漢方医

 以前のブログで紹介したように、東京では東京駅周辺や銀座周辺が大きく変わっています。前にはどんな建物があったかと思うほど、あたらしい建物が次々と建てられています。単独ビルの銀座店だけでも「エルメス銀座店」「コーチ銀座」「ディオール銀座」「ルイ・ヴィトン銀座並木通り店」「ダンヒル銀座本店」「ティファニー本店」「カルティエ銀座2丁目ブティック」「カルティエ銀座本店」「シャネル銀座」「プラダブティック銀座店」「フェラガモ銀座本店」「グッチ銀座」「バリー銀座店」「セリーヌ銀座店」「アルマーニ / 銀座タワー」と並びます。ブランドものには興味がない私でも、名前だけは知っているブランドが並びます。
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日本中にある「銀座」同様、ここは、江戸時代の「銀座役所」に由来します。「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや銀の管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。そのほかには、主に職人たちの住む町でした。呉服橋という地名が残っているように、恵比須屋、亀屋、布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。そして、銀座には観世、金春、金剛の能役者たちの拝領屋敷があり、周囲には関係者たちが居を構えました。このように、銀座は日本橋を起点とする東海道の一部でもある銀座通りに大きな商店がにぎわいをみせ、取り囲む川で活発な舟運流通が行われる一方、裏手に職人町がひろがり、能役者や歌舞伎役者、常盤津の師匠、画家たちの住んでいたのです。

そんな町に町医者として幕末に江戸中にその名を知られた名医がいました。その人の名は、「尾台榕堂」といいます。彼は、現代においても漢方の最高峰と称されており、数々の著作があります。特に「類聚方広義」は名著中の名著といわれ、漢方を学ぶ人は誰もがこの本をまず読まなければと言われるほどです。その彼が医院を開設していた場所には、現在記念碑が建っており、そこを日曜日に妻と歩いているときに通りました。
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彼は、あくまでも現場人で、庶民の診療に一生をささげた人でした。当時としては傑出した名医であるとともに、人間愛にあふれ、心に仁を持って治療にあたり貧しい人であっても親切をつくした仁医であったと言われています。そんなことがしのばれる逸話がいくつか残っています。

彼は、現在の十日町市中条の代々続く医家に生まれますが、16歳で医学を究めたいとの青雲の志を抱き江戸に出府、尾台浅嶽のもと修業をします。しかし、病気の母や兄を心配して中条に帰り、開業しました。10年後、江戸の大火で恩師の家が焼失し更に師が亡くなるという悲報に接し、尾台家を継いでほしいと頼まれ、江戸で仮小屋で診察します。1年後には待合場に人が入りきれなくなり、立て替え、さらに弟子も増えていき・塾の名を「尚古堂」という名の塾を開塾します。そこには、越後から来た弟子もいて、30年ほどで300人が全国に巣立っていきました。

そんな中、1861年幕府から医師の依頼がありましたが、「私は町医者で将軍さまも、大事だが百人の庶民には百の病気がある」と、断りました。しかし、どうしてもとなんども言っているので、「むこうが飲めぬ条件を出せばこなくなるでしょう。」と、「頭を剃らぬ事(御典医は丸坊主にしなければならなかった)」「常時 勤めるのでなく 御用の時だけとする」「庶民の診断も認めること」という三つの条件を出しました。すると、幕府から「承諾する」と返事が来たのです。そこで、しぶしぶ14代将軍 家茂の侍医になったのです。

彼の「事実をありのままに見る」という理念は「科学的に物事を考える」という西洋医学に対して反対を唱えるのではなく、受容するものであるにも関わらず、今でも古医方を主軸とする日本漢方に対して「理論がない」との批判する人がいます。しかし、彼の実践が、医療は、名誉や金のためではなく、民のためという姿勢が必要であることを教えてくれています。

漢方医” への8件のコメント

  1. エルメス、アルマーニ、グッチ…..となんだか名前を聞いただけでもクラクラしてしまいそうです。尾台榕堂という人の名前は聞いたことがありませんでした。母や兄のために開業し、師の後を継いでほしいと頼まれ、江戸で診察し、庶民のために働いた人だったのですね。尾台榕堂の転機は自分ではない誰かのために動いるのですね。誰かのためにという姿勢は簡単には真似ができることではないと思います。幕府からの依頼ともなれば名誉なことなのかもしれませんが、そうではなく、庶民のためにあろうとした姿にはいろいろ考えさせられます。幕府に逆らうことも勇気のいることだったのではないでしょうか。それも庶民のためにという思いだったのでしょうね。相当の覚悟があったのだろうなと想像しました。実際に人と向き合った治療こそが尾台榕堂にとっての理論だったのかもしれないと思うと、私自身ももっと実践を重ねて、納得のできる保育を考えていきたいと思います。

  2. 「銀座」に、敷居が高いイメージがあるのは、そういったブランド街である印象が強いからかもしれません。銀を扱う場所としての由来があったということで、江戸時代からも高級なイメージがあったのでしょうか。そのような場所にいても、庶民に寄り添い、診療が必要な人たちのために一生を捧げた人がいると思うと、自分が持っていた医学のイメージを良い意味で一掃させてくれます。病気を治すだけでなく、庶民に寄り添うといった予防医学も、医学のひとつであることを感じさせてくれます。知人のある看護師さんは、子どもがどんな小さなケガをしてきても、まず「痛かったねぇ」という言葉をかけていました。その共感しようとする姿勢が、人に安心感と勇気を与えてくれます。生ける活力を与えることも、立派な医学なのでしょうね。

  3.  銀座に欧米のブランドショップが進出しているのは、中国を狙っての市場調査をかねていると聞いたことがありますが、私には全く縁のないお店ですね。さて今回のブログで、尾台榕堂のことをはじめて知りました。当時、よほどの名医だったのでしょうね。それにしても幕府からの依頼をここまでしぶるとは、スゴイ町医者ですね。
     わたしは漢方については詳しくありませんが、いま世界のマラリア治療でもっとも有効だといわれている抗マラリア薬は、中国の漢方由来のアルテミシニンという薬です。中国で2千年前から、発熱した時に使う薬と書かれてあるそうです。まさに特効薬です。はじめは現代医学の世界で信用されていませんでしたが、いまは世界保健機関(WHO)が推奨する抗マラリア薬で、世界中で使われています。ただし日本ではまだ認可されていません。はやく認可されるようになると良いのですが、まだしばらくかかりそうです・・・。

  4. 最近、故あって、漢方薬にもお世話になっています。通常の薬(西洋医薬)は即効性があり、漢方薬は体内の様々なバランスをとって徐々に効いていく、という理解をしています。尾台榕堂、この方は初めて知る江戸時代の医者です。しかし、今回のブログに写真掲載されている、治療の様子を表す像を見ると、江戸ではかなり有名な医者であったことが納得できます。しかも、14代将軍家茂の侍医として活躍したとはこれはただの医者ではありませんね。「待合場」も盛況、とくれば、お上も看過できなかった、というわけでしょう。像は尾台榕堂が患者さんを触診しているところでしょうか?今日は私も頭や喉、首のあたりを触診してもらいました。しかも、根掘り葉掘り医者から訊かれました。1時間待って1分30秒の診察、といった昨今の診察事情に反して、実に丁寧に診てもらい、何だか得した気分です。聴診器だけではなく、触診もして頂く丁寧さ、それだけで病気が快方に向かっていくような気がしました。「医は仁術」ですね。

  5. どうしても派手なイメージばかり持ってしまう銀座ですが、素晴らしい方がおられた場所でもあるんですね。志をもって医学に励み、弟子にも医学を伝え、更には名誉などには目もくれずに病気に向き合っていった姿勢は、どんな分野の人でも学ぶことは多いと思います。こういう方がいつの時代でも現れるようですが、何が違っているんでしょうか。様々な要因があるんだと思いますが、このような方に出会えるとしたら、それはすごいことなんでしょうね。思わず心が震えるような、そしてその後の自分に大きな影響を与えるような、そんな出会いが今後どれだけあるか分かりませんが、1人でも多く出会いたいと思っています。

  6.  銀座と聞くとやはりブランド店が建ち並び、派手というか高貴な印象で、私にはあまり縁がない場所です。「銀座」という名前もなんだか派手なイメージですが、江戸時代には銀貨を作る場所から地名がついたように、やはりお金が絡んでいたのですね。
     さて「尾台榕堂」という人物は初めて聞きます。ブログで彼の話しを聞く限り、自分の医者としての信念を貫き通す名医ですね。医者という職業はもちろん人の病を治す職業だと思いますが、彼は病気以外にも人を治すという印象を持ちました。上下関係、権力に媚びることなく、目の前で困っている人を助ける。まさに現場人です。彼の姿勢から学ぶことはとても多くあります。

  7. 今でも商店街などで「○○銀座」といわれるところがありますが、それは東京の銀座のように職人や商店が軒を連ねにぎわっているところからその名前がついたのかもしれませんね。よく医学だと「患者のため」だとか、政治でも「国民のため」と言いながら、保育でも「子どものため」といいながらも、自分の実際はそれは名目でそうではない部分に走っている場合が多くありますが、そうではない人もたくさんいます。今回の「尾台榕堂」も本来の医学の目的から決してぶれなかった人なのだと思います。その本質は「事実をありのままに見る」という姿勢があるからこそですね。その姿勢はもっと見習っていかなければいけないことですし、ブレない姿勢を持ち続けていくためにもっといろんなことを取り込んでいかなければいけないのだと思いました。

  8. 明治5年の銀座の大火で焼失した銀座の再建にあたって当時の東京府は、首都を不燃化する方針を打ち出しました。イギリス人技師ウォートレスに銀座一帯を赤煉瓦造りにする設計を依頼し、江戸以来の木造の銀座の街並みを洋風に一変させます。3年間かけた再建事業によって千軒近くも煉瓦建築が建ち並んだといいます。当時の写真を見ると広い大通りには桜並木が植えられています。

    植えて うれしい  銀座の柳
    江戸の 名残の  うすみどり
    吹けよ 春風  紅傘日傘
    今日も くるくる  人通り
    銀座の柳

    昭和の初めに流行った西条八十作詞の『銀座の柳』の一節ですが、桜並木が柳に変わったのは明治の中頃。枝が拡がるし、折れやすく、虫がつくので、並木として適当ではなかったようです。なるほど、それなら「植えてうれしい銀座の柳」と謳われるのもうなずけます。そよ吹く風に銀座の柳、どこへ行くのか二人連れ・・・。やっぱり桜より柳の方が絵になります。

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