自然への回帰

 教えてくれるものは、周りにはいくらでもあります。様々なことを周りから学ぶことができます。その環境は誰にでも公平にあるのです。しかし、それに気がついたり、そこから学べるのは、特定の人かもしれません。それは、環境に対して謙虚でなければならないからです。赤ちゃんからもいろいろな学びが得られますが、赤ちゃんは何もできないと思っている限りは、何も学ぶことはできません。それが、道端の石ころとか、野草となるとより学ぶ力が必要になります。

 ファン・デグォン氏は、閉じられた監獄という中だからこそ、何もない中だからこそ野草からいろいろなことを学びます。特に、政治犯として捉えられ、権力と向き合ったからこそ、野草を育て、観察するうちに世界観が変わっていきます。「野草とは何か」それは、「自然から切り離されてしまった人間が自然回帰する扉だ」と考えます。また、「みずみずしいまま和え物にした野草の香りを嗅いだら、原始時代を連想するかもしれない。それも当然だ。はるか昔の先祖たちは、そんな草を採って食べていたのだから。文明というものは、そういう草の香りを少しずつ消し去った歴史ともいえる。在来種が消え去った社会、在来種が消え去っても誰も悲しまない社会、そんな世の中に生きているのだ、今、私たちは…。わたしたち人間だけが生存競争という一線を越えて他の生命をないがしろにし、驕りたかぶって自然の品位を失っている。人と自分を比べては、自分だけが優れていると思い込み、鼻高々な人間」だからこそ、野草から学ぶべきだと悟るのです。

 自分たちの遺伝子を子孫に残そうという生存競争では、他の遺伝子をないがしろにしては自分たちの遺伝子も残せなくなってしまうのです。また、自然を眼の前にしては、人類は小さな存在です。しかし、人類が自然を征服できるような思い込みが、痛い目に遭うことになるのです。そんな自然を、ほんの小さな野草からも感じ取ることができるのです。

 ファン氏は、そんな野草のことを「殺風景な刑務所で出会う傷だらけの野草たちは、私の人生を豊かにしてくれる大切な“獄中の同志”なのかもしれない。」(清水由希子訳)と思うようになります。ちょうどその時、

それまで禁止されていたペンと紙が許されるようになります。しかし、日記をつけることが許されません。そこで、彼は妹に「野草手紙」という手紙の形式で残そうと思います。それがのちに韓国で出版され、100万部を超えるベストセラーとなります。彼は、今でも畑ではトイレは使わないそうです。シャベルもを持って、穴を掘ってそこにしゃがみます。立っていることからしゃがむと、また違った世界が見えてきます。それは、土の上の小さな虫であったり、草であったりします。見えなかったものが見えてくるのです。野草の次元に降りるとは、違う視点から命の世界を見ることだと言います。

 しかし、私たちは野草の次元にはなかなか降りることはできません。それは、何が邪魔しているのでしょうか?彼は、こう考えます。「一番大きい問題は、固定観念です。つまり自然とは汚いもの、野生の動物や植物は不潔で、邪悪だという固定観念です。それは、社会が植えつけたもの。多くの人は、死ぬまでその偏見を持ち続ける。私たちは、人間中心の考えにとらわれて、ありのままを見ていないのです。」そして、こんなことを提案します。「汚く生きよう」これは、「エコロジカルに生きる」と同じ意味だと言います。

 先日、アレルギー児が急増しているとか、幼稚園、保育園での怪我が多いというニュースが流れました。私は、これも、私たち人間が自然から切り離されて生きている結果かもしれないと思っています。もう一度、自然へと回帰する扉をあける時期かもしれません。