生命の本質

 「生命の本質は平和である。」ということで、生命平和運動に加わります。そこには、二つの原則があります。その一つは、「世界の平和を望むなら、自分がまず平和になろう」もう一つは、「暗闇を呪うより、1本のろうそくを灯そう」です。そして、その運動の最大の特徴は、「反対の拳を振り上げる代わりに、問題を前にしていったい何が生命同士の平和を保障する道なのか、共に悩み、考え、問題の現場に身を置き、自らに問う。反対ではなく、代案を示す。創造の力へとエネルギーを転換するのです。」

 私は、やはりこれこそ現場人の原則であると思っています。今、保育の制度が変わろうとしています。それに対してただ反対の拳をあげるのではなく、そのエネルギーを創造の力へと転換させ、代案を示すことが必要だと思います。そして、実際にそれに沿って行動を始めることです。ファン氏は、具体例をこう挙げています。「問題の現場にみんなが望む共同体を実際に作り出してしまう。生命平和を共に学ぶ学校や、問題をめぐって分裂した地域住民が集まれる場や心の傷をいやす施設、つまり代案を現実化することにエネルギーを集中させるのです。」

 彼は、反対運動における怒りや憎しみは、確かに短期的効果は生むかもしれないが、長期的には害になると言います。なぜなら、相手はこちらの憎しみを食べて育つからと言います。自分の中に怒りを見つけたら、まず、祈りと瞑想で鎮め、負のエネルギーを正のエネルギーへと昇華させ、それを創造の力へと変えるのだと言います。彼は、獄中では、苦しみから逃れるためにクリスチャンになります。カトリックに入信します。信仰によって、自分をなんとか立て直そうとします。しかしいくら神にすがり。祈っても恨みを晴らすことができませんでした。そして、反対運動を起こしたり、あらゆることを試しますが、何の効果もありませんでした。そして、釈放されたのちは、仏教僧、道法師らと行動を共にしています。ですから、彼は、巡礼、ロゴ、内省のための「百拝」を提案するのでしょう。そして、祈りと瞑想で怒りを静める方法をとるのでしょう。

 私が提案する怒りを静める方法は、高い志を見つめることであると思っています。自分が目指している志にとって、当面の怒りはどのような意味があるのであろうかと考えることです。多くの怒りは、かえって志を遠ざけてしまう可能性があるような気がしています。それは、怒りへの対抗が、志を邪魔することが多いからです。もちろん、怒りが正のエネルギーへと変わるのであればいいのですが、とかく憎しみに変わることが多いのです。

 ファン・デグォン氏も、結局のところ人類学に戻ります。長い人類の歴史の中で、文明の歴史はたった1万年にもなりません。それは、人間の歴史の中でほんの一部に過ぎません。そこで、ファン氏は、文明以前の生き方に人間の原型を探りたいと思っています。そこにこそ、自然の生態系と見事に調和し、他の生き物たちと対等な共生関係にあった人間の姿を見ることができると言います。この世界には数えきれないほどの物や命がありますが、そのすべてが、一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは、人知を超えた神の精妙なるデザインです。いるべき場所にいる。それは、この世の様々なものには、それぞれの役割があります。幸せとは、平和とは、自分がいるべき場所にいることだとファン氏は考えています。をれは、多様性を認め合うことと同じことかもしれません。「ない物ねだり」をせずに、「ある物探し」をすると同じことかもしれません。ある意味では、身分不相応なことを望むから心の平和を望めないのかもしれません。幸せになれないのかもしれません。まず、自分をよく知るということが大切かもしれません。