動的と分団

「ひとりひとり」を大切にする保育、教育が打ち出された時に、「集団と個は両立するか」ということが論議されました。例えば、「基礎的・基本的な内容の指導の徹底」と「個性を生かす教育の充実」というバランスをどう取っていくのか、それは、ずっと課題です。特に、新教育運動がおこった時に、それをどのように整理するかがそれぞれの提案の最重点項目でした。

及川平治は、明治期最後の10年でその骨格ができあがった新教育運動の「大正自由教育」 の先駆者として、そして、教育における統一と分化の問題に真正面からとりくんだ実践での中から、「分図式動的教育法」を提案します。

まず、彼は「動的教育」というものを提案します。それはどのように定義されているかというと、1912年に彼が表わした「分団式動的教育法」の中で書いています。それによると、1番目に挙げたものが、「①為すことによって学ばしむ、 為すことを通して学ばしむる教育。②本能動力説に従い、児童の学習動機を惹起することをもっと教育の最大職能となす。③吾人の生活に価値あるものを獲取し、これを支配するに堪能なる人をつくる」です。2番目には、「児童の学習過程を尊重する」があり、3番目には、「自己活動をもって教育の手掛りとする」そして、「各個人を発寝せしむる教育。各個人をして、目的的に学習せしむるのであるから個人の発展を抑圧するような画一教育に反対する」とあります。

この動的教育を、それぞれの能力の違う子どもたちに行うのであれば、当然「分団式教育」になると及川は考えます。そこで、及川は1915年に「分団式各科動的教育法」の中で動的教育と分団式教育の関係を書いています。「動的教育は現行教育に対する根本的革新であって、分図式教育は動的教育を学級教育に適用した結果である。したがって、分図式教育のために動的教育を案出したものではない。分図式教育が主で動的教育が従であるというわけではない。」と繰り返しています。すなわち、教育の動的見地が、教育の根本的革新であり、その教育法を様々な能力をもった学級集団に適用すれば、結果的に分図式教育となるということなのです。

このことについて強調するのは、「静的教育の上に分団式教育をしようとすることによって、いたずらに学級作業が複雑」になったり、「動的教育を全く理解せずして分図式教育を説いた論文も」も出現してきていることに危機感を持ったからです。これらの状況を「本末転倒の謬見である。余は斯る誤れる分図式教育の普及を悲しむ」と嘆いています。また、こんな注意も促しています。「分図式教育は単純なる複式教授ではない。これが動的教育と結合してはじめて効果を収め得るのであるから、この式を採用せんとするものは間違いのないようにせられたい 」

彼に言う分図式教育とは、「児童の能力に応じて題材を統制すべきそれぞれの地位に据え、児童の能力に応じてそれぞれ適当に努力せしめ、児童の能力に応じてそれぞれ適切に補導する」を言います。このように彼は教育の個性化を強調します。彼の言葉で言えば、「能力不同の事実的見地に立って教育画一教育を打破して、 差別教育を施したいと思う 」ということです。しかし彼は学級教育解体を主張したのではなく、当時の誤った学級教育を否定しようとしたのです。学級を単に年齢別に編制し、学級では同一課程の履修をめざし、一斉教育を行うことが学級教育だと思っていることがそもそも間違いであると指摘します。

今のイエナプランに通じるものがありますね。

教育主張

 私の名前はあまり最近の名前には見かけないのですが、同じような名前の「及川平治」という人がいます。1921年(大正10年)8月1日から8日まで、大正デモクラシー時に、東京第一師範学校(現東京学芸大学)の講堂で、大日本学術協会が主催して「八大教育主張講演会」が開かれました。その講演会では、8人の演者が、演壇に上がり、各自の教育(改革)論を主張しました。同年の内に同協会から、講演会の内容をそのまま掲載された「八大教育主張」という本が刊行されました。その後1976年に玉川大学出版部から「教育の名著」シリーズの一環として復刻刊行されました。そして、1921年に刊行された際には、樋口長市他となっていますが、復刊版は小原国芳他著となっています。

この講演会には、夏の暑い盛りにもかかわらず、主催者側の予想を超えて2000人以上の聴衆が全国から集まったそうです。その中の一人に及川平治がいて、「動的教育論」を主張したのです。他には、樋口長市が「自学教育論」、河野清丸が「自動教育論」、手塚岸衛が「自由教育論」、千葉命吉が「一切衝動皆滿足論」、稲毛金七が「創造教育論」、小原国芳が「全人教育論」、片上伸が「文芸教育論」を主張しました。この講演者たちはその後、1920年代から1930年代まで、日本の大正自由主義教育のリーダーとなっていきます。

しかし、きちんと教育学を学べば知っているのでしょうが、私は、彼らの名前は小原氏の提言の中の「全人教育論」という言葉だけしか知りません。また、彼が、全人格の調和形成の実験場として玉川学園を創立したことは有名です。また、手塚岸衛は、「自由教育論」を唱え、沢柳政太郎とともに大正自由教育の旗手とされ、1978年東京に自由が丘学園を設立します。

 その中で、及川平治は「動的教育論」を主張しますが、デューイの思想的影響が強いために、日本のデューイと呼ばれています。簡単に言えば、「動的教育」とは、注入的教育に対し、子どもの能力差に応じた指導方法を重視し、真理を与えるよりも、探求法を授けることを重視した教育を提案しました。

彼の持った問題意識は、イエナプランにおけるペーターセンに似たものがあります。当時、義務教育制度が整備され,欧米においてもわか国においても今世紀に入ると就学率か90%を越えてきました。しかし、この全国一律の義務教育システムは、あらゆる人にあらゆる教育を与えるどころか、カリキュラムで限定されたある一定の知識・技能でさえ,習得できない子どもがたくさん出てきたのです。いわゆる落ちこぼれです。そんな彼らを学習不能者として切り捨てていくのか,それとも教える側の努力,工夫によって彼らを救うのかを考えます。

一方、統一的な共通カリキュラムではあきたりない優秀児もいます。彼ら優秀児も統一的な時間割で、授業をしていってよいのかということも問題になってきます。そこで、統一性を原則とする学年学級制,つまり学級教綬システムを、子どもたちの個人差,能力差,
個性等の問題とどう関係づけるかということを考えます。公教育において統一と分化をどう解決していくかという問題になるのです。そこで、及川平治は1912年に「分団式動的教育法」という書物を著わします。また、1921年に八大教育主張講演会で「動的教育論」を講じます。

 まず、彼は、いわゆる落ちこぼれの子に対して、「バタビア・システム」というアメリカの個別教授方法に基づいて個別研究を行います。その直後に、「劣等生」という子どもをどうやって成績を伸ばさせて、進級できるように考え、子どもに教育をするのに大切なことはその学級が子どもにふさわしいかどうか、教育課程は十分かどうかだということに気がつきます。それで、子どもの一人一人の個別の能力に応じて教育を実践し、教育制度を変革していく必要があると思います。

 そして、「分団式動的教育法」を講じたことで、全国的に注目を注いだのです。では、それはどんな教育法だったのでしょうか。

怨霊

 私は、当時そんなに子どもではありませんでしたが、NHK総合テレビで放送された人形劇「新八犬伝」をよく見ていました。この番組の視聴率は夕方の15分番組としては異例の平均20%を記録しました。そして、1年の放送予定が2年に延長されたのです。この人形劇の原作は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」です。この番組は、「因果は巡る糸車…」という坂本九の名調子で始まりますが、全体の話は因果がテーマです。そして、この人形美術を担当したのが、辻村寿三郎(当時は、辻村ジュサブロー)で、この物語用に300体もの人形を作ったそうで、一躍人気作家となりました。

 この番組で印象に残っているのが、「玉梓」です。彼女は、里見義実に処刑されたため、怨霊となって犬の八房に乗り移り、様々な災いを里見家に及ぼそうとします。クライマックスになると、「われこそは、たまずさがおんりょう~」とおどろおどろしく登場します。tamazusa“仁義礼智忠信孝悌”の8つの珠を持つ八犬士が、当初、お互いの存在を知らず散り散りになっていたが、やがて運命の糸に導かれて出会いを重ね、最後には、里見家を守ります。

 人は死ぬと、魂が霊として肉体を離れるという考え方は、日本では古くからありました。そして、その「みたま」なり「魂」といった霊が、人々に様々な災いを起こすと考えられたことも、その頃から考えられていたようです。そして、八犬伝に登場する玉梓のように政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方も古くからありました。そこで、古代人は、死後の霊魂(御魂)を神として盛んに祀りました。目の前の災害や不幸が「あの人の祟りだ」と信じれば、なおさら真剣に祀ったであろうと考えられます。「荒魂」を鎮静し、祟りは鎮めてほしい。できることならば、「和魂」となって私たちを守護し、幸福をもたらしてもしいと願うようになります。そんなことから、平安期に御霊信仰が行われるようになりました。

 恨みを残して非業の死を遂げたものの霊は、「怨霊」となり、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらすとおもわれてきました。そこで、そのような霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、「御霊」となり、鎮護の神として平穏を与えると考えました。マイナスからプラスへの変換の発想です。これが御霊信仰です。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われました。

 昨日訪れた懐古神社に祀られている加具土命は、火魂(荒神)であり、合祀されている「菅原道真」は、「日本三大怨霊」の中でももっとも都中を恐れさせた怨霊です。そして、懐古神社には、藩主牧野公歴代の霊が合祀されています。神道において、人は死ぬとその一族の守護神となるという考え方がありました。もともと日本の神様の多くは、祖先であることが多く、一族は、その祖先を「氏神」として祀ってきたのです。これを「祖霊信仰」と言います。

 もともと、日本人は祖先を崇拝してきました。それは、死亡した祖先が、生きている者の生活に影響を与えている、あるいは与えることができる、と思われてきました。そのような考え方は、中国、日本(沖縄)などに見られるようです。それは、中国では祖先崇拝と呼ばれ、清明節などの習慣があります。そして、日本では、学問的には祖先崇拝とか、祖霊信仰と呼ばれています。お盆などにお墓参りするのも、盆踊りをするのも、祖霊を慰めて一族を守ってもらおうとするものです。

 漠然としたままで行っていたいろいろなことがつながり、はっきりしてきます。

祟り

こんなブログを書いておいて、私はよく神社には行くことはあってもその神社に祭られている神が誰なのかは基本的には関心ありませんでした。また、たとえば、その説明を読むことはあっても、その神がどのような神であるかは特に注意しませんでした。それが、このブログを書くようになったきっかけは、近くの神社に行った時に、御宮参りとか七五三などの時には、本来は氏神様に行くべきだと教えられ、赤城神社に行ったからです。そこで、赤城神社は誰を祀っているのだろうかということから、神社、神という存在に興味を持ち始めたのです。

 今日たまたまもみじがきれいだということで小諸城址内にある「懐古神社」に行ってみました。この神社は、比較的新しいものです。明治13年、反が廃止され、小諸城跡は荒れ果てていました。そこで、この城跡を整備して懐古園という庭園にするときに、小諸藩の旧士族により本丸跡に城の鎮守神として祀られたものです。この神社には、天満宮、火魂(荒神)社の二社と藩主牧野公歴代の霊とを合祀してあります。
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 この神社の「荒神」という言葉が、まさにきのう書いたブログとシンクロしたのです。その火魂社(荒神社)の祭神は、火之加具土命で竈の神で小諸城を最初に築きはじめた大井氏が城鎮守の社として奉祀いてきたものだそうです。この火之加具土命は、このブログを書き始めたきっかけの赤城神社に祀られている「岩筒雄命」の父親なのです。この「加具土命」は火の神様で、母親を死に至らしめたほどですから、その働きのひとつである「祟り(たたり)」の神なのです。
 祟りというと、なんだか怖いイメージがあります。辞書には、「神仏や怨霊などによって災厄をこうむること。」と「行為の報いとして受ける災難。」とあり、この祟り神は、その最初の方の意味です。よく言うような「バチが当たる」ということと同じような意味です。別冊宝島には、この祟りについてこう書かれてあります。「古今東西、歴史的には権力闘争が渦巻いている。そこでは戦闘が展開し、陰謀や裏切りがある。激動の日本史においても、志半ばの非業の死、戦いによる絶命、失意の憤死は数えきれない。結果、世間に祟って(あるいは祟ったとみなされて)、現在にまで語り継がれる人物も多い。」

 この祟り神になった代表的な人物の一人が、この懐古神社に祀られている天満宮の祭神であり天神様と呼ばれている「菅原道真」です。この神社の天満宮については天正12、3年の頃、城主松平康国公が城内空堀改修中、紅葉谷の土中から光を放っていた天神様の木像を発見したので、紅葉ヶ丘の荒神社と並べて安置したと小諸温古雑記に記されているそうです。そして、神社の下には、寛保の大洪水の跡に掘られたという「荒神井戸」がありました。
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 このように人間の祟りが神になった代表的なものに、菅原道真のほかに平将門や崇徳天皇がいます。いくら、八百万と言われるほどたくさんいる日本の神様ですが、人間も神様に、特に、不幸な死を遂げ、祟りを持っている人物が神になるのは不思議な気がします。それは、私たちを守ってくれるのではなく、呪うのですから。しかし、昨日のブログで書いたように、人にも霊魂があると考えます。そして、人は、神と同様の「働き」もするというのが、古代からの日本人の考え方であったと言います。それは、人は死ぬと霊魂は神霊になる可能性が多分にあり、神の働きをするということのようです。では、その後にどのようにして祟りが生まれてくるのでしょうか?

霊と魂

日本人は、神と同じように「霊魂」を信仰します。本来は、日本人特有のものではなく、人類が持っていた概念です。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」に、「霊魂」の起源が書かれてあります。ここには、「人類誕生以来、いつ頃から“霊魂”という概念を持つようになったかははっきりわかっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない。ネアンデルタール人については、(一部に否定説はあるが)死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる遺跡が幾つか知られており、これらの行動や文化の原動力として原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈も主張されている。

クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供物、墓の上に大石を置いたり死体の手足を縛って埋葬するといった風習もあって、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観念も、より明確であったと思われる。」

また、世界大百科事典 第2版「霊魂」の用語解説の最初の方には、「身体にひそむと信じられる超自然的な存在。人間だけでなく万物にひそむとされるときはアニマanimaといわれる。」と書かれてあります。日本人は、はるか昔から「神」にも「人」にも「自然」にも、そして時には物体にまで、あらゆるものには、「霊魂」が実在すると考えていたのではないかと言われています。そして、その「自然」とは、かなり幅広いもので、山川草木だけでなく、天体、自然現象にまで霊魂があると考えていたのです。その証拠に、私たちの心の奥に潜んでいる自らは気がつかない神道の観念の中に、自然とは支配するものではなく、己と一体のものと無意識のうちに認識しているからだと言います。このような認識は、神と人と自然とが共生するという観念であり、一体感を感じているのです。この観念が日本固有のものとして体質化していることをみても、霊魂は、その一体の中に存在すると考えているとしても不思議ではないのです。

古代日本神道において、霊魂について「一霊四魂」という観念があります。それは、神とか人間の霊魂は、一つの霊と四つの魂で構成されるという考え方です。一霊とは、「直霊(なおひ)」といい、四魂とは、「荒魂(あらみたま)」、「和魂(にぎみたま)」、「幸魂(さきみたま)」、「奇魂(くしみたま)」です。一霊である「直霊」の「なお」とは、素直に通じる人間が持つ本来の円満無欠の霊のあり方を表わしていると言います。また、「ひ」とは、古代日本人の霊の呼称です。

四魂の方は、四つの魂がそれぞれの特質を持ちつつ補完し合うものとして存在すると言います。この四魂の概念は、古代人の日々の生活の中で、直感的、実存的に、即物的に、感性から導き出されたものではないかと考えられています。ですから、ここには、序列はないと言われていますが、神道では、「荒魂」と「和魂」に分け、この「和魂」の働きをさらに分けたものが「幸魂」と「奇魂」だと考えています。

「荒魂」とは、霊魂が荒ぶり、猛々しく、勇壮な働きを持って現れます。ですから、天変地異が起きるとか、不幸が起きるなど「祟りがある」と思われるような出来事は、この「荒魂」の活動であると思っていました。それを調整しているのが、穏やかな働きを指している「和魂」です。神の優しく平和な、愛情にあふれた側面を受け持ちます。

古代人が直感、感性で把握した考えは、非現実的なものではなく、実体をともなった存在であることが、しだいに解明されてきているようです。

企業内神社の再評価

 企業での働き方の変化により、企業がかつての村社会のしきたりをモデルにしなくなりました。新人社員や若手社員は、本人の希望に関わりなく、生涯同じ会社に働く可能性は低いと考え始めています。会社に対する愛着よりも、仕事に対する生きがいを重要視するようになってきたからです。ということは、村社会の精神的支えであった鎮守様の存在も必要なくなり始めました。そういう意味で、企業内に神棚を祀ることが減ってきました。

 しかし、違う意味で、また企業内神社の必要性が生まれ始めているようです。それは、また、違う企業のあり方の変化があるからです。大手企業ではいろいろな分野に手を出し始めます。最近、思いがけない商品や事業内容が、私たちが知っている企業の業務内容とかけ離れたことを展開していることを知って驚くことがあります。衣料メーカーだと思っていたら薬品を扱っていたりということが多くあります。また、私の書いた書籍を出版していた学研などは、分社化しています。この分社化も最近の企業の傾向でもあります。また、老舗の大手企業もベンチャービジネスへも参入し始めています。

 今、会社は「どんなことをしていますか?」という問いに答えにくくなるほど多角経営をしています。ですから、その会社に勤めている人たちは、会社への帰属意識というか、所属感というか、共通意識が薄くなりました。しかし、会社としては、社員には、希望の職種につけなくてもそれぞれが配属された場所で、会社に愛着を持ってほしいと思っています。「何々会社」の社員であると思ってほしいのです。そして、その会社に勤めていることを誇りに思ってほしいのです。そのあたりのこと、別冊宝島にはこう書かれてあります。

 「○○会社の社員であるという誇りと、創業時から成長を続けてきた“輝かしい歴史”の延長線上にある、という一体感を得られる場所こそ、変化し続ける企業の中で、“変わらない存在”である企業内神社なのである。」あまりに変化する時代だからこそ、変わらないものを求めるのかもしれません。それは、あまりの変化の中で自分を見失ってしまいそうになるからでしょう。一時期減ってきた社員旅行が近年、再評価され、また復活している会社が多くなってきたそうです。それも、同じ会社へ勤めているという一体感を感じようとしているからでしょう。

 「どのような部署であっても、社員一人一人が運命共同体の一部として機能し、会社を支えている。そんな意識を再認識できる場所が企業内神社なのである。」ということで、ある企業では、一般の神社と同様に、毎年春と秋に神職を招いて大祭を行っているそうです。そこに、主立った社員が集まって祭典に参列し、その後、社長の訓話を聞き、最後に直会(祭典後に行う飲食の儀礼)を行います。神様に日頃の感謝を伝えて、新たにスタートを切る大切な節目の時間としているようです。

 では、会社はどのような神社を祀っているのでしょうか?ある分類が成り立つようです。当然、商売繁盛の神が中心です。その中で最も多いのが、大黒様などを祀る神社や稲荷神社を分祀しています。そのほか、その次は、創業者、あるいは経営者のもともと信仰している神様や生家の氏神神社を祀る場合があります。次に、事業所や工場の立地する土地の鎮守神社である場合です。地鎮祭などで祭事を行ってもらう神社を分配するケースだそうです。ただ、最近は企業によっては、支社や事業所、工場ごとに鎮守信者をお祀りしている場合です。その次に、その事業に関連する神様を祭っている神社の場合などです。

企業内神社

企業がなぜ社内に神棚を作り、神に祈るのかということは、企業を一つの社会、共同体としてになし、その中での人との関係をまとめる役割を感じているからのようです。しかし、その企業の中で、時代の先端をいき、科学的な分析が必要とするような企業で、より多く祀られているのはどうしてなのでしょう。それは、単に企業内をまとめる役割だけではないようです。そこのところを別冊宝島ではこのように分析しています。

「彼らは、自分一人、あるいは少数の人間で事業を起こした人々で、他とは異なる大胆なひらめきと判断力によって、事業を拡大してきた。新たな分野へのチャレンジするベンチャー企業においては、成長過程において経営書を読んでも書いていない事態も多くある。そのような未知な事態に対して自らの感覚やセンスによって乗り越えてきた彼らは、“こうすれば正しい”という答えがない状況にある。そこで自らの判断を振り返る場所、心の拠り所として神棚を祀る傾向にあるのだ。個人投資家など、特に不安定で厳しい業界を生業とする人が神棚などを祀るケースが多くみられる。」

私は、特に神棚を祀ってはいませんが、何となくその気持ちはわかります。特に「自らの感覚やセンスによって乗り越えてきた」人にとっては、具体的な対処、方法では想定外のことが起きたときに自分を支えることは難しいのです。また、そのような人は、独りよがりになりがちですが、そうなったとたんに、その事業から独創性は消えてしまいます。常に自分を客観的に見つめることが必要になります。また、それを乗り越えるいわゆる愛着の存在が必要になります。安心基地が必要なのです。どうも、その役目を神棚は果たしているようです。

しかし、ベンチャー企業、個人投資家だけでなく、大手企業でも、社内に神棚をおくところが、時代が進み、科学的発展が起きていく中で、増えてくると言っています。それは、企業を村社会として捉え、その村社会を支える「村の鎮守様」という役割であることは機能のブログでも書きました。別冊宝島では、昭和32年(1958年)に発行されたジェイムズ・アベグレンの「日本の経営」という本を紹介しています。

日本的経営の特徴として、終身雇用制、年功序列制、企業別組合性」の三つがあると言っています。これらは、村社会においても同様にみられる特徴であり、村で生まれ、村で亡くなるという終身雇用的な社会、長者を頂点とする年功序列制、相互扶助団体である「講」組織などです。確かに、企業の中での日本の特徴は、私たちが村社会の中で自然と行われてきた秩序かもしれません。しかし、これらは、次第に薄れてきている気がします。ギ行における雇用のあり方も変わってきています。もはや、村社会ではなく、アメリカにおけるビジネス、サービスの考え方、効率化によって、変わってきています。その変化をこう書いてあります。「長引く不況、少子化によって国内需要は減少し、非正規社員の割合が増えている。ヘッドハンティングや早期退職制度などますます増え、終身雇用制は崩壊しつつある。また年俸制の導入など、年度ごとの能力査定が行われ、年功序列制は薄まり社内競争はますます激しくなっている。企業の存続が危ぶまれるなか、組合の機能も弱まる傾向にある。」

このような変化は、保育園の世界でも同様なことが起きています。新しい時代に対して、どのようなことが課題になっていくのでしょうか?

企業と神社

 日本の神様の特殊性は、他にもあります。別冊宝島には、こんなことが書かれてあります。「厳しい競争の中、日々成長を求められる企業。“革新”や“カイゼン”などによって時代の最先端を進んでいる。しかし一方、多くの企業が、社内に神棚を持っている事実がある。さらに現在の日本を代表する企業には、神棚を格上げし、自社の神社を持つ企業もある。」
 これは、どうも日本における神様になにか違う力を感じるようです。どんなことを企業は求めるのでしょうか?特に、新しいものを次々に生み出していく、先端の企業と、どうして古い存在である神が結び付くのでしょうか?
 
この冊子では、このように解説しています。「企業は、社会全体から見れば一つの共同体である。共通の目的を持ち、各人、各部署の働きが、他者に与える相互扶助団体だ。現在では隣の住民との関係を持たずとも暮らしに支障はないが、近世以前では、田植えなどの農作業や買い付けなど、村全体が相互扶助団体として機能していた。その村の精神的支柱であるのが神様であった。」

 私は、日本人のお互いのかかわりのあり方が、今後の世界におけるキーワードになると思っています。そして、その社会の形成者としての資質を子どもたちにどう備えていくかが課題だと思っています。その根底にどうも日本の神様の存在があるかもしれません。それは、単に宗教というよりも、社会を形成するときの精神的支柱だったかもしれないのです。

 村という共同体を襲うもの主なものは、自然です。天変地異です。これは、もはや人間の力では防ぐことはできません。その時に自然に宿る神々に頼るのは当然でしょう。神を祀るのは納得がいきます。また、その時に、村人にとって、神社は原点回帰の場所であるとも言います。正月や催事など節目節目に村人は集まり、自らが村の一員であることを再認識し、先人たちに思いを馳せます。そして、祭りにおいて、感情を爆発させ、一体感を持ち、村社会の秩序と仕事への意欲を高めたのではないかと言うのです。

 このような神の役目が村人たちあるとしたら、同じような共同体である企業にも当てはめることができます。別冊宝島には、社員旅行や忘年会などの飲み会は、村におけるまつりの概念から生まれた企業文化ではないか言っています。そして、現在の企業における熾烈なビジネス環境は、自然現象のように予想はできても、想定外の、人間の力ではどうしようもできない出来事が起こると言います。そんな予測困難で不透明な出来事に対して、社員の不安を和らげ役割が企業所内神社にあると言います。そして、創業の心を思い出すことで、社員の意識と帰属意識を高める場ともなっているのです。企業という共同体の精神的支柱が企業内神社なのであると言います。

 特に、IT関連のベンチャー企業のオフィスには神棚が設けられて大切に祀っているケースが多くあるようです。それは、どうしてでしょうか。老舗企業であれば神棚を祀ってあっても納得がいくのですが、最先端の、とくに新しいものに挑戦するIT関連のベンチャー企業で多く祀られているのは、どうしてなのでしょうか?とても興味が湧いてきます。

神話と昔話

神話には不思議な話が詰まっていますが、そこには、その話を作った何らかの意図があったと私は思っています。また、その中で語られる神々にも何らかの役割を持たせ、そこにはやはり何か伝えたいものがあるのだろうと思っています。同じように、昔話にも、不思議な話が多くありますし、その話の主人公にしても、ずいぶんと不思議な体型をしていたり、不思議な力を持ったりして言う人物が登場します。

たとえば、一寸法師の話は、冷静に考えると何とも不思議な主人公です。現在伝わっている話は御伽草子に掲載されたものが元となっていますが、どうして、「指に足りない一寸法師」という歌にあるように、一寸(約3センチメートル)の身長の主人公を作ったのでしょう。しかも、最後に打ち出の小づちで大きくなった法師は、なんと身長は六尺(182cm)にもなるのです。これも極端ですね。

「小さな子」という主人公は、日本神話では、波にのって海の彼方からやってきたという小人の神様である少彦名神(すくなひこなのかみ)がその源流と考えられています。古事記では最初に世界に現れた造化三神の中の神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされています。生まれたときに、手指の間からこぼれ落ちたとされています。そして、大国主神がはじめ出雲の「御大之御前」にいた時、常世の国(海のかなたにあるとされている国)からガガイモの殻の船に乗って、蛾の皮をまとった姿で光り輝きながらやってきたと書かれています。そして、その大きさは、手のひらに乗るほど小さかったと言われています。

大国主神が珍しがって掌に乗せると、頬をつつきます。そこで「あなたは誰か」と聞くのですが、小さな神様はまだ言葉がしゃべれないようでした。そこで物知りの案山子(かかし)の神に聞くと「それは神産巣日神の子どもの少彦名神ですよ」と答えました。そこで大国主神が神産巣日神にそのことを尋ねると「その子は私の指の間からこぼれ落ちた子なのですよ。あなたの弟として育てて、一緒に国作りをして下さい。」とのことでした。

そこで、少彦名神(すくなひこなのかみ)は大国主命を補佐し、全国を回って国土を開拓した神とされています。そして、出雲の開発と産業を発展させました。国づくりが終わったある時、少彦名神は自分のするべき事は終わったと考えたのか、「粟島」に行き、粟の茎によじのぼって、茎の弾力でポーンと跳ねて常世の国に去っていきました。そして、大国主命が大黒様とされたことから、少彦名命は恵比寿様とされました。少彦名命は体が非常に小さかったのですが、その知識量は膨大であり、特に医薬の知識が豊富で、神道において日本に医薬を伝えたとされ、大己貴命(大国主命)と二柱で医薬祖神と言われています。そして、酒は百薬の長と言われているように、酒造りの神様としても知られています。

また、少彦名神の名前と出自を大国主神に教えたのが案山子だとも言われています。そこで、案山子と混同し、少彦名神は田畑の守り神とも考えられています。また、「伊予国風土記」には、大国主命が病気になった際に、大分県の速水の湯を運び、湯あみによって治療したことから、温泉の神様としても信仰されています。出雲地方の玉造温泉をはじめ、四国の道後温泉、箱根の元湯温泉は少彦名神が発見したことになっています。

断片で知っている話が、いろいろとつながってきます。

家の中の神様

 日本の神様の存在は、まさに、日本人の暮らしそのものです。太陽や月、海をつかさどる神々は世界の神の中には存在しますが、まさか、家の中のいたるところに神がいるとは思わないでしょう。日本人は、神が宿っていると思うことで、それを大切に思い、きれいにしていました。逆を言えば、大切にしたいものに神を宿らせたのかも知れません。また、子どもたちにそれをきれいにしてほしいと思った時に、そこに神を宿らせたのかもしれません。大切にすることで、きれいにすることで、私たちを守ってくれると言い伝えられてきたのでしょう。家の中に宿る神様は、そのような意味があったのかもしれません。

 まず、私たちが住んでいる土地を守ってくれる神様がいます。その神様は、一つの神様ではなく、それぞれの地域ごとに違っています。この神様が、いわゆる「鎮守様」です。そして、それは氏神様とも言います。神社庁のHPによると、「その名の通り、元来は、文字通り氏姓を同じくする氏族の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁的集団を氏子と呼んでいました。現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。」と書かれてあります。

 ここでいう、その地域の神様である産土神、またその土地の神々である「此の地を宇志波伎坐(うしはきます)大神等」をお祀りして、建物の新築や土木工事の起工の際などに工事の無事進行・完了と土地・建造物が末長く安全堅固であることを祈願するために、おこなわれる祭りが「地鎮祭」です。

 もう少し身近な神様が家の中にはいます。例えば、家の門は、「天石門別神(あまのいわとわけのかみ)」が守ってくれます。神話の中で門と言えば、天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、外に連れ出す時に、こじ開けた門が「天岩戸」です。そこから、この天の岩戸を神格化した神が、「天石門別神」で、岩戸の守護神です。古来から、皇居の四方の門に「門の神」として祀られているそうです。

 皆が集うリビングには、家を支える大きな木の柱があります。それを大黒柱と言います。ということで、リビングを守っている神様は、大黒様です。大黒様と言えば、「大きな袋を肩にかけ」という歌があるように福袋を肩にかけ、打ち出の小づちを手に持っているというイメージがあります。本当は肩にかけている袋の中身は、様々な神様の荷物を持っているそうです。

 台所を守る神様もいます。その神は「三宝荒神」とよばれ、不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰されてきました。日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されてきたようです。かまどは、中国の陰陽思想で、世界を構成する五つの要素「木、火、土、金、水」がある場所であり、特に信仰が篤かったようです。同じ水を守る神でも、風呂場などの水回りを守るのが水分神です。この神は、水に関係することから龍神としても知られており、安産の神様でもあります。

そして、最近、歌で有名になった「トイレの神様」がいます。トイレの神様は、神様の中での美しい女神と言われている「弁財天」です。なぜ、弁財天がトイレの神様になったかというと、こんな話があります。「人々が家を持つようになったころ、まだ家をどのように扱えばよいのかわかりませんでした。そこで、七福神が家の各場所を担当して人々に教えることにしました。その担当を決める七福神会議の日、弁財天は衣装に悩み、また道々で立ち話をしたため、会議の場に着いた時には担当場所がトイレの場所しか残っていなかったのです。以降、弁財天がトイレの神様となり、トイレを清潔に保つと弁財天のご神徳によって美しくなれると信仰されるようになったのです。」

 それにしても、神様らしくない担当の決め方ですね。