いよいよ今年も残りあと数時間になりました。年末になるとこのブログで取り上げる内容はいつも同じような内容になってしまいます。それは、年末というのは、何とも言えない独特の雰囲気があるからでしょう。今は、1歳年を取るわけでもありませんし、借金がチャラになるわけでもありませんし、お店が一斉に休みになるわけでもありませんので、年々、新年という意識を持つ条件はなくなってきているはずですが、不思議ですね。年が変わることに、何か神秘的なものを感じます。
新年を迎えるときのいろいろなしきたりは、その神秘さを表わしています。フレーベルが形に神秘的なものを感じたように、正月に関することで、形に意味を込めたものもあるようです。フレーベルが恩物の1番目にした球ではありませんが、丸い形には神秘的なものを感じたようです。例えば、鏡餅は丸い形をしています。
もともと日本人は米が大切な食べ物でした。ですから、米に関する行事が多く残っています。そこで、稲に関して、稲魂(いなだま)とか穀霊(こくれい)という言葉があるように、人間の生命力を強化する霊力があると考えられてきました。この稲や米の霊力は、それを醸して造る酒や、搗き固めて作る餅の場合には、さらに倍増するとも考えられました。そんなことから、餅が古くから神妙な食べ物であったことを物語る伝説は、奈良時代に編纂された「豊後国風土記」や「山城国風土記」でも見られます。餅を弓矢の的に見立てて射ようとしたところ、その餅は白鳥となって飛び去り、人びとは死に絶え水田も荒れ果てたという言い伝えが書かれてあり、白餅は白鳥に連想されており、決して粗末に扱ってはならないもの、神妙な霊性を宿すもの、と考えられていたのです。
そして、宮中の正月行事では、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う意味で、歯固めの祝いと餅鏡つまり鏡餅の祝い、とがセットになっていました。年齢という言葉に歯の字が含まれているように、健康と長寿のためには丈夫な歯が大切だと考えられていたのです。
そんな大切な米から作られた鏡餅のその形は、その昔、鏡餅は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、三種の神器の一つである“知”をもって世の中を治める道具とされた銅鏡の形の鏡は丸い形をしていたので、それをあらわしていると言われています。また、元禄8(1695)年に出版された「本朝食鑑」に「大円塊に作って鏡の形に擬える」との記載があることから、鏡餅は拝み見るべきものである鏡の役割をしているということで丸いと言われています。また、心臓の形をあらわしているとか、満月のように丸い形が生命力を表すとか、また丸く円満な人間の霊魂をかたどっているなどと言われていますが、同時に、年神様の神霊が宿る聖なる供物でもあります。それを大小二つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表しており、福徳が重なって縁起がいいと考えられたからとも伝えられています。
また、鏡餅の飾り方にも形の神秘性が使われています。鏡餅は、一般的には、三方(折敷に台がついたお供え用の器)に白い奉書紙、または四方紅(四方が紅く彩られた和紙)を敷き、紙垂、裏白、譲り葉の上に鏡餅をのせ、昆布、橙などを飾ります。また、正月に飾るシメ縄や玉串にも、ひらひらした切り紙がついています。これは、紙垂(しで)といい、様々な形のものがあります。この形は、落雷があると稲が育ち豊作なので、紙垂は、邪悪なものを追い払うという意味で雷光・稲妻をイメージしているようです。
形の神秘さは、自然の中のものから見出していることが多いようです。