成長と教育

 私があるところでの講演で、「ダイバシティー(多様性)が、生存のために必要である。そのために、人は社会を形成するために様々な多様性を持っていて、それぞれの役割を担っていくことが必要である。そのために、個々のいいところを生かすことを考えるといい。」というような話をしました。すると会場からこんな質問がありました。「もし、何もいいところがない人はどうすればいいのですか?」このような質問に、「よく見れば、だれでも必ずいいところが見つかります。」と答えるのが定石でしょうが、私はまずこんな答えをしました。「何もいいところがないということが、その人にとってのいいところです。」それは、何もないということは、いいところを取り入れる余地が十分にあるということを言いたかったのです。子どもは、何もできない未成熟者であるということは、見方を変えれば、成長する可能性が豊富にあるということなのです。

 デューイは、それを「成長の第一の条件は未成熟である」という言い方をしています。彼は、人間の「未熟さ」とは、単に「空虚」とか「欠如」というような消極的な意味を持つことではなく、「可能性(capacity)」とか、「潜在性(potentiality)」という積極的な意味を持つものであると考えます。確かに、子どもは他者に依存しなければ生きていくことはできませんが、それを違う観点で見れば、子どもは、依存性は弱さというよりもむしろ発達可能性を意味していますし、相互依存を伴うものであると考えることができます。教育とは、子どもが一方的に教わる、やってもらうという客体的な存在ではなく、ともに主体であるような相互作用的な発達であり、それだからこそ「ある種の道徳的・知的目的のためには、おとなたちは幼い子どものようにならなければならない」と主張したのです。

 デューイは、成長と教育について、次のような言葉でその考え方を示しています。「教育は生命のこの社会的連続の手段なのである。社会は生物学的生命と同じ程度に、伝達の過程を通じて存続する。」私は、この言葉を幼児教育、学校教育は人生における成長・発達のひと過程にすぎないと同時に、連続して起きてくることなので、生涯教育の中でとらえないと、教育は小学校から始まるとか、共同的学びは3歳からであると捉えるのではなく、人は生まれながら成長をはじめ、将来の準備を始めていき、その成長は人生が終わるまで続いていくという考えるべきであると捉えています。

 そこで、こんな言葉も残しています。「学校教育の目的は、成長を保障する諸能力を組織することによって教育の継続を保証することである。」幼児教育は義務教育の基礎をやしなうというような、義務教育が最終点であるかのように捉えるのはおかしい気がするのです。また、「成長の理想は、結局、教育とは経験を絶え間なく再組織し改造することである。」と言っています。もしかしたら、デューイの時代は、この教育には乳児は意識されなかったかもしれません。しかし、成長として教育を見直すことは、当然、乳児から始まるでしょうし、経験の再組織と改造であるのであれば、その前に経験の組織化が必要であり、その前に経験が必要になります。それは、生きることそのもののはずです。

 その上で、「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の進路を方向付ける能力を高めるように経験を改造あるいは再組織することである。」ということが言えるのです。