形の神秘

 いよいよ今年も残りあと数時間になりました。年末になるとこのブログで取り上げる内容はいつも同じような内容になってしまいます。それは、年末というのは、何とも言えない独特の雰囲気があるからでしょう。今は、1歳年を取るわけでもありませんし、借金がチャラになるわけでもありませんし、お店が一斉に休みになるわけでもありませんので、年々、新年という意識を持つ条件はなくなってきているはずですが、不思議ですね。年が変わることに、何か神秘的なものを感じます。

 新年を迎えるときのいろいろなしきたりは、その神秘さを表わしています。フレーベルが形に神秘的なものを感じたように、正月に関することで、形に意味を込めたものもあるようです。フレーベルが恩物の1番目にした球ではありませんが、丸い形には神秘的なものを感じたようです。例えば、鏡餅は丸い形をしています。

 もともと日本人は米が大切な食べ物でした。ですから、米に関する行事が多く残っています。そこで、稲に関して、稲魂(いなだま)とか穀霊(こくれい)という言葉があるように、人間の生命力を強化する霊力があると考えられてきました。この稲や米の霊力は、それを醸して造る酒や、搗き固めて作る餅の場合には、さらに倍増するとも考えられました。そんなことから、餅が古くから神妙な食べ物であったことを物語る伝説は、奈良時代に編纂された「豊後国風土記」や「山城国風土記」でも見られます。餅を弓矢の的に見立てて射ようとしたところ、その餅は白鳥となって飛び去り、人びとは死に絶え水田も荒れ果てたという言い伝えが書かれてあり、白餅は白鳥に連想されており、決して粗末に扱ってはならないもの、神妙な霊性を宿すもの、と考えられていたのです。
そして、宮中の正月行事では、新年の健康と良運とさらなる長寿を願う意味で、歯固めの祝いと餅鏡つまり鏡餅の祝い、とがセットになっていました。年齢という言葉に歯の字が含まれているように、健康と長寿のためには丈夫な歯が大切だと考えられていたのです。

 そんな大切な米から作られた鏡餅のその形は、その昔、鏡餅は年神様の依り代ですから、ご神体としての鏡をお餅であらわし、三種の神器の一つである“知”をもって世の中を治める道具とされた銅鏡の形の鏡は丸い形をしていたので、それをあらわしていると言われています。また、元禄8(1695)年に出版された「本朝食鑑」に「大円塊に作って鏡の形に擬える」との記載があることから、鏡餅は拝み見るべきものである鏡の役割をしているということで丸いと言われています。また、心臓の形をあらわしているとか、満月のように丸い形が生命力を表すとか、また丸く円満な人間の霊魂をかたどっているなどと言われていますが、同時に、年神様の神霊が宿る聖なる供物でもあります。それを大小二つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表しており、福徳が重なって縁起がいいと考えられたからとも伝えられています。

また、鏡餅の飾り方にも形の神秘性が使われています。鏡餅は、一般的には、三方(折敷に台がついたお供え用の器)に白い奉書紙、または四方紅(四方が紅く彩られた和紙)を敷き、紙垂、裏白、譲り葉の上に鏡餅をのせ、昆布、橙などを飾ります。また、正月に飾るシメ縄や玉串にも、ひらひらした切り紙がついています。これは、紙垂(しで)といい、様々な形のものがあります。この形は、落雷があると稲が育ち豊作なので、紙垂は、邪悪なものを追い払うという意味で雷光・稲妻をイメージしているようです。

形の神秘さは、自然の中のものから見出していることが多いようです。

立体の形

フレーベルが考えた「恩物」をどのようにとらえるかということに関して、無藤氏は、この恩物のような基本単位とその組み合わせというのは、フレーベルが考えたものではなく、フレーベルが子どもの成長上での意義を見出したのだと言います。しかも、それは単にフレーベルの思い付きではなく、ある程度時代思潮が関係しているのではないかと推測しています。これは、面白い推測です。というのも、彼は、セザンヌが自然は丸と三角とかでできていると言ったことと関係しているかもしれないというのです。また、ピカソが後期に入ると、立体派に変わり、人間の顔の断面を切っていって細工をするという作品を描きます。それは、ある種の原子論ではないかと言います。すべての物質は分子・原子からできていて、いくつかの原資によって構成されているということで、19世紀から20世紀の初めぐらいの典型的な思想だったと言います。

 すこし、話がややこしくなりました。しかし、このような一種の科学主義的な見方が教育に持ち込まれ、モンテッソーリの教育もある種の要素主義だと言います。モンテッソーリは人間の行動を感覚にもっていくわけで、感覚というのは、視覚とか聴覚とかで、そこを訓練したうえで高度な知性の発達に結び付けていくというやり方をしているというのです。

 フレーベルにしても、モンテッソーリにしても、少し前に取り上げた新教育運動の時に活躍した人たちです。ということは、ある見方をすると、新教育運動は、心理学の中心は要素主義で、人間の感覚というのを捉えると高度な知性も説明できると考えた時代だと言えます。ということは、やはり少し前に取り上げたジャレド・ダイヤモンド氏の「昨日までの世界」で指摘した国家社会の中で生まれた育児の西洋化における考え方を生み出したのかもしれません。もう少し、伝統的社会を見直すまではいかなくても、子どもがなぜあれほどまでに積み木に熱中し、それによってどのようなものを作るのかという姿を見て、考えることも必要な気がしています。

 そのような意味で、私なりに考えてみました。まず、フレーベルは恩物の1番目に「球」を持ってきています。この球は、積み木にはありません。それは、球は積んだり、平らに並べたり、組み合わせたりできません。ですから、フレーベルは、1番目の恩物である球は、ゆりかごに吊るして使用し、その色や形に惹かれた乳児が触ったり握ったりすることを想定したものでした。そして、そのような用途として球を選んだのは、「自然界における完全なる理想形」と考えたからです。確かに、2歳まじかの孫と粘土で遊んでいた時、球を作ると喜んで、それを正六面体であるさいころの形に変えようとすると怒ります。ただ、意外だったのは、フレーベルが乳幼児に与えるものとして恩物に球をあげた理由の一つに「球は丸いのでよく転がることから、乳幼児の運動に適していること」と挙げているのですが、どうもころがすというよりは、投げあげて喜びます。それは、園児にボールを与えても、転がそうというよりは、上に投げようとします。それは、誰かに投げるのではなく、むやみに上に投げ上げるので、よく自分の頭の上に落ちてくることが多いのです。

 私の経験では、向き合って座って、ボールを転がしあって遊ぶという姿は、もう少し大きくなってからで、たぶん人類は、まず手にしたのが石とか木片であったなら、それを投げて獲物を倒したり、脅かしたりするための道具で、子どもはその練習を先に行うだろうと思うのですが。

積み木のかたち

 レゴ社が新製品に取り組んでいたことは評価できますが、それは時代に合わせた商品なだけに、人類がもともとも持っている能力を子どもたちにつけていこうとすると、それは少し違ってきているような気がします。それは、たぶん、石とか木片を積み上げたり、並べたりしたと思います。それは、もしかしたら宗教的な意味を持つ模様を作ったり、他人への合図のために積み上げたのかもしれません。また、指が自由に使えるようになった歓びから、子どもたちは高く積み上げて遊んだのかもしれません。

 無藤氏は、積み木についてこのような印象を持っているようです。「積み木は基本単位があって、これが一つとか何種類かであって、それを組み合わせるわけです。この基本単位というのは単なる平べったい四角だけというのもあります。木でできた積み木もいろいろなものがありますので、中には三日月の形とか、何か穴の空いたものとか、そういうのが用意されている積み木もあります。」実際に、保育園、幼稚園では、どうしても集団で使うことが多いので、単純なものが多いかもしれませんし、積み木をする時間を長くとることはできないために、そう複雑なものを作るようなものは用意されていないかもしれません。しかし、積み木が教材になったフレーベルによる「恩物」はもっとシンプルです。その恩物が考え出された背景を無藤氏は考察しています。

 「恩物というのは、明治時代の訳語だから難しげに訳されていますけれども、与えられたものという意味で、与えられたものというのは誰が与えたかというと、神様に与えられたというので恩物です。フレーベルというのはカントやシェリングの流れを汲んだドイツの観念論的な哲学を背景にもった教育者ですけれども、ある種の神秘主義的な傾きを持った人だったと思います。ですから、幼稚園というものを世界を写し込んだ小宇宙みたいな感じにとらえていて、そこで子どもたちが大人がやるような作業をいろいろやることによって自らを形成していくといった発想だろうと思うのです。」

ただ、私たちが普通に恩物というと、木でつくられた方形の積み木のイメージがありますが、実は、フレーベルが考案した恩物は、全部で第1恩物から第20恩物まで20種類もあるのです。しかも、その中の第11恩物から第20恩物までを「手技工作」と呼んでいるように、「第11恩物 穴あけ」「第12恩物 縫う」「第13恩物 描く」「第14恩物 組む・編む・織る」「第15恩物 紙を折る」「第16恩物 紙を切る」「第17恩物 豆細工」「第18恩物 厚紙細工」「第19恩物 砂遊び」「第20恩物 粘土遊び」とあります。

私は、フレーベルの恩物について詳しくないので、これら11~20までの恩物が、どのように提示され、どのように指導するように提案しているのかはわかりませんが、保育の中で、子どもの遊びの中で重要な項目であることには間違いありませんし、現在の保育の中心になっている活動であることは間違いありません。逆に、もう一度、これらの活動を整理して、きちんと子どもたちの取り組みとして意識したい気があります。

しかし、ここでテーマにしている積み木に影響したのは、1~10までの恩物です。フレーベルの考え方が日本に入ってきたときに、教材として、また、今でも知育玩具として「恩物」として取り上げられているのは、こちらの方です。そして、そのシンプルな形に、フレーベルの世界観とか哲学が入っているようです。

使用範囲

 レゴが新しい教育ツールであるブロック「マインドストーム」を開発したことで、中国で人気が出ました。しかし、現在では、世界中で小学校から高校の間で導入が広がり、過去15年で世界60カ国の5万以上の教育現場で導入されているようです。日本でも、小中学校はもちろんのこと、東京大学や京都大学、明治大学など6000校で採用されているそうで、もはや、おもちゃではなく教材としてレゴが使われているのです。また、子どもへの教材どころか、大人が買っても楽しめるところから、アメリカでは、大人もこぞってこのマインドストームを買っているようです。

 多分、レゴを組み合わせて、何かの形を作るものとだけ考えていたら、思いつかなかったかもしれません。また、開発部にいる人たちだけでは思いつかなかったかもしれません。2006年に発売されたロボット教材「インドストーム」は、その制作過程を可視化し、熟練のレゴファンの集団を改良の作業に参加させたのです。そして、その作業が進むにつれ、レゴファン集団の数を増やし、最終段階では、100人ほどのファンを参加させて最終的な修正や変更をさせたということです。社内だけでの閉塞された社会で、いくら頭を絞ってみても堂々巡りをする可能性があります。そんな時に、いろいろな人の意見を聞くことは大切です。また、実際にそれを使う人の意見を聞くことも大切なことです。それを、レゴ開発では、使用者の意見を聞くだけでなく、その人たちも交えて開発していったのですから、人気が出るのは当然と言えるかもしれません。特に、レゴのようなおもちゃには、熱烈なファンがいるわけですから、彼らの方が、社員よりもよほど商品に精通しています。したがって、この取り組みは、熱烈ファンが商品開発に参加するという新しい取り組みのせいかとも言えます。

 このように開発された商品ですから、その利用者の幅は広がります。その甲斐あってか、このレゴの教育プログラムは、学校などの教育を超えて、企業の研修現場でも広く使われるようになりました。日本でも導入している企業は230社を超え、マインドストームを使ったロボコンに参加する企業も多くなりました。レゴ社の日本人向けの宣伝文句では、「マインドストームで、論理的な思考力や、創造的な課題解決力、プロジェクトマネジメントスキルなど、日本人が苦手とする表現力やプレゼンテーション力を培うことができます。」と訴えています。

 また、この教育プログラムとしての利用は、もっと広がっていくようです。ずいぶんと前から、宇宙飛行士を選ぶ試験にも使われているようです。2009年に行われた宇宙飛行士の候補者選抜試験にマインドストームが採用されたそうです。その課題は、グループごとにいくつもの課題や難題を克服しながら最終的にロボットを完成させるというものです。この完成にいたるまでの過程を見ることで、チームワークやリーダーシップ、さらに不測の事態が発生した際の対応力などを判断できるということで採用されているようです。

 このような商品は、もはや私たちが持っているレゴのイメージを越えています。しかし、ブロックとして自在に組み合わせることができるというレゴの基本的な機能は失っていません。実際にその作品を見ると、よりその実感をします。ということは、真の機能を失わず、その機能を熟慮した結果生み出された商品なのです。

 ただ、私たちが子どもたちに与えようとするブロック、積み木とは離れてしまっていることは事実です。

教育ツール

 組み立てブロックでいうと、世界中の中で有名なレゴですが、実は、2004年ころには、いつ破産してもおかしくない状況に追い込まれていたようです。そのような状況の中では、当然、どのおもちゃを新しく開発して、どのおもちゃをボツにするか、という議論が続けられます。しかし、このような話し合いは、ずっとしてきているわけで、それで業績が落ちてきているのであれば、何か改革が必要になります。それまで、新商品の開発部のほとんどがデンマーク人でしたが、これではグローバルな競争に勝てない、と考えた新就任の部長は外国人を登用し、さらに部内にマーケティングチームも発足させました。

 また、おもちゃに対して正直に「好き、嫌い」といった本音を語ることができるのは「子供と酔っ払い」しかいないという結論に至ったそうです。これは、名言ですね。これは、先日亡くなったやなせたかしさんの小さい子どもに大人気のアンパンマンについても言えますし、児童小説である那須正幹原作の児童文学シリーズ「ズッコケ三人組」も、子どもからの評価で人気が出たものです。

レゴ社も、開発するおもちゃを子どものグループに見せながら、改良を重ねて商品を世に送り出してきたのです。それが、レゴ社復活の秘訣だったともいわれています。レゴに関する著書『Brick by Brick』のなかで、著者であるデービッド・ロバートソン氏が、「マネジメントの役割が、どんなおもちゃを市場に送り出すか考えることから、徹底的におもちゃを下調べしたか確認することに変わったからだ」と話しています。そこから、現在、世界第2位のおもちゃメーカーにまで上り詰めたのです。では、子どもの評価から、どのような商品が開発されていったのでしょうか?

最近、こんなニュースが流れました。「ブロック玩具メーカーの枠を越えた企業として、さまざまな商品を世に送り出すことで同社の業績はかなり順調だ。」というものです。その商品は、もはやブロックを組み立てるだけのおもちゃではなくなっているのです。遊びの範疇を越えて、多方面に広がっているのです。今年の上半期に、レゴの売り上げが上昇した大きな理由の1つに、中国の存在があげられています。中国での売り上げは実に70%も伸びているそうです。中国はいまだに消費市場としての規模が大きく、おもちゃ販売でも現在、世界で2番目に大きな市場だそうです。その中国で成功した商品は、「教育版LEGO」というものが中心だそうです。中国では徹底した暗記など詰め込み型の教育が行われ、そこから自主性や創造性は生まれにくいといわれていますが、この「教育版LEGO」は、そこに自主性と想像力を付けてくれるLEGOの教育ツールだという触れ込みなのです。中国だけではなく、保護者にとって「教育的」ということばにはよわいですね。

この教育ツールとは、「マインドストーム」というおもちゃ教材です。マインドストームは、レゴ社とアメリカのマサチューセッツ工科大学との研究から生まれたロボット教材だそうです。「アナログのレゴブロックとコンピュータを内蔵したデジタルのパーツがセットになり、生徒たちの主体的な学びを育成する21世紀型の教育ツール」という触れ込みです。パソコンにつなげてプログラミングをしながら、レゴでできたロボットを組み立てていくというもので、1人でもチームでもいろいろと思考を巡らせながら完成を目指すというものです。私などは、それを聞いただけではなんだか難しそうな気がしますが、プログラムアイコンをドラッグ&ドロップするだけでプログラミングできるなど、10歳の子どもでも扱えるように設計されており、子どもの自主的な学習能力を育てるのにも役立つそうです。

いかにも中国ではやりそうですね。

ブロック

 私の園では、3,4,5歳児室のブロックゾーンには、レンガ積み木がたくさんあります。子どもたちは、それを上に積み上げて高い塔を作るだけでなく、横に広げて大きな街づくりもします。特に異年齢児集団ですと、その作品はとてもダイナミックなものとなり、決められた空間いっぱいに広げてつくり上げていきます。とくに、私の園では、そのゾーンは、作り途中のものは、片付けなくてもいいことになっていますので、作品はよりダイナミックなものになっていきます。

 無藤隆氏が最近、「幼児教育のデザイン」という本を出版しました。その5章では、「積木と組み立て遊び」を取り上げています。その最初の部分には、積み木の一つのルーツは、フレーベルの「恩物」からきているのではないかということで、いろいろなタイプの積み木を使ってある特定の形に組み立てるようになっているといいます。それが、いろいろな国々でも積み木を使った比較的自由な様式遊びというものに転換したものと言います。ですから、特定のものにしていくというのに対して、自分の自由に作っていくというタイプの方に変わったのではないかと言っています。それで、20世紀の百年が過ぎるのですけれど、その間に積み木というものがいろいろと広がります。
 これに類したものとして、代表がレゴです。このレゴについて無藤氏はこう言っています。「レゴは商品名なのでブロックと言いますけれど、ブロックというものはプラスチックでできていても小さい単位をつなぐものです。積み木というのは普通、積み上げるとか並べるだけです。ブロックというのは、組み合わせてがっちりとつながるようにできます。これはいろいろな会社から出ていますので、たくさんの種類があります。多分、木でつくると高く付くのでプラスチックなのだと思うのですけれども。ブロックは幼児の遊び道具ではあるのだけれども、大人用にもなります。ブロックを使っていろいろ複雑なものを作ることができます。ブロックの箱に見本が書いてあって、中に使用説明書が入っており、参考例が載っています。ブロックは単位となるブロックに何種類かのタイプがあるのだけれど、それ以外に特殊な形のものがあって、タイヤだとか丸いものや風車になるといったように、いろいろなタイプの特殊のものが入っていて、複雑でかつかなりリアルなものを作れるわけです。」

 確かに、レゴは、最近ずいぶんと複雑なものが作れるようになっています。確かに、想像力を養うというより、箱の表に書いてあるようなものを、その中の部品を使ってつくり上げるというようなものが多くなっています。それは、もう積み木というものと考え方が大きく違ってきています。私の前の勤務していた園では、ブロックが用意されていて、子どもたちはそれを組み立てて遊んでいました。しかし、どうも作品は個人作品が多くなり、見本がないと長くして武器を作ることが多くなるために、こんどの園ではレゴをやめて、レンガブロックという積み木を用意することにしたのです。

 この考え方からの行き詰まりが、レゴ社側にもあるようで、現在、順風満帆に見えているレゴ社ですが、実は2004年ころには、いつ破産してもおかしくない状況に追い込まれていたのです。それは、ある発想の転換から、レゴの復活劇が始まりました。

現代文明

 今年、園で「集団給食施設栄養改善知事賞」を受賞しました。これは、病院や企業で集団給食を行っているところに対していろいろな試みを行っているところが受賞するものです。今年度は、新宿では私の園1施設だけで、昨日保健所で賞状の授与がありましたので行っていきました。保健所からの推薦ですが、私の園から提案したのは、食育3本柱「栽培」「料理」「共食」の取り組みについてです。特に、その中の「共食」については、私の保育論にかなり影響を与えた、人類の育ちに必要な行為です。もともと、「家」という形態をとったのは、囲炉裏を囲んで、様々な年齢に人たちが集まり、みんなで話しながら食事をするということで、一家団欒の光景です。その中で、赤ちゃんは他者を理解しつつ自己を確立してきたというものです。

 その場が現在の多くの家庭では、ほとんど見られなくなり、母子間、または両親と子どもだけでの食事がほとんどになり、子どもがひとりで食事をすることも多くなってきたために、その弊害が様々なところに出てきてしまっています。そこで、様々な年齢の子どもたちの集団があり、様々な年齢ののいる大人集団がある保育園で、かつての一家団欒の光景を再現しようと「共食デー」を定期的に設けて、0歳児から大人まで、丸いちゃぶ台を囲んで食事をしているのです。受賞は、それだけではありませんが、今回のポイントの一つです。

 ファン・デグォン氏は、DVDの最後にたき火にあたりながらこんな話をしています。「現代文明は、自然の機能だけを奪い取り、その他は切り捨ててしまう。そもそもヒトは、火とともに人間になっていったと思う。現代世界では、自然と文明は対立関係にある。しかし本来、自然と文明を融合させるものだったはずだ。現代風の暖房は、家全体を温めるので人々が一か所に集まる必要はない。昔は家族全員、多いときには10人もの人が一つの火を囲んで語り合った。昔の共同体にはこの親密なコミュニケーションがあった。そしてそれを可能にしたもの、それが火だ。現代の文明も火によって始まった。だが、人間はその火を誤って使ったため、火によって滅亡へと追いやられている。」

 そういえば、私が子どもの頃は、ちゃぶ台を囲んで、みんなで丸くなって食事をしただけでなく、みんなでこたつにあたりながら、それぞれのことをしていた気がします。もちろん、一緒に同じ番組のテレビを見ていた時間もあるのですが、そう、長い時間は見ていませんでしたら、それぞれ何をしていたのでしょう。最初は、こたつの中は火が付いた練炭でしたから、それぞれの部屋にはなく、一家にひとつですので、みんなで同じこたつに入っていたのでしょう。

 現在、ファン氏はヨンクァンの山麓に仲間たちと食・住、エネルギー、そして教育の自給を目指す共同体を建設中だそうです。そこでまず、若者たちの学校をつくろうと思っているそうです。どのような学校を目指しているかというと、「そこではだれかが生命平和について教えるのではありません、まあ、先生が人間である必要もありません。私が思い描く学校では、若者たちが自立の方法を自ら身につけていく。その過程で、先生を自分で発見することが学生にとって最大の課題です。つまり、先生を見つけることが学びなのです。」と考えているようです。

ひとつの価値観を目指す国家の犠牲になったファン氏は、「多様な個性や、やり方が混ざり合った共同体としての秩序」を作り上げた社会を目指そうとしているようです。

生命の本質

 「生命の本質は平和である。」ということで、生命平和運動に加わります。そこには、二つの原則があります。その一つは、「世界の平和を望むなら、自分がまず平和になろう」もう一つは、「暗闇を呪うより、1本のろうそくを灯そう」です。そして、その運動の最大の特徴は、「反対の拳を振り上げる代わりに、問題を前にしていったい何が生命同士の平和を保障する道なのか、共に悩み、考え、問題の現場に身を置き、自らに問う。反対ではなく、代案を示す。創造の力へとエネルギーを転換するのです。」

 私は、やはりこれこそ現場人の原則であると思っています。今、保育の制度が変わろうとしています。それに対してただ反対の拳をあげるのではなく、そのエネルギーを創造の力へと転換させ、代案を示すことが必要だと思います。そして、実際にそれに沿って行動を始めることです。ファン氏は、具体例をこう挙げています。「問題の現場にみんなが望む共同体を実際に作り出してしまう。生命平和を共に学ぶ学校や、問題をめぐって分裂した地域住民が集まれる場や心の傷をいやす施設、つまり代案を現実化することにエネルギーを集中させるのです。」

 彼は、反対運動における怒りや憎しみは、確かに短期的効果は生むかもしれないが、長期的には害になると言います。なぜなら、相手はこちらの憎しみを食べて育つからと言います。自分の中に怒りを見つけたら、まず、祈りと瞑想で鎮め、負のエネルギーを正のエネルギーへと昇華させ、それを創造の力へと変えるのだと言います。彼は、獄中では、苦しみから逃れるためにクリスチャンになります。カトリックに入信します。信仰によって、自分をなんとか立て直そうとします。しかしいくら神にすがり。祈っても恨みを晴らすことができませんでした。そして、反対運動を起こしたり、あらゆることを試しますが、何の効果もありませんでした。そして、釈放されたのちは、仏教僧、道法師らと行動を共にしています。ですから、彼は、巡礼、ロゴ、内省のための「百拝」を提案するのでしょう。そして、祈りと瞑想で怒りを静める方法をとるのでしょう。

 私が提案する怒りを静める方法は、高い志を見つめることであると思っています。自分が目指している志にとって、当面の怒りはどのような意味があるのであろうかと考えることです。多くの怒りは、かえって志を遠ざけてしまう可能性があるような気がしています。それは、怒りへの対抗が、志を邪魔することが多いからです。もちろん、怒りが正のエネルギーへと変わるのであればいいのですが、とかく憎しみに変わることが多いのです。

 ファン・デグォン氏も、結局のところ人類学に戻ります。長い人類の歴史の中で、文明の歴史はたった1万年にもなりません。それは、人間の歴史の中でほんの一部に過ぎません。そこで、ファン氏は、文明以前の生き方に人間の原型を探りたいと思っています。そこにこそ、自然の生態系と見事に調和し、他の生き物たちと対等な共生関係にあった人間の姿を見ることができると言います。この世界には数えきれないほどの物や命がありますが、そのすべてが、一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは、人知を超えた神の精妙なるデザインです。いるべき場所にいる。それは、この世の様々なものには、それぞれの役割があります。幸せとは、平和とは、自分がいるべき場所にいることだとファン氏は考えています。をれは、多様性を認め合うことと同じことかもしれません。「ない物ねだり」をせずに、「ある物探し」をすると同じことかもしれません。ある意味では、身分不相応なことを望むから心の平和を望めないのかもしれません。幸せになれないのかもしれません。まず、自分をよく知るということが大切かもしれません。

弱い存在

 人はいろいろなことに巻き込まれます。それを運命だと受け入れることだとファン・デグォン氏は、「Life is Peace」で言っているわけではないと思います。彼は、人生は、決められた運命ではなく、「自分自身の道を探す旅」と言っているのです。道を探すことは、ヒトとしての生き方を考えることであり、そこに志を持つということだと私は思っています。ですから、保育を、人としての道である「保育道」ということを提案しているのです。そして、その道は様々なことに目を向け、それに対してどんな些細な物にも敬意を払い、真摯に向き合う必要があるのです。私たちは、その自分見つけを赤ちゃんや子どもたちから学ぶ職業のような気がしています。

 ファン・デグォン氏は、自分の道を野草から教わります。確かに、人間は食物連鎖の頂点にいる動物です。しかし、連鎖を完成させるためには、人間はだれかに食べられなくてはなりません。人間を食べるもの、それは微生物であるとファン氏は言います。その微生物を人間は汚いと言って避けようとししかし、微生物との共存なしに人間の暮らしはありえないというのです。それをファン氏は、こう言います。「共存とは、体に悪い微生物への抵抗力を持って、自由に自然と交わること。だが、清潔を重視しすぎて微生物を遠ざければ、共存は不可能になる。自然は巨大な微生物工場なのだから」彼は、「エコロジーとは、微生物と共存すること」と考えます。

 「“強い”人は、他人の弱さに配慮しないと言います。でも“弱い”人は、他者の弱さを理解し、思いやり、互いに助け合うことができる。」これは、重要な指摘かもしれません。人は権力を持つと、自分は強い存在であると錯覚します。人は、肩書を持つと、自分は強い存在だと思ってしまいます。最近の、東京都知事の騒動を見ていると、切なくなります。権力を人を変えてしまうのか、それとも権力が人の悪い面を表面に出してしまうのかと考えてしまいます。先月のリーダー研修で、私は、「リーダーとは、肩書でも地位でもなく、皆がついていこうと思う人でなければならない」と話しましたが、ファン氏の言うところを借りれば、リーダーは強い人ではなく、他者の弱さを理解し、思いやり、互いに助け合うことができる人であるべきなのです。

 ファン氏は、人間は、生態系の中で「強い」支配者として振る舞っていると言います。ですから、弱い存在である生き物たちの世界を理解せず、無慈悲に破壊してきたと言います。もう一度弱い立場になって微生物を受け入れてみると、微生物は悪者だと考えていたことが、逆であることに気がつくと言います。「微生物を避けるほど、急に接した時に病気になりやすいと言います。しかし、少しずつ適応していけば、弱かったはずの人が、他の生き物との共生によって、たくましく生き抜く術を身につけるのです。」

 そして、ファン氏は、とても重要なことを話しています。「“強さ”は孤立して弱さになり、“弱さ”は互いに支え合うことで強さになる」と言います。これは、まさに、一見、弱い存在と見える私たちの祖先のホモ・サピエンスが、生存してきた作戦なのです。弱いからこそ、一人で生きていくことではなく、社会を作り、協力することをしてきたのです。そして、自然と共生していく知恵をつけてきたのです。そして、特に日本では、自然に神が宿るとして大切に守ってきたのです。

まだまだファン氏から学ぶことは多いですね。

自然への回帰

 教えてくれるものは、周りにはいくらでもあります。様々なことを周りから学ぶことができます。その環境は誰にでも公平にあるのです。しかし、それに気がついたり、そこから学べるのは、特定の人かもしれません。それは、環境に対して謙虚でなければならないからです。赤ちゃんからもいろいろな学びが得られますが、赤ちゃんは何もできないと思っている限りは、何も学ぶことはできません。それが、道端の石ころとか、野草となるとより学ぶ力が必要になります。

 ファン・デグォン氏は、閉じられた監獄という中だからこそ、何もない中だからこそ野草からいろいろなことを学びます。特に、政治犯として捉えられ、権力と向き合ったからこそ、野草を育て、観察するうちに世界観が変わっていきます。「野草とは何か」それは、「自然から切り離されてしまった人間が自然回帰する扉だ」と考えます。また、「みずみずしいまま和え物にした野草の香りを嗅いだら、原始時代を連想するかもしれない。それも当然だ。はるか昔の先祖たちは、そんな草を採って食べていたのだから。文明というものは、そういう草の香りを少しずつ消し去った歴史ともいえる。在来種が消え去った社会、在来種が消え去っても誰も悲しまない社会、そんな世の中に生きているのだ、今、私たちは…。わたしたち人間だけが生存競争という一線を越えて他の生命をないがしろにし、驕りたかぶって自然の品位を失っている。人と自分を比べては、自分だけが優れていると思い込み、鼻高々な人間」だからこそ、野草から学ぶべきだと悟るのです。

 自分たちの遺伝子を子孫に残そうという生存競争では、他の遺伝子をないがしろにしては自分たちの遺伝子も残せなくなってしまうのです。また、自然を眼の前にしては、人類は小さな存在です。しかし、人類が自然を征服できるような思い込みが、痛い目に遭うことになるのです。そんな自然を、ほんの小さな野草からも感じ取ることができるのです。

 ファン氏は、そんな野草のことを「殺風景な刑務所で出会う傷だらけの野草たちは、私の人生を豊かにしてくれる大切な“獄中の同志”なのかもしれない。」(清水由希子訳)と思うようになります。ちょうどその時、

それまで禁止されていたペンと紙が許されるようになります。しかし、日記をつけることが許されません。そこで、彼は妹に「野草手紙」という手紙の形式で残そうと思います。それがのちに韓国で出版され、100万部を超えるベストセラーとなります。彼は、今でも畑ではトイレは使わないそうです。シャベルもを持って、穴を掘ってそこにしゃがみます。立っていることからしゃがむと、また違った世界が見えてきます。それは、土の上の小さな虫であったり、草であったりします。見えなかったものが見えてくるのです。野草の次元に降りるとは、違う視点から命の世界を見ることだと言います。

 しかし、私たちは野草の次元にはなかなか降りることはできません。それは、何が邪魔しているのでしょうか?彼は、こう考えます。「一番大きい問題は、固定観念です。つまり自然とは汚いもの、野生の動物や植物は不潔で、邪悪だという固定観念です。それは、社会が植えつけたもの。多くの人は、死ぬまでその偏見を持ち続ける。私たちは、人間中心の考えにとらわれて、ありのままを見ていないのです。」そして、こんなことを提案します。「汚く生きよう」これは、「エコロジカルに生きる」と同じ意味だと言います。

 先日、アレルギー児が急増しているとか、幼稚園、保育園での怪我が多いというニュースが流れました。私は、これも、私たち人間が自然から切り離されて生きている結果かもしれないと思っています。もう一度、自然へと回帰する扉をあける時期かもしれません。