児童本位の教育法

新教育運動における様々な提案は、特に小学校をモデルにした幼稚園などの幼児施設ではずいぶんと参考になります。今の小学校教育を見て、一クラス40人規模で先生が一人では、一斉に行うしかしかたないとか、個別教育は無理だとかいうことが多いのですが、教育方法によって、様々な試みが可能であることがわかります。及川などの提案は、机上の学問でもなく、研究だけからの提案ではなく、現場での実践を踏まえての提案ですので、現場では受け入れやすいと思うのですが。しかし、当時でも、なかなかその改革を行おうとする学校は少なかったようです。そこで彼は、本格的に実践をしはじめてから数か月のちには、その成果を3回にわたって「兵庫教育」誌に「県下教育者の一読を乞う」という形で公表しています。

これらの中では、同じことを主張しているのですが、その切り口を変え、より分かりやすく説明しようとしています。例えば、ここで旧教育について、「児童を教室に幽閉して、教師という手品師の仕事を凝視すべく強制すること。事物現象に児童を直接せしむることなくして、事物の符合そのものを詰め込むこと。自己経験によりて体得すべき真理を、迅速にも他人の経験たる書籍により学習させること。日々の教授が教室内においてのみ終始すること。教師用の教具あれど児童の持ちうる学習用具がないこと。」と指摘しています。そして、こういう教師法が1日も早く滅びることを望むとあります。

教育の主体はあくまでも児童であり、児童はあらゆる教育的企画の決定的要素であるのです。児童本位の教育法は、児童を児童として取り扱うこと、善良なる個性の伸長を図ること、児童の境遇能力を顧慮すること、男女の特性に注意すること、常に児童全体に活動の機会を与え、均等の利益を得られるような機会均等主義であることなどが提案されます。

そして、教育課程に児童を合わせるのではなく、児童の能力に応じて課程を合わせていくことが必要であると訴えます。本質は、児童の直接経験児童自身の判断に訴えること、児童の独立的活動、自働的な仕事を激励することなどが必要であると言います。そして、他人が経験したことが書かれてある教科書をただ使うのではなく、すべての書籍は、自己発展のために使用すべきであり、教科書は児童の研究用に、 知識の、練習用に使用するべきであるとも提案しています。

また、機会拡張主義により、何かに取り組んで、それが成し遂げられたときには、すぐに児童の興味をひくような他のものを与えるべきであると言います。こうして一つの仕事が完成したときには、児童は直に他の仕事に移り、他児童の仕事の完成を待つことはしなくていいと言います。ここでは、知育においては自己学習制度をとるのです。つまり、学校は、児童自らの研究場であり、児童は物事の理を研究し、熟練を増すために来ているのであって、教師はその補導のために来るような学校であることを保障するような制度をつくるべきであるとも言っているのです。

各教科目の教授は、なるべく作業の形をとり、作業を尊重して取扱うべきであるとしています。そして、教師は学習の動機を刺激し、学習の方法を授け、児童は、自らの研究・発表・批評をします。こうして、児童は、知識を求めるようになっていくようにするべきであると言います。

 そして、さらに、私たちが提案する「見守る保育」に通じることを言っています。

児童本位の教育法” への6件のコメント

  1. 及川さんの提案や実践では子ども達を尊重し、一人の人として認められているということがとても伝わってきます。そのような方が提案される教育は人を育てる手伝いという本質を考えた教育になっていくのかもしれません。体験的で主体的な授業はそこに参加する子どもの気持ちも楽しくさせますね。私が小学生で楽しかったことは何だったかなと想像すると、図工の時間であったり、理科の授業の川の仕組みであったり、帰り道のことを思い出します。どれも自分自身が主体的に活動できたものでした。あまり苦痛だったという授業はなかったのですが、今でもその時のワクワクした気持ちや楽しかった気持ちを思い出すのはこれらの時間です。帰り道は主体的で活動的で動的な最たる時間だったように思います。今の小学生が帰り道だけが楽しいというような気持ちでいないことを祈ります。「自己経験によりて体得すべき真理を、迅速にも他人の経験たる書籍により学習させること」という言葉がありました。道徳の授業などはまさにこのような形をとっていたように思います。リアリティのない展開で進んでいたように記憶しています。そこから自分自身がどう行動し、どう思うよなったのか、そのような視点は大人になった私達も必要な視点でもあるのかもしれません。

  2. 及川平治氏の提案は「現場での実践を踏まえての提案」ということで、かなり説得力があるものだったのでしょう。及川氏による学級経営の実際を観てみたいものです。それにしても、100年前とはいえ、こうした教育実践提案をする人が我が国に存在したということは私たちの誇りです。この及川平治氏からも多くを学びとりたいですね。「教育の主体はあくまでも児童であり、児童はあらゆる教育的企画の決定的要素」というテーゼのもとに箇条書きされるどれにも首肯できます。「児童の直接経験児童自身の判断に訴えること、児童の独立的活動、自働的な仕事を激励すること」、これらは私たちの保育園の延長上にある児童の活動と教師の励ましです。そして、教師の役割は「学習の動機を刺激し、学習の方法を授け」ること。何と能動的で、自主的、自立的そして主体的な学習が展開されることでしょうか。いつかは、こうした学級経営を望んでいる教諭のみなさんと私たちが出会うことでしょう。その日を夢見て、見守る保育を一生懸命実践していきましょう。

  3. 小学生時代、算数の授業ですぐに問題を解いた生徒に対し先生は「正解です。では、みんなが解き終わるまで待っててください」や「(まだ解いてはいけないが)次の問題を読んでおいてください」と言っていた気がします。問題が簡単であった人は、その時間どんな思いで過ごしていたのでしょうね。また、なかなか問題が解けずみんなを待たせている人にとって、その時間はどんな時間であったのでしょうか。まさに、“みんな同じく”が平等という考えが生み出してしまった悪循環であったと感じます。「学校は、児童自らの研究場であり、児童は物事の理を研究し、熟練を増すため」の場であるように、教師の存在価値が、「その補導のために来るような学校であることを保障するような制度」を作ることに向けられれば、児童自身も教育の主体は自分たちであることを認識しやすいだろうなぁと感じました。

  4. 児童を児童として扱うこと。非常に大切な、でも実際には忘れられてしまうことの多いことをきちんとしておられたんですね。ここからスタートする教育は似たような形に落ちついていくんでしょうか。そんなにたくさんの教育方法を知っているわけではありませんが、そのように受け止めています。及川氏が行っている旧教育に対しての表現ですが、いかにして気づいてもらうかを考えたことが感じられる内容です。分かってくれないならいいか、ではなく、何とかして分かってもらおうとする取り組みは大事ですね。ただそれに時間や労力ばかりとられて肝心の実践がストップしてしまうようでは意味がないので、気をつけなければいけませんが。とにかく、子どもはどのような存在なのか、そして大人の役割は何なのか、そこをはっきりさせて進めていくことの大切さはよく伝わってきました。

  5.  40人の子どもを一人で指導するのは確かに大変かもしれません。子どもによって能力も違えば、理解度も異なります。だから一人ひとりを見るのは無理だから一斉に同じことを教えるしかない。と捉えるのでなく、個人で能力が違うことを良い方向に捉えれば、自然と教育方法は見えてくると思います。及川氏が訴えるように教育課程に児童を合わせようとするのでなく、児童の能力に合わせることが必要というのは、本当にその通りです。それでも個人によって差が出ると思いますが、その差に対して大人が、頭が悪いと捉えるか、個性と捉えるかで、また違ってくると思います。実際に小学校の先生をしたことがないので分かりませんが、全員を同じレベルにしなければいけないという考えがあるのでしょうか?保育園でも一斉にしているのは、一人で子どもを見るのは大変という理由よりも、全員を同じレベルにしなければいけない、という変なプレッシャーがあるように思います。

  6. 及川氏が言っている「滅びてほしい」と思う教師法は今の小学校に当てはまることが多いですね。一人一人の子どもの自己を尊重している教育をしようと思うと、今行われている教育方法を改めて考えていく必要性を感じます。意外と今の大人はこういったことを見て見ぬふりをしているのでしょうか。それとも、やはり育ちによって「自分はこうされてきたから」という論理により変えられないのでしょうか。以前もブログでありましたが、今までの文化がこういった「変えられない現状」を作っているのかもしれません。

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