就学前から高校

 バラック・オバマ大統領は2013年2月12日、二期目就任後初めての一般教書演説を行いました。その中で、就学前教育について触れています。昨日のブログに引き続いてこのように演説しています。「ジョージア州やオクラホマ州のように、最も早い時期の子どもたちの教育を優先する州では、生徒たちがより該当学年の読みや計算をし、高校を卒業し、仕事を持ち、より安定した家庭を築くことを期待できるように成長することを研究が示しています。私たちはこれがうまく機能するのを知っています。だから、機能させてどの子どもたちも人生のレースにおいて早くも後ろのほうからスタートすることがないよう確実にしましょう。子どもたちにその機会を与えましょう。」

 オバマは、きちんと研究データに沿って政策重要項目を挙げています。日本では、なかなか研究データを根拠にした政策、また、子どもの権利条約を批准したことの反映など対応が遅い気がします。たぶん、アメリカと違って、手順に手間がかかるのでしょうか?しかし、そのうちに子どもたちは大きくなり、社会に出たときにその結果としてのひずみが出てしまいます。教育は、結果がのちに出てくるものであるだけに、その対応は急がなければなりません。オバマは、演説をこう続けています。

 「また高校卒業証書が子どもたちを良い雇用への道につかせることを確実にしましょう。現在、ドイツのような国々では、私たちのコミュニティカレッジにおける一つの技術学位と同等の力を持った高校生を卒業させることに焦点を合わせています。したがって、これらのドイツの子どもたちは、高校を卒業するときにはすでに雇用の準備ができています。彼らはそこにある雇用のための訓練を受けてきているのです。今ニューヨーク公立学校、ニューヨーク市立大学、IBMが提携した、ブルックリンのP-Techのような学校では、学生たちは高校卒業証書とコンピューターとエンジニアリングの関連学位を持って卒業しています。私たちはこのような機会をすべてのアメリカの学生に与えることが必要です。」

 オバマは、研究データを使うだけでなく、海外における成功例をきちんと検証し、良いところは真似をしようとしています。「日本は日本だ」と言わずに、何が良いことなのかを見極める力があるのです。そして、ただちに施策に反映します。日本では、検討会を何にもわたって行われることが多いようです。

 「だから四年前、私たちはRace to the Top(トップへの競争)をスタートさせました――ほぼすべての州により賢明なカリキュラムと、より高度な基準を発展させることを自覚させる競争です、すべてを私たちが毎年教育に支出する分の1パーセント程で。今夜、私はハイテク経済の要求のためのより良い卒業生を備えるように、アメリカの高校を再設計する新たな挑戦を伝えます。私たちは大学と雇用者たちとの新たなパートナーシップを発展させ、科学、科学技術、エンジニアリング、数学に焦点を合わせたクラスをつくる学校に報酬を与えます――それらのスキルは今日の雇用者たちがたった今、そして未来にあるだろう雇用を埋めるために探しているものです。さて、さらに良い高校と並行して、ほとんどの若者はよりいくらか高度な教育が必要でしょう。より多くの教育を受けたなら、より良い仕事を得て中流階級へ進む傾向があるというのは簡単な事実です。」

 一般教書の中で、教育に言及している部分の分量は、それがいかに大切なことであるかを示しています。特に、就学前教育について、女性の社会進出というような理由からでなく、子どもの視点から話しています。日本でも、待機児対策を、もっと子どもの視点から語ってほしいものです。

質の高い就学前プログラム

 日本時間で昨晩、オバマ米大統領は、一期目の就任以来6度目となる一般教書演説を行いました。この一般教書演説とは、毎年1月の第4火曜日に、アメリカの大統領が年間の政策を簡単にまとめて発表する演説を指します。ですから、1月28日に行われたのです。それは、初代大統領であるワシントンの代から、一部の例外を除いて、240年近くも、毎年続けられて来ているアメリカの政治において非常に重要な意味を持つ演説となっています。

 日本では、その内容はそれほど騒がれませんが、実は、アメリカでのことだけではないのです。アベノミクスによって、日本の力が強くなったと思われ、それに反して、アメリカは、リーマン・ショック以降、力が衰えたと思われています。しかし、今でもアメリカが世界一番の経済大国であり、その動向は世界に影響を及ばします。そんなアメリカの政治・経済・外交の年間の方針がまとめられているのが、「一般教書演説」なのです。

 つまりは、政治・経済を初めとし、日本も含めた世界全体の流れを左右するだけの様々な政策がこの「一般教書演説」の中で話されているのです。ですから、今後、どのような社会になっていくのか、どこに重点を置いていく施策になっていくのかを見ることができるのです。そんなこともあって、世界中の成功者たちは、その年にどんなことが起きるのかを誰よりも先読みするために、アメリカ大統領の「一般教書演説」に注目しているそうです。

 オバマ米大統領は2013年2月12日、2期目の一般教書演説で野心的な目標を掲げ、議会に支持を訴えて、その内容は有名になりました。その中で、どうもヘックマンらの研究による提言の影響があると思われる個所がありました。それは、このような内容です。

「製造業、エネルギー、インフラ、住宅でのこれらのイニシアティブ――これらすべては、企業家と中小企業所有者たちの事業拡大と新たな雇用創出を促進します。しかしそのどれもが、もし私たちがまた国民たちにこれらの雇用を埋めるためのスキルと訓練を授けなければ意味がありません。それをできる限り最も早い世代で始めなければなりません。研究を重ねて、子どもは学び始めるのが早いほど、うまく軌道にのることがわかっています。しかし今日、質の高い就学前教育プログラムを受講している4歳児は10人中3人以下です。ほとんどの中流階級の親たちは個人的な就学前教育のために週に数百ドルの余裕を持てません。そして支援を最も必要とする貧しい子どもたちにとって、就学前教育への利用の欠如が人生の残りを暗くさせ得ます。そこで今夜、私は州と協力して質の高い就学前教育がアメリカのすべての子どもに利用できるようにすることを提案します。それこそ私たちができるはずのことです。」

 この内容は、就業支援は、なるべく早いうちに行うべきであり、そのために幼児教育の大切さを踏まえ、国は州と協力して幼児教育をすべての子どもが受けられるようにするという内容です。さらに、「私たちが質の高い就学前教育に投資するすべての1ドルで、のちに7ドル以上を貯蓄できること」になるといいます、それは、できるだけ幼児期に投資する方がその見返りが大きいという研究データを参考にしています。その具体例として、幼児教育を受けさせることによって、卒業率を押し上げ、十代の妊娠率を下げ、さらに暴力率を下げることにもなると言っています。さらに、就学前教育の重要性をオバマは強調します。

職場環境

 日経新聞の中で、「性格スキルは幅広い学歴・職業で共通して重要であり、その欠如が職業人生の失敗に強く結びついている。」としたら、鶴光氏は、それはどのように高めるべきだろうかという課題について説明をしています。それは、ヘックマン氏らの研究では、すべてのスキルを形成する上で幼年期が重要だという確固たるエビデンス(科学的証拠)はあるものの、性格スキルは認知スキルに比べ後年でも伸びしろがあるので、青年時の矯正は性格スキルに集中すべきだと主張しているからです。

たとえば、真面目とか、忍耐強くとかいう性格は、かつての徒弟制度の中で、若者が大人と信頼関係を結びながら指導や助言を受けながら、その中で技術のほかにも、仕事をさぼらない、他人とうまくやる、根気よく仕事に取り組む、といった貴重な性格スキルを教えられてきたのです。従って、かつての徒弟制度のように、職場をベースにしたプログラムの中で性格的スキルを教えれば、ハンディのある若者に対し彼らが家庭や高校では得られなかった規律や指導を与えることができるのではないかというのです。実際、青年期の介入プログラムをみると、認知的・学問的な学びを中心としたものよりも、性格スキルの向上を狙ったものの方が効果が大きいことが明らかになっているそうです。

 鶴光氏は、こうした視点に立てば、世界的にみても若年者や未熟練労働者、失業者への教育訓練が必ずしも成果を上げていない理由も明白であると指摘ます。英財政問題研究会のバーバラ・シアニージ上席エコノミストによる08年の論文は、スウェーデンで失業者が新たな職を見つけるために最も効果的な方法は、民間に補助金を与えて常用として雇い入れるようなプログラムであり、企業外でのフルタイムの授業による訓練は何もプログラムを受けない失業者よりも就職確率がむしろ低下することを示した。これも実際に企業で責任を持って働くことが性格スキルの向上をもたらしたと鶴光氏は解釈しています。

 欧州では、現在、若年失業の問題が深刻ですが、徒弟制度に起源を持つ職業実習が盛んなドイツ、スイス、オーストリアなど国の若年失業率が低く、08年からの大不況でも、それほど若年失業率が上昇しなかったそうです。これも職業実習制度の持つ職場での性格スキル形成と関係がありそうだと鶴光氏はみています。

 どうも、徒弟制度は、技術的スキルを学ぶだけでなく、もしかしたらそれ以上に性格スキルを身につけていたのではないかというのです。鶴光氏は、「日本でも教育、職業訓練など幅広い分野において性格スキルの重要性を認識し、その向上を人材育成の柱の一つに据えるべきであろう。」と提案しています。

 まず、将来職業人生に大きな影響を与えるのは、認知的な学力よりも、性格の方が大きな影響を与えるということから、幼児教育が人生に大きな影響を与えるということがあります。しかし、この人生に大きな影響を与える性格スキルは、青年期以降でも向上することが可能であり、そのスキルは、企業外の訓練よりも職業実習でのほうが高い成果が上がることなどがわかっています。また、徒弟制度ではなくても、性格を育てるのは、家庭だけでなく、職場環境も大きな影響があるということです。

 悪い職場環境は、人を悪い性格にする可能性が大きいということです。

スキル

 心理学者が、性格スキルなどのスキルを長年研究してきましたが、その中で、「ビッグファイブ」という分類が広く受け入れられています。このビッグファイブは性格的スキルをよりきめ細かく定義するためのものです。ヘックマンとカウツの論文にある物を整理すると、それは、どういうものかというと、まず「真面目さ」の定義は、「計画性、責任感、勤勉性の傾向」であり、側面として、「自己規律、粘り強さ、熟慮」であるとしています。ふたつめとして、「開放性」があげられています。その定義は、「新たな美的、文化的、知的な経験に開放的な傾向」であり、その側面として「好奇心、想像力、審美眼」があげられています。三つ目が、「外向的」で、その定義が、「自分の関心や精力が外の人や物に向けられる傾向」とあり、側面として「積極性、社交性、明るさ」があげられています。4つ目が、「協調性」で、定義が「利己的ではなく協調的に行動できる傾向」で、側面として「思いやり、やさしさ」とあります。最後の五つ目が、「精神的安定性」として、定義は、「感情的反応の予測性と整合性の傾向」とあり、側面として「不安、いらいら、衝動が少ない」とあります。

  これまで政策現場や経済学ではこれらのスキルは見過ごされてきたのですが、ヘックマン氏らはこれまでの多くの研究を引用し、性格スキルが学歴、労働市場での成果(賃金など)、健康、犯罪などの幅広い人生の結果に影響を与えることを明らかにしているのです。そして、ビッグファイブの中では、特に「真面目さ」が様々な人生の結果を最も広範に予測しているといっています。しかし、平均的に見ると、もちろんIQが重要であり、仕事が複雑になればなるほどIQの重要性は増してきますが、「真面目さ」の重要性は仕事の複雑さとはあまり関係なく、より広範な仕事に対して有用だと指摘しています。すなわちIQ は、仕事の種類、内容によって変わってきますが、真面目さは、どんな職業においても重要であるということのようです。以前、紹介しましたが、日本の文化の中で「M」で始まる言葉を職員と探したところ、「MAJIME」が多く出ました。日本人のイメージが強いのでしょう。

 スイス・チューリヒ大学のカーミット・セガル助教は13年の論文で、米国の8年生(中2)で問題行動(不登校、遅刻、宿題未提出など)があった人は、テスト成績を基に学力の影響を排除しても、26~27歳時の賃金が相対的に低い傾向を指摘しました。学歴の影響を統計的に取り除いても、すべての学歴レベルで同様の傾向があったそうです。一方、8年生の標準テストの成績と賃金の相関は、高等教育以上の学位を持つ者に限られていたのです。これは、当たり前のように思いますが、すでに、中学2年生の時の素行が、将来にかなり影響するというものです。それを、きちんとデータで表したのです。ただ、これはアメリカのことですので、日本では少し違うかもしれません。
 スウェーデンのストックホルム経済大学のエリック・リンキスト助教とストックホルム大学のロイヌ・ベストマン助教の11年の論文では、心理学者がスウェーデン軍の兵士に入隊時に面接して把握したデータを用いて分析しました。失業者や低賃金労働者はそれ以外の者と比べて性格スキル、認知スキルとも低かったのですが、性格スキルの方がより影響していたのです。

職業によると思いますが、採用するときに、成績がいい子よりは性格の良い子の方を採用する方が多いかもしれません。しかし、育てている最中は、やたらと成績のことを言うことのほうが多いかもしれません。

性格スキル

 最近また、幼児塾や、幼児英語などが盛んになってきました。いわゆる一般的に言われる早期教育です。しかし、その多くは認知的な能力をつけようとするものが多い気がします。それは、いまだに日本では、学校でのテストや入学試験は、認知的能力を試すものが多いため、早いうちから認知させようというものです。しかし、ヘックマンの研究によると、幼少期の教育によって非認知能力を伸ばすことができ、数字では測れない能力が、結果として学業成績の向上や将来の就業、ひいては職業人として成功するかどうかという点につながっていく可能性が高い、ということがわかったのです。

 これは、就学前の時期に限ったことではなく、非認知的な能力の向上、特に学習意欲や学習姿勢などの獲得については、学習と遊びが明確に分離していない小学校低学年時期にも当てはまることがわかっています。この時期にそれらを身に付けることができれば、それ以降も学習に対して意欲的に取り組めるということです。ですから、世界では、おおむね8歳くらいまでを幼児教育と捉え、その時期での教育が大切であるという取り組みを始めているのです。しかし、まだまだ日本では、取り組めていません。本来は、国家的な施策として、高等教育よりもむしろ幼少期の教育にこそ力を入れるべきだといわれています。なぜなら、大学などで行われる高等教育では、学習意欲や学習姿勢を習得することは難しく、その効果は知識や方法論などに限定されてしまうからです。

 経済学的に、教育を将来への投資と見た時にも、専門性の獲得に効果が限定される高等教育より、人格形成全般に関係している幼児教育のほうが投資効果は大きいと考えられているのです。幼少期の教育効果は、高等教育とは比べ物にならないほど大きなものであるということは、すでに世界では暗黙の了解なのです。

 もちろん、このような教育は、保育園、幼稚園だけで行われるわけでもなく、家庭でもその環境は大切です。まだまだ子どもたちは遊びと学びが明確ではありません。遊びの中に学びがあり、学びを遊びに変えてしまう能力が子どもたちにはあります。この時期に、学習意欲や自制心の獲得、より良い人間性の構築など、将来必要になるであろう力の基礎を学び、子どもがその楽しさを感じられることの重要性をあらためて見直さなければなりません。

 このような研究を踏まえて、日経新聞1月20日朝刊に「就業支援は「性格力」重視で」という内容で、鶴光太郎(慶大教授)が寄稿したのです。

 この記事の中で、ヘックマン氏らの、「認知能力よりも非認知能力を向上させることでその後の人生に大きなプラスの影響を与える」という研究のほか、同氏とシカゴ大学博士課程のティム・カウツ氏の13年のサーベイ(文献研究)論文も紹介しています。その論文は、非認知能力を巡るこれまでの研究を包括的に整理し、幼年期のみならず青年期における支援プログラムも紹介し、職業訓練まで視野に入れての研究です。

 この論文で特徴的なのは、認知能力と非認知能力を、それぞれ認知スキル、性格スキルと呼び換えていることであると鶴光氏は書いています。性格スキル=個人的形質とすると、それが遺伝的なものでほとんど変わらないと考えてしまいがちであるところを、むしろ人生の中で学ぶことができ、変化しうるものであるということになるのです。

 少し、こんどはこの論文を見てみたいと思います。

非認知能力

ノーベル経済学賞(2000年)の受賞者、ジェームズ・ヘックマン教授の研究は、とても有名で、幼児教育の世界でも当時かなり使われました。しかし、日本では、いつの間にかそれを忘れているかのような最近の政策です。彼の研究報告では、「就学後の教育の効率性を決めるのは、就学前の教育にある。」「恵まれない家庭に育ってきた子どもたちの経済状態や生活の質を高めるには、幼少期の教育が重要である。」というものですが、アメリカでは、これを踏まえて、オバマの演説でも就学前教育の充実を公約しています。

この研究は、幼児教育をおこなった子どもと何もしなかった子どもを追跡調査し、40歳の時点で比較したところ、高校卒業率、平均所得、生活保護受給率、逮捕者率などに差が現れたという研究で、1960年代からアメリカで実施された「ペリー就学前計画(Perry Preschool Project)」といわれる比較実験です。それが、ヘッドスタート計画の発端になったのですが、これを基にヘックマン教授が、さらに研究をしたのです。それは、少ない国家予算の中で、何を優先させることが将来その予算のかけた見返りが大きいかということの研究なのです。

ジェームズ・ヘックマン教授らは、公共投資の観点から幼少期の教育の重要性を説いた論文を発表し、近年日本の教育関係者の間でも話題となりました。この調査では、対象となった子ども達が成長して40歳に達した最近まで定期的に調査が実施され、比較分析の結果がまとめられているのですが、就学前教育を受けた人達(以下「実験群」)は、受けなかった人達(以下「対照群」)に比べて、高校卒業資格をもつ人の割合が20%高く、5回以上の逮捕歴をもつ人の割合が19%低かったとされています。また、月収2000ドルを超える人の割合は実験群が対照群の約4倍、マイホームを購入した人の割合も約3倍であった、との結果が出ています。

 その研究から、違うことも見えてきました。それは、IQ(知能指数)を長期的に高めることに、就学前教育による特段の効果は認められない、との報告がされていることです。つまり、たとえ乳幼児期などの早い段階から教科学習を開始したとしても、長期的にIQを向上させるという面では効果が薄いということがわかったのです。では、就学前教育・幼児教育の効果が最も顕著にあらわれたのは、一体どのような分野だったのでしょうか?

 ヘックマン教授らの論文によると、就学前の教育を受けた子ども達が最も伸びたもの、それは、学習意欲をはじめ、誘惑に勝つ自制心や難解な課題にぶつかった際の粘り強さなどの「非認知能力」であった、とされています。論文では、これら非認知的な能力の方が、実際の社会生活では重要とされることが多く、信頼される人間性こそ、雇用者が最も評価する点であり、粘り強さや信頼性、首尾一貫性は、その後の成績を予測する上で最も重要な因子である、と指摘されています。

 多くの場合、社会において重要視されるのは、学力や専門性よりも、考え方が一貫している、誠意がある、信頼できるなどの人間性だと考えられます。これらのような非認知的な能力の基礎を身に付けることが、基本的な人格の形成につながっていき、より良い人間性の土台を築くことになるわけです。

 以前のブログで、教育基本法の中で教育の目的に「平和で民主的な社会の形成者としての資質を備える」ことがあると書きましたが、もう一つの目的が、「人格形成」なのです。

教育投資

アメリカの労働経済学者・ヘックマンの研究とは、「大人になってからの経済状態や生活の質を高める上で、就学前教育が有効である」ということを実証したのです。この知見は日本の教育関係者に大きな衝撃を与えました。

教育の目的、成果は、その教育によってどれだけ効果があるかは、分野によって違います。例えば、労働経済学の分野では、労働経済学者は教育を、個人の所得や労働生産性を伸ばすための「投資」として捉えます。どのような教育投資をすれば、効果的に所得や労働生産性を上げることができるかが、労働経済学者の関心事です。これは、一見刹那的に見えますが、広い意味で考えれば、教育によって、どれだけ社会貢献ができるかということになります。現在の日本においての問題は、少子化ですが、私はよく講演で話すのですが、それに対して「子どもを増やしましょう!」というよりは、「税金を納める人材を育てましょう!」ということです。

現代は、引きこもり、ニート、現代うつという症状の若者が急増しています。その若者を支えているのは、多くは、その若者の親であり、祖父母であることが多いようです。そのような社会の数年後は目に見えています。経済的に子どものことを見るのはおかしいということよりも、その点が、生きる意欲、主体的な生活、困難から立ち上がる力などに影響してくるからです。そこで、多くの研究者が興味を持って行ってきたのが、若年失業者を対象とした教育投資に対する研究でした。その結果分かったのは、「失業者訓練は、教育にかけた公的なコストに比べて、得られる効果はそれほど大きなものではない」というものでした。言い換えれば、投資額に見合うだけの経済的利益がなく、費用対効果が悪かったのです。

 これは学校教育においても、同様の知見が得られています。アメリカではマイノリティの経済的貧困が社会問題となっていますが、なぜ所得格差が起こるかを分析すると、「学歴の違い」が大きな要因として浮かび上がってきます。当然、そうなると高等教育への投資を多くします。そこでアメリカでは、マイノリティの大学進学率を高めるために、過去にさまざまな補助政策が行われてきました。しかし、教育投資効果は低いという結果が出ています。では、大学段階で教育投資をするのが遅いのなら、高校段階や小・中学校段階ではどうかと研究対象を遡っていくと、いずれの段階でも十分な効果は表れていないということが明らかになってきました。日本では、いまだに高校の無料化などを進めています。しかし、調査をしてみると、所得階層別の学力差はすでに6歳の就学時点からついているのです。この段階でついた学力差は、後の経済格差にも直結します。そしてこの差は、就学後に低所得の家庭の子どもを対象にさまざまな教育投資を行っても、容易に縮まることはないのです。

 そこで、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授は、就学前の子どもに対する教育投資効果に着目し、「就学後の教育の効率性を決めるのは、就学前の教育にある」とする論文を、科学雑誌『Science』で発表しました。彼はまた「恵まれない家庭に育ってきた子どもたちの経済状態や生活の質を高めるには、幼少期の教育が重要である」と主張しているのです。

就業前教育

日経新聞1月20日朝刊に面白い記事が掲載されていました。そのタイトルは、「就業支援は「性格力」重視で」という内容で、鶴光太郎(慶大教授)が寄稿したものです。

 安倍晋三首相は年頭所感で防衛、憲法とともに人づくりに触れ、日本の未来を切り開くための人材育成について、「終身の計」と、中国の『管子』を引用して重要性を強調しました。首相官邸のHpに年頭所感が掲載されています。そこには、就業支援が、アベノミクスの3本目の矢である成長戦略の中でも、とりわけ重要な課題であることを言っています。その時に、中国の春秋時代、名宰相と呼ばれた管仲の言葉を引用しました。そこには、「一年の計は、穀を樹うるに如くはなく、十年の計は、木を樹うるに如くはなく、終身の計は、人を樹うるに如くはなし。」と書かれてあります。そして、「目先の課題への対応も重要ですが、十年先、百年先の日本の未来を切り拓いていくことも、忘れてはなりません。そして、そのためには、小手先の対応ではなく、将来のあるべき姿を見定めた、真の改革が必要です。」 ― 中略 ― 人づくりこそは、「終身の計」。日本に生まれたことに誇りを持ち、高い学力と豊かな人間性を兼ね備えた人材を育んでいく。そのための教育再生を、着実に実行してまいります。」

 この管子の一節は、「一年之計莫如樹穀 十年之計莫如樹木 終身之計莫如樹人」というものです。この安倍さんの年頭あいさつを踏まえ、日経では、鶴光氏が「人づくりは就業前の教育と、就業後の人材育成を一体として進めるべきであろうが、学校教育は1点を争うテスト重視への批判とゆとり教育失敗の間で右往左往し、就業後の人材育成や職業訓練も、その土台である日本的雇用システムの変容や揺らぎの中で明確な軸を失っているように見える。予算や法律を変えればたちどころに人材育成が進むというわけでないところに難しさがある。」と言っています。

 幼児施設の課題は、「就学前教育」ということがよく論じられますが、「就業前教育」を人づくりとして大切であることと捉えることの必要性を思います。その意味から教育を捉えてみると、テスト重視とゆとり教育との揺らぎに問題が見えてくることを指摘しています。では、人材育成を考える場合、スキル(技能)に注目すればよいかと問題提起をしています。しかし、鶴光氏は、「様々な仕事に応じて必要なスキルは異なるし、一つの仕事でも多様なスキルを用いるのが普通だ。このスキルをどう身に付け、伸ばしていくか。経済学ではこれまで働いている企業でしか通用しない「企業特殊的スキル」、どの企業でも通用する「一般的スキル」に分けたり、技術進歩との関係でスキルを論じたりすることが多かった。しかし、こうした枠組みだけで喫緊の人材育成の問題を解明していくには限界がある。」と述べ、これにも疑問を呈しています。

 「その中で、教育と労働の問題を統一的に考えるのに有益な考え方を提供しているのが、2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授らを中心とした「非認知能力」の役割を強調した研究である。」と言っています。このジェームズ・ヘックマン教授という名前を聞くと、反応してしまいます。私は一時期、彼の説をよく講演に使っていたからです。

 ちょっと、鶴光氏の話からそれて、ハックマン氏の説を眺めてみたいと思います。

「ハレ」の体験

現代は、「ハレ」と「ケ」の区別のない時代ともいえます。または、区別が明確でなくなったともいえます。正月は特別な日でなくなってくると、その日を楽しみに待つということが薄らいできます。私の子どもの頃は、「もういくつねると、お正月」と歌いながら、お正月が来るのを指折り数えて待っていました。すると、日本古来からの文化としてのお正月が「ハレ」の日でなくなると、人は年始のけじめを意図して、「ハレ」の日をつくろうとします。そこで、それほど信仰心がなくても、その地の鎮守様ではなく、大勢が有名な神社に初詣に出かけます。お正月の箱根駅伝が、高いテレビ視聴率を稼ぎます。何かで、お正月を感じようとします。

子どもたちも、日常生活にいろいろな楽しみが多いために、お正月だけに許される遊びがあるわけではなく、お正月だけ大人が遊び相手になってくれるということもなく、同じような遊び方をします。東京では、すでにそんなことはなかったのですが、以前、夏休みに田舎に行った時に、子どもたちが一生懸命花火をやっている姿を見ました。聞いてみると、夏のお盆の間しか花火をしてはいけないので、やっと解禁になったということで、必死になって1年分やっていると聞いたことがありました。「ハレ」の日の楽しみな行事としてやっているのでしょうね。

そんなことがあり、人間はこんな時代でも「ハレ」を求めるものです。連休になると、どこかに行きたい。ボーナスが出たらこんなものが買いたい、今度の休みには、おいしいものを食べに行きたい、など計画します。しかし、訪れる先には、どんな「ハレ」があればいいのでしょうか?ボーナスでなければ買えないものは何があるのでしょうか?おいしいものは、どんなものでしょうか?人間の欲望はきりがありません。かつての「ハレ」が「ケ」になると、新たな「ハレ」を見つけようとします。次第に刺激の大きいもの、その時代に必要なものを求めていきます。それが、人類の進歩、発展、様々な発明をしていくエネルギーになってきたのかもしれません。これからも人間は新たなる「ハレ」を求めてつぎつぎといろいろなものを作り出していくでしょう。

しかし、同時に、かつての「ハレ」も見直し、大切に引き継いでいくことも必要です。それが、文化なのです。冠婚葬祭、年中行事、しきたり、それらを大切にし、それらの「ハレ」を待ち望む子どもたちの姿を大切にいなければなりません。私の園で、集団給食改善都知事賞を受賞したのは、食育3本柱として「栽培」「料理」「共食」であるとし、これらは人間しかしない営みであり、その一つの効果は、「待つ」力であるということの提案です。かつて、子どもたちにとって「ケ」の毎日の中で、「ハレ」の日は、待つ力を育んできたのかもしれません。それは、生きる目的になったり、毎日のハリであったりします。

「栽培」とは、日本では、稲は夏に田植えをして秋には刈り取るまでを言います。刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。この祭りを大人も子どもも待ち焦がれます。それは、祭りが楽しいだけでなく、育てていた稲が実を結び、収穫があるからです。それを待ち、祝うということが生活リズムなのです。このリズムは、日本では四季が織りなしていきます。園で、栽培をしています、クッキングをしています、みんなで食事をしていますということではなく、子どもたちに「ケ」と「ハレ」の体験をさせることに意味があるのです。

特別な日

日本人は、物事は移りゆくもの、無常であることを言い伝えてきた気がします。それは、平家物語に見えるように「諸行無常」ということが、良いときには戒めとして、悪いときには期待としてその時を受け止めました。それは、時として暮らしにメリハリをつけ、生活の支えともなりました。それを、「ケ」と「ハレ」としたのです。その代表が、まず食事だったのでしょう。ですから、「ケ」の食事が朝餉、昼餉、夕餉であり、「ハレ」の日の食事は、神聖な食べ物である餅や赤飯を食べたり、お酒を飲んで祝ったりして、特別な日であることを示しました。そして、その日は外食をしたりしたのです。

以前のブログでも書きましたが、日本人は、古代から木にも火にも水などいろいろなものに神様が宿っていると感じ、これを「八百万の神」といって大切にしてきました。そして、日常的に身の回りで起こるよいことも悪いことも、人間の力ではどうにもならないこととして、神様のおかげ、神様のせいと考えました。それは、「ケ」が枯れてしまうことで「ケガレ」として、そのケガレを落とすために、人々は祭り(祀り)をつかさどるようになりました。この祭りの華やかさ、行事の晴れやかさにより、ケガレを落とした後の清々しさが「ハレ」なのです。それが、「晴れ晴れ」した気持ちなのです。

激動の時代、戦乱の時代では、平穏な社会、日々変化のない生活を求めたかもしれません。しかし、たとえば江戸時代などは、天下が統一され、政権が安定し、世の中の変化もとぼしく、人口の大多数を占めていた農民などは、毎日が同じことの繰り返しでした。それは、日々の繰り返しだけでなく、毎年も同じことの繰り返しでした。春になれば種まきをし、秋になれば収穫する。変わっていくのは、自分の歳だけだったかもしれません。毎日が「ケ」の繰り返しだったのです。

 しかし、こんな「ケ」の毎日では、生活にメリハリがなくなり、生活リズムがとりにくくなります。保育指針にも書いてありますが、生活リズムは、情緒の安定につながるのです。しかし、江戸時代では、なかなか波乱万丈ということは起きません。そこで、人為的に「ハレ」を作り出す必要があったのです。それが祭り、能狂言、正月などの行事です。それが年中行事であり、こういった「ハレ」の日には農民も毎日の農耕を忘れ、思いっきり楽しみました。日常、変わらずにおこなっている農作業の合間にも、「あと何日で祭りがある」とか言って、退屈な労働にも耐えることができたのです。「ケ」の中に「ハレ」の要素を取り入れて、人間は生きてきたのです。

しかし、本来の「和食」文化が薄れてきた理由に、どうもこの「ケ」と「ハレ」のバランス分化が崩れてきたことがあるような気がします。それは、日常的なことと、特別なことの区別がなくなりつつあります。例えば、少し前に書いたお正月も、生活の中で特別な日の感覚が薄れてきて、餅は1年中食べますし、松の内の間はおせちを食べることも無くなってきました。最近の「ハレの舞台」である結婚式の引き出物も、ほとんどカタログになり、タイヤ赤飯など、「ハレ」の日に食べるものがほとんどありません。

最近は、このように「ハレ」の日にしか食べることのできなかったごちそうを当然のように毎日口にすることができます。服装なども昔なら「ハレ」の日にしか着られなかったようなものを毎日着ることもできます。地方の人が東京に出てきて町の雑踏を見て、「何か祭りでもあるかと思った」というほど、人手は特別な日だけ多いということもなくなりました。東京ではもはや生活の中では、「ハレ」を感じることが少なくなってきました。それでいいのでしょうか?それが、「いいくらし」なのでしょうか?