「ハレ」の体験

現代は、「ハレ」と「ケ」の区別のない時代ともいえます。または、区別が明確でなくなったともいえます。正月は特別な日でなくなってくると、その日を楽しみに待つということが薄らいできます。私の子どもの頃は、「もういくつねると、お正月」と歌いながら、お正月が来るのを指折り数えて待っていました。すると、日本古来からの文化としてのお正月が「ハレ」の日でなくなると、人は年始のけじめを意図して、「ハレ」の日をつくろうとします。そこで、それほど信仰心がなくても、その地の鎮守様ではなく、大勢が有名な神社に初詣に出かけます。お正月の箱根駅伝が、高いテレビ視聴率を稼ぎます。何かで、お正月を感じようとします。

子どもたちも、日常生活にいろいろな楽しみが多いために、お正月だけに許される遊びがあるわけではなく、お正月だけ大人が遊び相手になってくれるということもなく、同じような遊び方をします。東京では、すでにそんなことはなかったのですが、以前、夏休みに田舎に行った時に、子どもたちが一生懸命花火をやっている姿を見ました。聞いてみると、夏のお盆の間しか花火をしてはいけないので、やっと解禁になったということで、必死になって1年分やっていると聞いたことがありました。「ハレ」の日の楽しみな行事としてやっているのでしょうね。

そんなことがあり、人間はこんな時代でも「ハレ」を求めるものです。連休になると、どこかに行きたい。ボーナスが出たらこんなものが買いたい、今度の休みには、おいしいものを食べに行きたい、など計画します。しかし、訪れる先には、どんな「ハレ」があればいいのでしょうか?ボーナスでなければ買えないものは何があるのでしょうか?おいしいものは、どんなものでしょうか?人間の欲望はきりがありません。かつての「ハレ」が「ケ」になると、新たな「ハレ」を見つけようとします。次第に刺激の大きいもの、その時代に必要なものを求めていきます。それが、人類の進歩、発展、様々な発明をしていくエネルギーになってきたのかもしれません。これからも人間は新たなる「ハレ」を求めてつぎつぎといろいろなものを作り出していくでしょう。

しかし、同時に、かつての「ハレ」も見直し、大切に引き継いでいくことも必要です。それが、文化なのです。冠婚葬祭、年中行事、しきたり、それらを大切にし、それらの「ハレ」を待ち望む子どもたちの姿を大切にいなければなりません。私の園で、集団給食改善都知事賞を受賞したのは、食育3本柱として「栽培」「料理」「共食」であるとし、これらは人間しかしない営みであり、その一つの効果は、「待つ」力であるということの提案です。かつて、子どもたちにとって「ケ」の毎日の中で、「ハレ」の日は、待つ力を育んできたのかもしれません。それは、生きる目的になったり、毎日のハリであったりします。

「栽培」とは、日本では、稲は夏に田植えをして秋には刈り取るまでを言います。刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。この祭りを大人も子どもも待ち焦がれます。それは、祭りが楽しいだけでなく、育てていた稲が実を結び、収穫があるからです。それを待ち、祝うということが生活リズムなのです。このリズムは、日本では四季が織りなしていきます。園で、栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。

「ハレ」の体験” への10件のコメント

  1. 「ハレの日は、待つ力を育んできたのかもしれません」との言葉からいろいろなことが思い浮かんできました。現代では待たなくても済むことが多くなりました。便利は待たないということでもあるのかもしれません。Amazonでも読みたい本をクリックすれば直ぐに届きます。ですが、早く手にしたい私としてはこの数日でも待ち遠しい限りなのですが、やはりそのスピードは待っているという感覚よりもはるかに早いものだと思います。待たなくてもいいということはなんでも思い通りになるという錯覚にもなるのですかね。「子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです」とありました。まだ、この「ケ」と「ハレ」について具体的にどうしていけばいいか掴めていませんが、諦めずにいろいろ考えてみたいと思います。「ハレを待ち望む子ども達の姿」大切にしていきたいです。

  2. 「ケのハレの体験をさせることに意味がある。」
    「子どもたちにとって「ケ」の毎日の中で、「ハレ」の日は、待つ力を育んできたのかもしれません。それは、生きる目的になったり、毎日のハリであったりします。」
    「待つ力」という表現に鳥肌が立ちました。
    私ごときが大変僭越ですが、学習指導要領の「生きる力を育む」の重要な基礎的要素ではないかと思いました。
    ついコメントを書き込んでしまいました。申し訳ございません。

  3. 「ケ」が「日常的なこと」、ですから、「ハレ」は非日常、日常では体験できないことを体験できる機会になりますね。私の田舎の町の人々は、年に1回の秋祭りを本当に楽しみにしています。パチンコ以外大した娯楽もなく、近年は大津波の影響で、心も体も疲弊しきっています。そうした日常・ケが続いています。だからこそ、「ハレの舞台」となる秋祭りは年に1回、皆がはじけることができる時なのです。お盆や正月に帰省しなくてもその秋祭りに帰省する人々も多くいます。地元を離れて仕事や学校に出かけていて、日々の暮らしに耐えながら、その日を待つのですね。ハレとケのメリハリが明確です。今後ともこの傾向は続くのでしょう。続いてほしいと思います。さて園における「ハレ」と「ケ」の考え方は重要ですね。春夏秋冬に「ハレ」があります。「ケ」の中で過ごしながら「ハレ」を待つ。そうそう、キリスト教のあの「アドベントカレンダー」も「その日」を待つカレンダーですね。こう考えてくると、「ハレ」という楽しみを「ケ」という日常の中で「待つ」存在が私たち人間なんだということが見えてきますね。「子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味がある」ということの意味がよくわかります。子どもたちが楽しみにしている食事の時に「こんなに待たせて・・・」という人は「ハレ」を知らない人なんだということがわかります。「ハレ」と「ケ」のブログによって、実に様々なことが見えてきました。

  4. 「ハレ」と「ケ」の関係性が、「待つ力」をも育んでいるとは思ってもいませんでした。待つことは、一見マイナスイメージを持ってしまいがちですが、待つことで幸福感や充実感といったものが感じることができるのであれば、待つことはむしろプラスに働きますね。収穫を待ち望んでいた人々にとっては、実りを待つためには必要な時間であったように、私たちには、生活にハリとリズムをもたらせてくれるものが「ハレとケ」であり、そして「待つ力」なのですね。子どもたちが、夏のお盆の時期に一生懸命花火をしていたというお話も、もし、一年中手の届く場所に花火が置かれていたら見られなかった姿であったかもしれませんね。適度なルールや制限が、子どもたちにメリハリをつけさせ、「ハレ」を十分に味わおうとする意欲へと向かわせていたのでしょうか。ハレを求めて、様々なものが作り出されていくとなると、「ハレ」の日を待ち望むような「ケ」の日を、さらに大切にしなくてはなりませんね。

  5. ここで述べられていることとは少し違いますが、待つことに焦点を当ててみると、例えば携帯電話がなかった頃は誰かと待ち合わせをするときにも大変な思いをしていました。相手は今どの辺りにいるのかを考えたり、果たして待ち合わせの場所と時間は合っているのか不安になったり。そんな思いをして会えたときのホッとした気持ちは、今は携帯電話の普及でなくなってしまいました。だからといってそれが良くないとも思えませんし、要はそれだけになってしまってはいけないということだと思います。できるだけ時間をかけずに結果を出すことが望ましいという価値観が主流になっている時代なので、気長に待つ栽培やたまにしか来ない文化的行事は、どちらかというと丁寧に扱われなくなってきています。でも、今のような時代だからこそ、待つことが必要な行為を大事にしてバランスをとることが必要なはずです。それを保育園ではハレとケを子どもたちに体験させるという今回の内容は、丁寧に読み取っていきたいと思います。

  6. 昨年のある時期、思い立って懐かしい寅さん映画を見まくったことがあります。心に大きな重荷を背負った時には、無性に笑いが欲しくなります。寅さんは笑いだけでなく日本人が忘れ去った家族愛や人情、高度成長によって失われた古き良き時代の田舎の風景を思い起こさせてくれます。初期の映画には煙たなびかせたSLまで登場します。この映画は映像の文化遺産とも言えます。

    正月。とらやの面々は、めいめい着飾って年賀のあいさつを交わしています。おせち料理をかこんで、「今頃寅のやつはどこでなにをしているやら」。外の参道では帝釈天へ向かう初詣の客で大賑わい。ハレの日の縁起物の獅子舞が正月気分を盛り上げています。近くの江戸川のほとりには凧が空高く舞い踊っています。

    ―そんな正月の風景はもう過去のものになりました。今、BSジャパンで毎週土曜日の夜、「男はつらいよ」を放送しています。「ハレ」の体験を生活に置いていたかつての日本人の姿をそこに見ることができます。

  7. 「待つ」ということを考えることが多いです。保育の中でも「待つ」ということをさせないようにという人もいます。少し話がそれましたが、最近の生活の中で「待つ」ということの少なさを感じることがあります。また、待つということに慣れていない子どもたちが多いのも感じます。生活の中で「ハレ」と「ケ」があるのは生活のメリハリだけではなく、待つということも同時に伝えていたんですね。小学校の様子を見ていても待たせるにしても「ただ待たせる」ということが多く、待たせ方を考慮していることが少ないように感じます。今回の「ハレ」と「ケ」のように、どこかで「待つ」ことの楽しみや見通しというものが最近では少ないのではと思うことも多いです。とくに保育という現場においては時に待たせることが多いです。そのため、生活のメリハリをもたせるためにどうすればいいのか、「ハレ」と「ケ」という考え方から読み取れるものはとても多いように思います。

  8. 確かに夏にしかできない花火、冬にしかできないスキーなど季節によっての「ハレ」の日があるので、大人も子どもも同じように特別な体験をします。1年間365日がある中で日本は季節がはっきりと分かれていますね。そのお陰で「ハレ」と「ケ」の絶妙なバランスによって日本人の生活にメリハリを与えてくれているように思います。しかし地球の温暖化によって少しづつ季節感がおかしくなっている気がします・・・少し大きな話になってしまいましたが、季節によって食べられる野菜、体験が違うことを、いつしか当たり前のように感じて生活をしていますが、よく考えれば季節のおかげで私たちの生活にメリハリを与えてくれています。新宿せいが保育園の食育3本柱はただ子どもたちに食の大切さを伝えると同時に、「ケ」と「ハレ」を体験させるという深い意味があったのですね。

  9. 「園で栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。」という最後の所を読み、ここに繋がるのかと頭が下がる思いです。野菜を育てるには時間も手間もかかり、一生懸命育てることでより一層『ハレ』に対する気持ちも大きくなり、そこに生まれる『待つ』、待ち望むというような感覚も生まれるのでしょうね。それは生活にメリハリを生んでくれる大切な体験ですね。そう考えると食育というのは『待つ』ということが大きく影響してくると考えます。近年は便利な物が多く普及し『待つ』ということが減ってきているように感じます。それを踏まえ子ども達と一緒に栽培やクッキング、四季の行事を通し『ケ』と『ハレ』の体験を大切にしていきたいと思います。

  10. 「ケ」と「ハレ」の関係から「待つ力」が育つとは想像もつきませんでした。ブログにあったように、野菜を栽培し、それをクッキングで楽しむことは、まさに「ケ」と「ハレ」の関係で、そう考えると色々なものがつながった気がしました。そして同時に、その関係性を知らないと、「食べ物を大切にする」、「みんなで食事を楽しむ」という体験はできても「待つ力」にはつながってこない気もしました。
    子どもたちの貴重な経験の場として、保育や日常の中の「ケ」と「ハレ」の体験を考えることを、大切にしていきたいと思います。

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