み木 」でしょう。確かに立方体や三角柱や円柱のような積み木にある形というのは、この自然界にはないものですが、子どもはそういった幾何形態を、舐めたり、手で持ったり、握ったり、投げたり、目で確かめたりしながら、積み木遊びを通して、からだ全体で色々な形とその関係を経験していくという機能を取り出したのです。

これらの形について、無藤氏は面白い分析をしています。「正円、正三角形、正方形が基本であるということについては、たぶん根拠がないだろうと思います。これは進化論的な話ですが、10万年前なりのホモ・サピエンスですけれども、その人類が正方形とか正三角形とか正円、あるいはその立体物としてのボールとか、立方体とか、そういうものを身近に持っているか、あるいは見つけられるか、あるいは生産できるか。10万年前といったら旧石器時代ですから、黒曜石だとか固いものを割って斧の刃になるとか、そういうのはありますが、それは幾何学的な意味ではきれいな形をしていません。つまり、われわれの図形認識というものがこれらをベースにしているということは、進化論的に非常に考えにくいわけです。」

多分、そんな考え方からシュタイナーでは積み木は、自然物である木の枝、小石、貝殻などを使います。オーストリアにあるシュタイナー園に行くと、ブロックゾーンには、そんな自然物が置かれています。ただ、たしかにそれらは自然の中、森の中などにある物ですが、それを見た私の園の職員は、「これらを使って、子どもたちはどうやって遊ぶのだろう?」と不思議がります。それは、私の園にもそういった自然物を置いたことがあるのですが、子どもたちはそれらを使いこなせませんでした。その園の園長先生に聞いたところ、それらは、並べて模様を作るとか、その形を何かに見立てて遊ぶということでした。それを積み木のように、いくつか使って何かを作ったり、積み上げては遊ばないようです。
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では、無藤氏の言った古代の人類において、子どもたちはどうやって遊んだのでしょうか?私は、たぶん、シュタイナーの園のように模様を作ったり、何かに見立てていたように思います。それともう一つ、それらを投げて遊んだ気がします。

では、フレーベルは積み木をどう考えたのでしょうか?

積み木” への9件のコメント

  1. 積み木はフレーベルの恩物を思想から切り離し、独立した遊具として用いたものだったのですね。普段、目にしている積み木にもそのような物語があるということを知るのはおもしろいです。積むのに適したものはやはり加工された規則正しい物になっていきますね。自然物を積むというのはなかなか難しいですね。石を積むというと地獄の話を思い出してしまうのですが、石も同じ形のものはまずないと思うので、積むとしてもそれぞれの形の違いを考え、それを踏まえて積み上げていかなければなかなか高くは積めません。確かに、考えてみれば自然の中に正円や、正三角形を見つけるのは困難です。ですが、完璧な球体もまた人の手でそう簡単には作れないという話を聞いたことがあります。地球は完璧な球体なのでしょうか。理系の方々がこの世界や宇宙を把握する上では、そのような幾何学的な要素が必要になるのかなとも想像します。理論を構築する上では必要な要素なのかもしれません。どんどん気になってきました。

  2. 私たちも子どもの頃に積み木にはお世話になりました。保育園に行くと、大きな積み木がありました。三角柱や円柱、直方体や立方体などなど。大型積み木というものでしょう。保育園で経験して家に帰ってからは小さい積み木で遊び始めましたが、数に限りがあったり、長さや大きさが決まってだんだん飽きてしまいました。それでも幸いなことは大工の父の仕事場には材木の切れ端があってそれはたいてい直方体か三角柱なのですが、大きさや長さのバリエーションに飽きることなく遊んだものでした。我が国の「積み木」の歴史はフレーベルから始まるのでしょうが、私自身の経験から木材加工が多かった我が国の伝統の中にも既にして「積み木あそび」があったような気がしますが、実際はどうだったのでしょうね。家や生活の中では、柱の円柱や漏斗などの円錐形のもの、完全な形ではないにせよ、直方体や立法体形のものもあったでしょう。「古代の人類において、子どもたちはどうやって遊んだのでしょうか?」ということになると、さらに深い部分の話になっていきますね。人類史学的考察あるいは民俗学的アプローチが必要になってきますね。「フレーベルは積み木をどう考えたのでしょうか?」明日からのフレーベル積み木理論を楽しみにしております。今回は東京に向かう夜行バスの中でコメントしてみました。

  3. フレーベルの思想自体を紐解いていくことで「恩物」や「積み木」の考えを理解していくのはとても面白そうですね。人がどういった思いでその物を作ったのか、その人には子どもがどう映っていたのか、子どもにどんなことを期待していたのか等、思考の原点を知ることに興味が湧いています。自然物では高く積みあげることが期待できないことは一目瞭然ですが、それを可能にしたのが積み木ということでしょうか。高く積み上げることで、何を目的としたのかはわかりませんが、子どもを見ていると、目と手を上手に使って慎重に積み上げたり、崩れてしまった時の音や、物が散らばる様子に興味を持っている印象があります。幼児になると、積み上げた物を別の何かに見立てて遊んでいる姿もあります。形の認識以外の何かであるなら、形が変わる(なくなる)経験、物の動きかた、創造的思考の構築などが想像できますが、実際にはどうなのでしょうか。子どもの姿から何が見えてくるかは、その人自身の思想による要素が大きいということを認識すると、思想が子どもの本質をとしっかりとらえていることが重要であることを感じさせてくれます。

  4. 「恩物」から「積み木」に考えが移行していくことで、なんとなくその経緯が分かるような気がします。どこか抽象的で学術的な部分を、もっと現場でどう用いていくかと考えたとき、確かに倉橋氏のように思想から切り離すといことは必要だったのではないかと思います。自然物のなかで、綺麗な形を探すというのは難しいです。無藤氏のおっしゃるように今のきっちりとした図形認識は進化論としては不自然なのかもしれません。どう、昔の子どもたちは自然物を利用して遊んでいたのかは気になるところです。積み木というおもちゃ一つでいろんなことが掘り下げられ、いろんな思想がそこに反映されているというのを感じます。フレーベルはどう捉えているのか、また、藤森先生はどう考察されるのかがとても楽しみです。

  5. 自然界にある形とそうでない形、それらに対して子どもたちがどんな反応を示すのか、そしてどんな遊び方をするのか、そういったことも比較して考えられるようにならなければと思っています。自然物と積木などでは子どもたちの遊びや反応がそれぞれどうなるのか、今聞かれても答えることができません。子どもの姿を通して知っておく方がよさそうです。フレーベル、デューイ、シュタイナーと続けて登場してきました。以前のブログでもありましたが、時々登場するこうした話に瞬時に対応し切れないのが悲しいところですが、なんとかついていこうと思っています。

  6. 積み木だけで、ここまで深い内容に触れる事ができて毎日、新鮮に読んでいます。ただフレーベルが言う恩物というのは、あくまでも積み木ではなく立体物を知り、幼児の自己表現を身につける。それに対してシュタイナーは自然物を保育に取り入れて、写真のような木の切り株などを保育室に置いて、子ども達が遊びますが瞬間的にどうやって遊ぶのか?と感じますが、それなりに遊ぶのでしょうね。それよりも恩物を考えたフレーベルが考える積み木の考え方は気になりますね。

  7. フレーベルの積み木をどう考えたか気になりますね。シュタイナーの考えを読むと確かに自然物しかなかったのだから自然の素材を置き環境を作るというのは少し納得がいく感じはしますがやはりそれを置かれたところでどう遊んでいいのか迷うところがあります。現在の積み木では幅広く遊べる玩具として代表的であり、立体物も理解でき、木の感触にも触れることができる。慎重に積み上げるなどして指先の発達にも良いですし、色々な見立て遊びをすることで想像力も豊かになります。幼児クラスになると驚くほどの作品も作り上げます。積み木は子どもや大人までも夢中にさせてくれます。現在ではカプラといった積み木のような玩具も出てきていて更に幅は広がってきています。そんな広がりを考えてみるとその原点でもある恩物がどのような意図で形作られてきたのが気になってきますね。

  8. 積み木についてだいぶ深いところまできましたね。私自身も子どもの頃から普通に積み上げたりして遊んでいましたが、積み木についてここまで学んだ事はなかったですね。確かに保育室で赤ちゃんが積み木にしても円柱状のゴムホースにしても握ったものはまず、舐めたり投げたりしている印象が強ですね。「積み木」とは関係ないかもしれませんが、以前に藤森先生とドイツの森の幼稚園を見学させてもらった時は自然物である松ぼっくりや落ち葉などを使って「数」についての勉強をしていましたね。積み木というところでどういった考えがあったのでしょうか。

  9.  無藤氏の分析はとても興味深いですね。自然にあるもので遊んでいた子どもたちを想像したり、整った形でしか遊んだことのない子どもたちを想像したりしました。どちらが良い悪いでないということは言うまでもないことなのですが、それを提供しようとする大人側が意図をもつ必要があり、それが即ち専門性ということに繋がるように思うのですが、その上では、知らなくてはならない知識だと思います。
     先生は積み木を考える際に「投げて遊ぶ」ということによく触れられる気がします。実際に0歳児クラスの子どもたちはよく投げます。投げるイコール怪我になる、という認識を改める必要があるのかもわからないと感じ、だからこそ積み木やブロックの空間を構成すると、そのスペースはその分大きなものになる必要が出てくるのか、と愚考しました。

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