落とし穴

 「見守る」という行為は、人と人との関係性を表わす言葉です。その距離感は、具体的にどのくらいという目安を表わすことはできません。なぜかというと、その距離感は、その人によって、日によって、その日の気持ちによって、ときには、前の日の出来事によってでも変わってくるものだからです。また、「見守る」距離感には、精神的な距離もあるのです。見守られているという確信は、精神的な距離は近いものになります。いくらそばにいても、心が離れていては、見放されていると思ってしまいます。ですから、「見守る」という距離感を、距離で語るのではなく、見守られていることによって、どのような行動が促されているかということで見る必要があります。それは、見守られていることで、いかに「自主的に」「主体的に」行動しているかということが目的だからです。

 デューイの提案した「児童中心主義」でも同様なことが起きます。この主義を児童心理学的な支えとして語ってしまうと、児童を中心化するあまりに、教育者が児童を放置してしまう危険性があるからです。児童中心主義を、「何を教えるか」「どう教えるか」という教科主義ではなく、「児童がいかに成長しているか」という視点に代えることを、「児童の好きなようにさせる」とか「児童がやることを決める」というように対応することは、放任主義に陥ってしまうのです。

また、デューイは、「児童の作業の経験を重視するべき」と言っているので、経験をさせればいいのだと思うとすれば、昔から、いくら伝統的な学校教育においても、児童は多くの経験をしてきたはずです。経験には、どんな経験かという経験の質が問われなければならないのです。デューイは、経験には「教育的な経験」と「非教育的な経験」があると言います。その区別は、「経験の連続性を原理的に理解」しなければならないといいます。これは、発達の連続性と言われているもので、発達は「今をよりよく生きる」ことにつながるのであり、今の発達は次の発達の準備でもあるということです。同じように、ある経験はその途にされるであろう経験に影響を与えていくのです。もし、今している経験が、のちの経験を歪めたり発展を阻止する経験であれば、それは、「非教育的な経験」となるのです。逆に、今の経験が、次の経験を豊かにし、成長する糧となるものであるとするならば、「教育的な経験」となるのです。しかし、こうした経験重視の教育論は、児童心理学的であるために、発達を段階的に捉えてしまっています。それは、連続的にだけ捉えてしまうと、非連続性を認めなくなってしまいます。子どもたちは非連続的な転換の契機に育つ場合もあるのです。

 また、教育を社会の形成者としての資質を備えることというと、その時代がどのような社会を目指しているかを検討しなければなりません。新教育運動が起きたころは、この時代に新たに形成されていた帝国主義や大衆民主主義の社会的な状況に適応し得る子どもを育てようとする目論見で教育されていたのです。この時代は、資本主義の列強は、国外に対しては帝国主義的な国際競争を強いられ、労働者を含めた国民全体が政治的な決定に参与する時代でした。その時代が要請した自発性とは、自ら自発的に国家を支援し、自ら自発的に国際競争で勝負する活発な国民が求められたからです。

工場労働者を作ろうとしたことに反対した新教育運動が、ある時には国家を守るための教育に代えられ、戦後、世界が新教育運動の本質を見直しながら、あたらしい教育を模索していく中、日本では、バブルを支える人材を求めていったのです。しかし、バブルがはじけたころから問題解決学習が見直され、1996年の「生きる力」の育成という目的で「総合的な学習の時間」が導入されました。そこでは、問題解決学習の手法が社会的変化に対応する能力育成として強調されました。しかし、目の前の学力低下という状況に危機感を覚え、再度知識の注入を復活してしまいそうです。

こんな時こそ、不易を求めるために、人類の起源に戻る必要があると思っています。