民主的と経験

 教育基本法を読むと、教育でどのような国、社会を創ろうとするかがわかります。それは、「平和」で「民主的」な社会です。ということは、それを教える学校は、平和で、民主的でなければなりません。これは、以前のブログでも書いたことですが、先生の専制的な授業、子どもたちがおびえるような授業からは、平和で、民主的な社会の形成者として育てることはできないのです。

 デューイも、同様なことを考えたようです。彼は、『民主主義と教育』の中で「教育に関する民主的な考え」を述べています。その中で、彼は人間の社会が「自己を改良するような変化を理想としている」場合には「単に自己の慣習を維持することだけを目指している社会とは異なった教育の規範や方法をもつだろう」と言っています。それは、いくら社会といっても、単に集団が共同体を作っているのではなく、それぞれが視聴して苦ことができるような社会でなければならないと考えています。さらに、彼は、「人類の歴史の発展期はみな、それまで互いに排斥しあっていた民族や階級の間の隔たりを除去する傾向をもった諸要因が作用したのと同じ時期に起こっていとる」と指摘しています。この人類の歴史は、私も常々考えていることで、私たちが祖先からホモ・サピエンスの遺伝子を、どう子孫に受け継いでいくかを考えるうえでも大切なことのような気がします。

 デューイは、教育が民主的理想をめざさなければならない理由を2つ挙げています。第1は、「共有された共同の関心がより多くの、より多様な事柄に向かうことを意味しているだけではなく、相互の関心を社会統制の一要因として確認することにより深い信頼をおくことをも意味している」と言っています。そして、2番目に、「社会集団が互いにより自由に相互交渉をすることによって、新しい状況に対応する必要がある」と言い、それは、「そこでは進歩・再適応が課題になるからだ」と言っています。

 この言葉には、ともに「相互」という言葉が出てきます。それは、ともに主体的な社会を目指すことが民主的であると言っているのではないでしょうか。しかし、これは、自発性をも意味しています。誰かがやってくれるだろう、誰かがやることを指示してくれるだろうということからは、民主的な社会は作れないのです。それは、「民主的社会は、外的権威に基づく原理を否定するのだから、それに代わるものを自発的な性向や関心の中に見出さねばならない」からです。ですから、デューイは、「民主的共同社会は、他の共同社会よりも、計画的で組織的な教育にいっそう関心を向けるようになる」はずだと考えたのです。

 デューイの教育論の「なすことによって学ぶ」ということは、子どもたちを鍛えなくてはいけないという古い考えではなく、子どもたちに社会をつくり直していく力をつけることだ言っているのです。これは、子どもに経験の再構成という学習活動の場を与えていくことにより達成することができ、経験から学ぶ反省的思考の態度を育成することが大事だと言っているのです。その経験主義からすると、「知性的である」ということは、「行動できる」ということになるのです。実際にやってみること、練習を積み重ねることによって何かができる能力が備わり、さらに、それを反省的に積み重ねることで目的を実現できる能力が育っていくということを説いています。