知識観

 昨年、韓国の烏山大学教授の孔教授の講演を聞きました。その中で「今の世の中でどのような力を子どもたちにつけていけばいのか。」というテーマの中で、「知識観」についての話がありました。今後は、「基礎知識+デューイの機能的知識(観察、実験、体験による知識。問題解決能力)」が必要になるという提案がされました。そして、「そのためにどのような保育が必要になってくるか」ということで、デューイの未熟性について説明がありました。それは、「人間は未熟であるために、何かに頼りたい気持ちがあり、外部の力(環境)によって自分を変える可塑性をもち、その環境とのかかわりの中で、すべての人間は環境にうまく適応しようと常に反省していくという経験をしていくことが必要である、とまとめられました。

 それらの歴史的経緯を踏まえたうえで、孔教授が考える「見守る保育の深まりと広まり」という内容で、次のような話をされました。「今までの保育政策はハードウェア―に集中してきた。しかし、これからは量から質へと転換する必要があるのではないか。」ということで、あたらしいプログラムの追求が大切になっていくであろうと思っていたそうです。そこで「見守る保育」と出会い、その原点を守っているプログラムであるということ、そして、「見守る保育」には、プロジェクト学習にみられるような、「子どもをコントロール」し、「子どもが間違うことがゆるせない」ということではなく、子どもは間違って、それを元に戻そうとするプロセスで学んでいくものであり、そのプロセスを大切にするために、子どもの行動をよく見て、プログラムを作っていくことというような、子どもに合わせるプログラムであるということから、韓国でも「見守る保育」を広げていきたいという話でした。

 孔教授の話の話に出てきたデューイは、アメリカにおける新教育運動を牽引してきた人であり、新教育運動を語る上で外せないのが彼の提案した学習論です。デューイは哲学者であり、社会思想家であり、教育改革者でもあるという人であり、幅広い活動を行いました。デューイの思想はプラグマティズム、もしくは道具主義と呼ばれます。知とは価値を得るための道具に過ぎないという考え方であり、自ずとそれが学習論にも現れているようです。

 孔教授の話の中での知識観の中で「問題解決型学習」と呼ばれる考え方が紹介されていましたが、これはデューイの学習論の基本を成すものです。この学習の考え方は、様々な知識や技術を学ぶ際には、その技術知識のみを切り出して教えても意味がなく、何らかの問題解決の道具として用いられる中で習得されて初めて意味があるというものです。何らかの課題を生徒自身で設定して、そこに対して様々な解決法を試行錯誤する中で習得する事柄にこそ意味があるとするものであり、大人があらかじめ体系的に設計されたカリキュラムにそって学習していくという形を否定する立場なのです。

 この考え方では、教師は、いかに子どもたちが様々な課題に挑戦できるかという場を作ることが最重要の焦点となります。その関係もあって、デューイは学校という閉鎖完結環境で勉強するのではなく、社会生活の中で学習の場を設けることを非常に重視しました。したがって、生涯教育に結びついていくのです。

知識観” への6件のコメント

  1. 奇しくも、本日セミナーで「烏山大学孔教授」に触れることがあり、その際私は孔を「こう」と日本語読みししため、そのセミナー参加者から「コン」ではないですか、とご指摘を受けました。韓国語読みでは確かに「コン」でしたね。私は孔教授も孔子様を先祖に持つ家系であることを意識してしまったためについ日本語読みになりました。ところで、『見守る保育』中国版の訳者も孔さんです。「せいが」は孔子の『論語』からですから、藤森先生は余程孔子様にご縁がある方とお見受けしたところです。さて、デューイの思想については「プラグマティズム」程度で押さえていました。「社会生活の中で学習の場を設けること」という提案をされていたところは流石プラグマティスト。生活に結びつかいな学習はあり得ないということでしょう。学校を「閉鎖完結環境」と名付けます。最近「開かれた学校」とか何とか耳にしますが、私の実感からは相変わらず「閉鎖完結環境」ですね。デューイについてもっと知りたくなりました。

  2. 「知とは価値を得るための道具に過ぎない」知を得る為の行動に躍起になってしまうのは本末転倒ですね。知はあくまでも目的達成の手段であるということは忘れずに頭の中に入れておきたいです。子ども達が様々な課題に挑戦できる環境は常に意識しておきたいなと思いました。「なにやっているの」、「また、そんなことして」、「何度言っても伝わらない」という言葉は、子どもの挑戦を肯定していない態度であるのかもしれません。全て、毎回、思った通りにできるはずがないですし、そんな時こそ、子どもと関わる大人の態度が重要になってくるように思います。起こったことに直ぐに反応する前に、どうしてそうなったのだろうかということを想像し、考えてあげるというような一呼吸おいた関わり方が、挑戦できる環境を支える大人の役割の一つでもあるのかなとブログを読んで思いました。大人もまた社会の中で「やる気がない」、「挑戦しない」と言われることがあります。それはその人自身の問題でもあるのかもしれませんが、もしかすると周りが挑戦できる様な環境を作ってあげていないのかもしれません。

  3. 見守る保育の世界がどんどん広がっていく感じがして驚いています。単に世界から評価されているとか、世界に広がりをみせているという意味だけではなく、様々な学者が提唱してきた理論を見ても、見守る保育と根本が同じであることも含めての驚きです。もちろんデューイのことはよく知りませんが、ここに書かれている考え方を読むと、非常に納得のいくことは多いです。子どもが主体的に学ぶことを支援することを大前提としているので納得がいって当然なのですが。子どもは間違って、それを元に戻そうとするプロセスで学んでいくものであるという考え方は、毎日確認して子どもたちと向き合った方がいい考え方ですね。間違えないための知識を持っているかどうかではない、まさにそこから子ども自身が学んでいく場が保育園であるべきです。

  4. 「課題に挑戦できる場」とは、いったいどのような場でしょうか。まずは、自分で課題を見つける力や、困難に出会うことが必要であると感じます。人間関係やできないことなどのような、多少のストレスが人に工夫や試行錯誤のきっかけを生むのだと学びました。また、未知なるものへの意欲を損なわせない環境も必要ですね。私はよく『◯◯(自分の名前)なら大丈夫』などと言われてきました。そのおかげで素敵な勘違いが起き、まだ経験したことない事象に対し、積極的行動をする方だと思っています。一見、それは後押しのようにも見えますが、失敗しても帰って来れるというか、結果がすべてではないというか、安心基地のような存在であるのだと思います。そういった環境を総称して「課題に挑戦できる場」であると感じました。私は『人生の時間は2種類しかない。楽しんでいるか、学んでいるかそのどちらか。』という言葉が好きです。つまり、そもそも失敗はいけないことではなく、そこからどんな価値を得て学ぶかが重要だと。結果ではなく、物事を行う過程に重きを置くこともそうですが、そんなことで君たちへの強い気持ちは変わらないよといったメッセージ性のある社会環境が大切ですね。

  5. 「見守る保育」がアジアを中心に拡がるのも時間の問題です。韓国の孔教授も乳幼児教育を藤森先生と同じように考えてらっしゃるのですね。とくに孔教授の話の中に出た「問題解決型学習」このことは今では当たり前のように捉えていますが、まだまだ日本ではそういう考えを持っていないのが現実で、子どもは無理だろうという考えが、まだ根強く残っている気がします。大人は子どもが様々なことに挑戦できるような環境、プロセスを用意する事が必要であり、それは教室内だけでなく社会生活の中でも学習の場を設けると言ったデューイの考え方にもとても共感します。
    過去の偉人の人達の話しを聞けば聞くほど、藤森先生の考え方とリンクします。

  6. 日本のみならず、海外にも見守る保育が広まっているということに改めて自分が目指しているものが限りなく今の子どもたちのためになるものであるということを感じます。さて、今回出てきた「問題解決型学習」ですが、以前も出てきた職場体験の中学生が言っていたことを思い出しました。そこでは「今習っている勉強は社会のどこで使うかわからない」「意味がないんじゃないか」ということでした。その実感がなければ確かに習っていても、テストの場面だけ必要になり、そのあとには必要となくなる勉強になるのかもしれません。「習った」とは思っていても、「身についた」とはいえないのが現状なのだと思います。子どもたちが身に着けていくべき知識とはどういったものか、その本質から考えていくことを求められているように思います。

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