教育と哲学

新教育運動は、知識の一方的伝達を中心とした伝統的な学校教育への批判からはじまっています。この伝統的な教育の中では子どもたちは形式にしばられて受動的になり、個性や感性、そして創造性は抑圧され、行動は機械的なものになってしまうため、めまぐるしく変動する社会変化に対応していくことができないと説いたのです。この時代は、今ほど社会は、めまぐるしく変動していないと思うのですが、それでも、当時子どもの力に対する危機感を感じていたのです。

 デューイが学校改革を目指して学校を創設したということは、知識の一方的伝達を中心とした教育からの改革が中心になります。そこで、子どもを受動的立場におく教授中心の学校教育から「子ども中心」の教育への変換です。そのもとになる考え方は、「人間における認識の定着・深化が、社会的経験の連続的改造を通じて果たされる」という児童中心主義の教育理論に哲学的根拠があるからです。この考え方が、当時の進歩主義教育運動において指導的位置を占めるようになっていきます。その後、彼の提案する子ども中心主義、経験主義の教育観は、世界的な新教育運動の基礎も築くことになるのです。

「子ども中心主義」というと、当たり前のような気がします。誰でもそれには反端子ないような気がします。私は、この考え方が、当時の教育界に大きな影響を与えていったということに、少しびっくりします。しかし、現在の日本の教育界を見ても、だれでもそう思っているけれど、それを実現しているかというと首をかしげる実践が多くみられます。ですから、実験校からの提案は、ずいぶんと影響していったのですね。19世紀末期から20世紀初期にかけて、英語圏では、「進歩主義教育(Progressive Education)」、ドイツ語圏では「改革教育学(Reformpadagogik)」、フランス語圏では「新教育(education nouvelle)」、日本では「大正自由教育」と呼ばれる運動をして広がり、それらを総括して、通称「新教育運動」と呼ばれているのです。しかし、それが、本当にスタンダードとして根付かなかったのには、どうもこの運動のどこかに落とし穴があったようです。新教育運動を評価するうえで、それの検証する必要がありそうです。

話は元に戻して、デューイの提案の特徴の中で、教育とともに哲学も重視したことがあげられています。もともと哲学における国家論の大半は教育論でもあったのです。それが、この世の究極的な真理を求めるものが哲学であると思われ、実在する姿を言葉で記述したものが真理であり、その真理を発見することが哲学の役割だと考えられていたのです。その哲学のあり方にデューイは疑問をもちます。彼は、哲学とは公共性のある問題の解決策を行動レベルで明確にすることが役割であると考えたのです。公共性のある問題とは、現実社会における解決されなければならない問題ということなのですが、その解決手段・方法を明確にすることが哲学の役割だとデューイは考えます。そして、その行動の方法について熟考されて明確にされたものが「指導観念」とします。まず、行動をするときには、指導観念をよく考えてつくり、その指導観念に基づいて実験的に行動していくことが重要であるとしました。そのために、デューイの哲学の立場は、しばしば実験主義とも言われています。

この考え方に基づいて、デューイは、「問題解決学習」という学習方法を提案します。それは、「問題解決は人間の知性を信頼し、その知性を生かして行動の方法についての計画を立て、それに基づいて実行していけば現実社会における問題を人間が自らの力で解決することができる」とし、そのような知性を教育でどのように育てるのかが課題となっていくのです。

オキュペイション

 デューイの提案は、私たち幼児教育においてもずいぶんと参考になるところが多くあります。しかし、幼児教育とは違う、学校というところの特別な役割も提案しています。それは、カリキュラムの中心に「オキュペイション」(occupation)を位置づけるということです。

 彼は、学校が子どもの興味や欲求のみに追従することを批判し、また、人間が工業化社会に適応することのみを目的として、知性の放棄を迫られるようなことを容認することも批判しました。そこで、人類史の発展を支えた人間の活動を再評価し、学校の未来を展望し、そこでのカリキュラムに、「オキュペイション」を位置づけたのです。それがデューイ教育学の基本だったのです。デューイは自らの理論を教育学者としてラボラトリー・スクールにおいて実証しようとしたために初めは大学から野心的だと思われたのです。

 デューイは、「オキュペイション」とは「厄介で、忍耐を要する、ただ結果を得るためだけの単なる手段にすぎないような活動」としての「労働」(1abour)でもなく、「狭い功利主義的な」職業的訓練ともちがい、「子どもが机にむかっている際にいたずらをしたりなまけたりするのを防ぐために子どもにあてがわれる」ようなものでもないと言います。「学校で追求される典型的なオキュペイションは、いっさいの経済的圧迫から解放されている。その主眼とする目的は、生産物の経済的価値にではなしに、このような狭い功利的なものからの解放、このような人間精神の発達可能性に対する開かれた態度こそが、学校におけるこれらの実践的活動を芸術の盟友とし、また、科学と歴史を学ぶ起点とするのである。」と述べています。
 
そして、学校で子どもに取り組ませる典型的な「オキュペーション」には3つの条件があるとしています。一つは、「心が奪われるほど集中している活動」です。「専心的活動」でもある一生懸命に取り組んでいる活動を通じて、子どもたちはさまざまな科学的な知識などを学ぶことができるとしました。つぎに、「人間が協同しながら自分たちの生活をよりよいものにしてきたということがわかること」っとし、さらに、「子どもたちが協同して活動を体験できるということ」の3つが典型的な仕事の条件であると定義しました。

この具体的な例として、デューイは羊毛や綿花から糸を紡ぎ出して服を作ってみるなどの活動をあげています。この労働から、布から服を作るなど、事物についての科学的な知識を得ることができるし、人間の歴史的な進歩を知ることができます。さらに、複数の子どもが協同して活動に取り組むことの体験ができます。数年前、ドイツに行った時に、課外活動として、このような活動をしている団体を見学したことがあります。doituhitujiこのような「典型的な仕事」を子どもたちに取り組ませることによって、科学的な知識ないし歴史的な知識を修得しながら、みんなと協同して活動する経験や主体的に参加する学習活動の経験ができると考えたのです。

デューイは、学校において子どもたちに共通の目標に向けてみんなで力を合わせて活動し、主体的に活動することで、民主的・公共的な「仕事」に参加できるとし、そうした学習経験から、民主主義社会をささえる一員となっていく能力が育つと考えたのです。

社会の一員

以前、新教育運動におけるイエナプラン校の提案の中で、学校を一つの社会として見るために、異年齢で構成することが当然であると考えていることを紹介しました。デューイも学校を「典型的な仕事によって学校を小型の共同体、胎芽的な社会とする」と述べています。その時の社会とは、「共通の進路にしたがい、共通の精神と共通の目的に関わって働いているがゆえに、結合されている一定の人々からなるもの」であると定義しています。それは、子どもが共通の目標に向かって、協同で活動を行い、主体的に参加するという民主主義の社会です。日本における教育基本法の教育の目的で「平和で民主的な社会」を作るためには、民主的な学校でなければならず、それは、将来、社会の一員になるための準備でもあるのです。デューイにとって、そのような活動が行われている場が「社会」であり「共同体」であるということで、学校そのものを小型の「社会」、子どもの生活の場としての「共同体」にしていくことが大切だと主張しました。

 デューイは1916年に『民主主義と教育』を著しました。その中で、社会の一員になるということはどういうことかを書いています。最初に、個人と社会との関係が書かれてあります。社会も生物学的生命と同じように、歴史の中で生命を存続させていくものです。親から子へと受け継がれるように、社会そのものも歴史の中で存続していくものであるという認識を持ちます。そして、社会が連続していくということは、教育による伝達の結果として社会が維持され、大人から子どもへ文化の伝達による成果であると言っています。では、どのようなものが伝達されていくのでしょうか?それは、人間社会の中に生まれ、大人たちから人間としての文化を伝達されることによって、人間として生活していくことができるというのです。親との共同生活を通して言葉を学び、話すことができるようになるというように、文化が伝達されていくのです。このように、大人から子どもへ社会における文化を伝達されることによって、その社会の一員となっていくと考えます。それによって社会は連続していくとデューイは説明しています。

 しかし、教育とは、文化を伝達するだけのものではなく、もう一つの大切な論点があるとデューイは考えます。それは、子どもたちに社会をつくり直していく能力を身につけさせることだとしています。既存の文化を伝えるとともに、新しい文化を創り出していける力、その新しい文化を創り出して、その新しい文化によって社会をつくり直していく能力を身につけさせることが重要であるとしたのです。これは、とても新しい考え方です。また、その力をつけるための教育も変わってくるはずです。日本の教育の目的である、社会の形成者としての資質は、その一員として、社会の中で共生」する力と、社会に「貢献」する力が必要になるのです。

 それは、社会を存続させる際に大切な活動が教育の中で、「更新(リニューアル)」ということを重要視しました。その新しい文化を創り出す能力が「成長」の証です。社会を取り巻く環境や状況は変わっていきます。しかし、環境や状況が変わっても社会が滅びずに連続していくためには、単に文化を伝えるのではなく、文化を新しく創造していく、あるいは更新していくということが重要なテーマとなると考えたのです。

このことをデューイは、『民主主義と教育』の中で述べています。すなわち、教育の大切な役割は、「大人が子どもに文化を伝達し、子どもを社会の一員とする。」「子どもに新しい文化を創造する能力を身につけさせる」「変動する環境に適応できる力を教育によって育てる。」としたのです。

重力

デューイは、1894年にシカゴ大学の哲学・心理学・教育学をふくんだ学部の学部長に就任します。ここで彼が実現したのが大学に付設した学校改革のための「実験(室)学校」(laboratory school)の創設でした。これは、イエナプランの創始者であるペーターセンも、同様に実験校の実践から教育方法を生み出し、提案しています。実際に保育園での保育を毎日見ていると、子どもたちの発達の連続性がよくわかります。しかし、定期的な観察だけでは、瞬間、瞬間の姿しかわかりません。研究するには、実験校が必要であることは、現場にいるとよく理解できます。デューイは、教育学は化学や物理学と並ぶ一つの実験科学であるとし、教育学の発展のためには蓄積された理論を検証する研究の場が不可欠であると考えたのです。私も、保育学というものは、特に乳児保育については、臨床保育からの考察が必要であることを実感しています。

しかし、デューイの提案も、すぐにはシカゴ大学からすると野心的な試みであるとして取り合いませんでした。そこでデューイは、まず、1895年、大学の近くの民家で16人の子どもと2人の教師だけで実践をはじめます。それが、3年後には生徒は83人になり、二つの作業室と二つの実験室、かなり広い台所と食堂をもった校舎ができます。そこでの3年間の実践からの教育研究を、1899年4月に、父母や学校の後援者たちに対してを報告を行い、今後の課題について語りました。この時の報告内容が、のちにその記録が「学校と社会(The School and Society)」として出版されます。
 彼は、学校教育において、知性的な行動の方法を身につけ、その能力を育てること、仲間と協同していく能力ないしコミュニケーション能力を育てることが必要であると思います。そのための資質・能力や態度に関して次のようなことを重視しました。それは、まず、知性的な行動能力やコミュニケーション能力をどのように育てることができるのかということです。それを、実践校で実践していったのです。

新教育運動では、旧教育を「一斉画一的」「知識の注入主義」ということがありますが、デューイはこのように説明しました。「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書・その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。…(中略)…今日私たちの教育に到来しつつある変化は、重力の中心の移動に他ならない。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の様々な装置が回転することになる。子どもが中心となり、その周りに教育についての装置が組織されることになる。」

大人という地球を中心に教育は行われてきたのが、実は、子どもという太陽の周りを大人は回っていることに気付いたという、また、教師や教科書など子ども以外のところに教育の中心であるかのように思っていたことから、子ども中心に、すなわち子ども自身の本能とか活動が実は中心に置かれるべきであるということを提案しているのです。それを、「子どもが中心とする重力の中心の移動」を主張しているのです。

では、重量の中心移動とは具体的にはどういうことなのでしょうか?この言葉は、必ずしも、子ども中心にということだけではないようです。そこには、私たちが主張することと共通するところが見えてきます。

知識観

 昨年、韓国の烏山大学教授の孔教授の講演を聞きました。その中で「今の世の中でどのような力を子どもたちにつけていけばいのか。」というテーマの中で、「知識観」についての話がありました。今後は、「基礎知識+デューイの機能的知識(観察、実験、体験による知識。問題解決能力)」が必要になるという提案がされました。そして、「そのためにどのような保育が必要になってくるか」ということで、デューイの未熟性について説明がありました。それは、「人間は未熟であるために、何かに頼りたい気持ちがあり、外部の力(環境)によって自分を変える可塑性をもち、その環境とのかかわりの中で、すべての人間は環境にうまく適応しようと常に反省していくという経験をしていくことが必要である、とまとめられました。

 それらの歴史的経緯を踏まえたうえで、孔教授が考える「見守る保育の深まりと広まり」という内容で、次のような話をされました。「今までの保育政策はハードウェア―に集中してきた。しかし、これからは量から質へと転換する必要があるのではないか。」ということで、あたらしいプログラムの追求が大切になっていくであろうと思っていたそうです。そこで「見守る保育」と出会い、その原点を守っているプログラムであるということ、そして、「見守る保育」には、プロジェクト学習にみられるような、「子どもをコントロール」し、「子どもが間違うことがゆるせない」ということではなく、子どもは間違って、それを元に戻そうとするプロセスで学んでいくものであり、そのプロセスを大切にするために、子どもの行動をよく見て、プログラムを作っていくことというような、子どもに合わせるプログラムであるということから、韓国でも「見守る保育」を広げていきたいという話でした。

 孔教授の話の話に出てきたデューイは、アメリカにおける新教育運動を牽引してきた人であり、新教育運動を語る上で外せないのが彼の提案した学習論です。デューイは哲学者であり、社会思想家であり、教育改革者でもあるという人であり、幅広い活動を行いました。デューイの思想はプラグマティズム、もしくは道具主義と呼ばれます。知とは価値を得るための道具に過ぎないという考え方であり、自ずとそれが学習論にも現れているようです。

 孔教授の話の中での知識観の中で「問題解決型学習」と呼ばれる考え方が紹介されていましたが、これはデューイの学習論の基本を成すものです。この学習の考え方は、様々な知識や技術を学ぶ際には、その技術知識のみを切り出して教えても意味がなく、何らかの問題解決の道具として用いられる中で習得されて初めて意味があるというものです。何らかの課題を生徒自身で設定して、そこに対して様々な解決法を試行錯誤する中で習得する事柄にこそ意味があるとするものであり、大人があらかじめ体系的に設計されたカリキュラムにそって学習していくという形を否定する立場なのです。

 この考え方では、教師は、いかに子どもたちが様々な課題に挑戦できるかという場を作ることが最重要の焦点となります。その関係もあって、デューイは学校という閉鎖完結環境で勉強するのではなく、社会生活の中で学習の場を設けることを非常に重視しました。したがって、生涯教育に結びついていくのです。

机間

学校のひとクラスの集団規模は、先生が肉声で生徒に知識を伝達するときにその声が届く5間の長さと、一人の人の視野4間の幅の広さの教室内に、机間巡視するための通路をあけ、そのほかに机を並べたらほぼ50人座れたので、50人と決められたと聞いたことがあります。ここでいう「机間巡視」という言葉は、言葉としては聞きなれていませんが、先生が、児童に学習させているときに、机の間を歩きながら見て歩くことを言います。それは、何のために見て歩くかというと、現在の辞書には、「授業のなかで教師が児童・生徒の座席を順次巡回し、学習状況の観察、学習指導・助言などを行うこと。」とあるように、歩き回りながら指導をすることが入っているようです。ですから、最近は、「机間巡視」ではなく、「机間指導」ということもあるようです。

 しかし、たとえば、試験中に歩き回るのはまさに「机間巡視」で、きちんとやっているかということを見張るために行われます。今でもプリントを配って、その課題を児童にやらせているときに、以前にブログで書いたように児童から先生に質問や話しかけていけない授業となると、先生は机の間を歩き回りながら、「巡視」していることもあるような気がします。また、先生が机の間を歩きながら「指導、助言」をするうえでも、どのようにするかも問題になります。
机間巡視は、一種の個別指導として位置付けるにしても、及川の言うように、児童を常に「研究的発動的位置」に置くことを保障しようとするときには、机間巡視は、「単に児童の誤りを訂正する方法とのみ考えてはならなくなる。」と及川は言っています。 机間巡視は、「難解に苦しむ児童を発見せんがため」「児童の要求点を発見せんがため」「適当なる暗示を与えんがため」「消沈せる心気を回復せしめんがため」であると言います。こうして、 「教室は教ふる場所ではなく学ばしむる場所」であることを、どの子にも体験させようとするのが及川の言う「実験室式制度」なのです。

また、及川の説く新しい言葉が出てきました。「実験室式制度」とは、どんなものなのでしょうか?彼は、それを「学校を以て児童が事理を研究し自己教育を進むる場所となし児童は研究のために来り教師はその指導のために来るという制度」と説明しています。そして、この制度を実現するために行うのが、全級的と分図的と個別的教育を組み合褪せた「分団式動的教育法」なのです。すなわち、「児童の学習は受身的であってはならぬ。研究的な自己活動こそ児童の認識及び発達の根本条件である。」というこの種の自己活動を助け、方向づけ、自己活動するための機会を与え、活動の範囲及び程度を決定することこそ教師の役目であるというような考え方が彼の言う「実験室式制度」の根幹なのです。

彼は、宮城県で小学校長をし、明石女子師範学校附属小学校では主事として着任しました。そして、主著『分団式動的教育法』によって大正新教育運動の中心的存在となり、欧米教育視察以降、「カリキュラム」を児童の生活経験の総体と再定義して「生活単位」に基づく独自のカリキュラム改造論を展開しました。彼はその後神戸大学付属幼稚園に関わり、幼児教育の世界で「生活単位の保育カリキュラム」の研究を行いました。そして、及川は、大正年間に入る頃からモンテッソーリ教育法を動的教育の方法の一つとして,特に、幼稚園での実践を意識して保母達と研究していましたが,モンテッソーリの思想を動的哲学の拠り所にはできないと考えるに至り、プロジェクト法を研究したりしました。しかし、動的教育法研究の成果を『分団式動的教育法』や『分団式各科動的教育法』にまとめ上げた及川は,この時期附属幼稚園において、自らの研究成果を具現化することを模索していたようですが、きちんと体系づけられなかったことは残念です。

発動的

及川平治の提案する「動的教育論」には、「見守る保育」に通じる理念があります。それは、「干渉教育の弊を排除せよ」ということを提案しているということです。学習は、いくら初等教育でも、あくまでも子ども主体であり、自発的な活動であるべきなのです。及川は、そのことを次のように説明しています。「これらの機会を与えるために教師は教えすぎるな。学習を、児童の発見・自働に任せるように、つまり、自己活動としてとらえ、教科書は児童の研究材料として扱う」とまで言っています。

しかし、これは、単に教師の指導性を否定し、学習をすべて子どもの自学に任せると言っているのではなく、あくまでも子ども主体の授業をするべきだと言っているのです。それは、動機づけは教師がするのです。「教師は児童に教材の一部を知らしめて全部を推究せしむる心掛」と言っているように、教師はすべてを知識として教えるのではなく、教材の一部をしまし、その後は児童が自らの探究心を持って、学習していくということなのです。児童を「受動的聴聞者」から、常に「研究的発動的位置」に置くという言い方をしています。そのために画一教育をどうしても打破しなければならない壁であるというのです。

「見守る保育」においても、保育者はただ子どもを見ているだけではなく、子どもが自発的な活動を行うことを意図しなければなりません。あるきっかけを子どもの活動から引き出して、それを膨らませてあげながら子ども自身でその遊びを深めていくというプロセスをとっていきます。そこには、保育者は単に子どもたちに知識を伝達することではなく、また、ある価値観から子どもをコントロールすることでもなく、一斉に指導することでもないのです。また、子どもたちが自ら活動し始めたとき、その子たちを見守りながら、個別指導を行うこともあります。個々に発達を援助することも必要です。一昨日、2歳児の部屋を歩いているとき、子どもたちは好きな遊びに各々熱中していました。その中で、一人の保育士が、一人の子の横に座り、画用紙に人型や家形のシルエットを貼りながら会話をしていました。そして、その会話を別の紙に書き込んでいました。その紙には、クラス全員の名前が書いてあり、一人ずつ書き込んでありました。2歳児クラスになると、子どもたちは語彙が豊富になってきます。しかし、それは個人差があり、保育者がみんなに話す時でもその理解度は個人によって把握の程度が違います。そこで、一人一人の発達を理解し、全体に話す時、もう少し丁寧に話すことで、それを理解し、グループで活動している中に移っていく子、そのように一斉に画一的に保育をしないようにする必要があります。これが、及川の言う全級、分団、個別と可動式教育なのです。

そして、2歳児クラスでは、子ども同士のかかわりが増えてきて、自らグループを組むようになり、他児からの影響を受けやすくなります。それを及川が、「児童相互間には知識の交換行はるべき機会を与ふることが主眼になる」と表現していることと同じことです。このような子ども同士のかかわりにおいては、保育者は、直接その中に入るのではなく、外から温かく見守っていることが必要なのです。それを、及川は、児童相互間の知識の交換による相互学習においても、「子どもたち一人ひとりの独立研究を前提にしている」といっています。そのために、「巧に単独教授・分団教授・全級教授を行ふべし」 ということになると言っています。

私たちが目指すべき幼児教育は、新教育運動の時に提案された考え方から学ぶべきことが多いですね。

児童本位の教育法

新教育運動における様々な提案は、特に小学校をモデルにした幼稚園などの幼児施設ではずいぶんと参考になります。今の小学校教育を見て、一クラス40人規模で先生が一人では、一斉に行うしかしかたないとか、個別教育は無理だとかいうことが多いのですが、教育方法によって、様々な試みが可能であることがわかります。及川などの提案は、机上の学問でもなく、研究だけからの提案ではなく、現場での実践を踏まえての提案ですので、現場では受け入れやすいと思うのですが。しかし、当時でも、なかなかその改革を行おうとする学校は少なかったようです。そこで彼は、本格的に実践をしはじめてから数か月のちには、その成果を3回にわたって「兵庫教育」誌に「県下教育者の一読を乞う」という形で公表しています。

これらの中では、同じことを主張しているのですが、その切り口を変え、より分かりやすく説明しようとしています。例えば、ここで旧教育について、「児童を教室に幽閉して、教師という手品師の仕事を凝視すべく強制すること。事物現象に児童を直接せしむることなくして、事物の符合そのものを詰め込むこと。自己経験によりて体得すべき真理を、迅速にも他人の経験たる書籍により学習させること。日々の教授が教室内においてのみ終始すること。教師用の教具あれど児童の持ちうる学習用具がないこと。」と指摘しています。そして、こういう教師法が1日も早く滅びることを望むとあります。

教育の主体はあくまでも児童であり、児童はあらゆる教育的企画の決定的要素であるのです。児童本位の教育法は、児童を児童として取り扱うこと、善良なる個性の伸長を図ること、児童の境遇能力を顧慮すること、男女の特性に注意すること、常に児童全体に活動の機会を与え、均等の利益を得られるような機会均等主義であることなどが提案されます。

そして、教育課程に児童を合わせるのではなく、児童の能力に応じて課程を合わせていくことが必要であると訴えます。本質は、児童の直接経験児童自身の判断に訴えること、児童の独立的活動、自働的な仕事を激励することなどが必要であると言います。そして、他人が経験したことが書かれてある教科書をただ使うのではなく、すべての書籍は、自己発展のために使用すべきであり、教科書は児童の研究用に、 知識の、練習用に使用するべきであるとも提案しています。

また、機会拡張主義により、何かに取り組んで、それが成し遂げられたときには、すぐに児童の興味をひくような他のものを与えるべきであると言います。こうして一つの仕事が完成したときには、児童は直に他の仕事に移り、他児童の仕事の完成を待つことはしなくていいと言います。ここでは、知育においては自己学習制度をとるのです。つまり、学校は、児童自らの研究場であり、児童は物事の理を研究し、熟練を増すために来ているのであって、教師はその補導のために来るような学校であることを保障するような制度をつくるべきであるとも言っているのです。

各教科目の教授は、なるべく作業の形をとり、作業を尊重して取扱うべきであるとしています。そして、教師は学習の動機を刺激し、学習の方法を授け、児童は、自らの研究・発表・批評をします。こうして、児童は、知識を求めるようになっていくようにするべきであると言います。

 そして、さらに、私たちが提案する「見守る保育」に通じることを言っています。

学び方を学ぶ

 新教育運動における提案の多くは、小学校についてです。とくに及川平治は、苦学して教師となり、明治末年から昭和10年代初期まで兵庫県明石女子師範学校附属小学校で主事として教育改革に挑みましたから、彼の主張は、教師や教育関係者に多大な影響を与え、わが国の小学校教育の発展に多大な功績を残したのです。しかし、その考え方は、幼児教育にも大きなヒントを与えます。一斉とグループ活動と個別への配慮のバランスは、今でも大きな課題です。そこで、もう少し及川の考え方を見てみます。

彼は、成績が劣る子どもに適切な教育を実施するために、内容によってグループに分けて学習する方法として分団式教育を行いました。この分団式教育は授業の最初からグループ分けするのではなく、一斉授業の中で、教材内容や、子どもの学習の状況に応じて、「全体」「グループ」「個別」と変化させて学習し、子どもが能動的に学習する力や自学自習する力を育てることを目的としたために、いくら分団式教育といってもグループ学習のみならず、全体学習も含んだ教授方法だったのです。

今でも、たとえば異年齢保育というと、常に異年齢で保育することのように思い、「たまには年齢別も必要ではないですか?」と聞かれることも多いのですが、当然、時と場合によって、様々なグループを構成して保育を行うわけで、逆に言えば、同年齢という4月生まれから3月生まれの子たちを生年月日で分けたグループを、1年間の幅のある異年齢児集団という認識を持つことも必要であるということも含まれます。及川も、グループ学習をする分団は固定しないで、教材内容や、学習者の学習理解状況に応じて、日々編成し直すことを提案しているのです。

そこには、彼が提唱した「分団式動的教育法」での3大主張があります。「教育を固定した形式にとらわれず、動的にとらえる」「子どもの能力は多様であるという事実をふまえる」「学習法を訓練するという立場に立つ」というものです。それを「可動分団式」として、その実践例として、授業はまず一体としての学級に議題が提示され、説明がなされる。これを「全級教育」とします。この1回の説明で了解できた者は、教師の手を離れて「独立研究」的に課題・題材にとり組みます。了解できなかった者はもうー度教師の直接指導を受けます。この場合、了解できた者でAグループ、できはかった者でBグループをつくってもいいのではないかと提案します。次に、Bグループで了解できた者には先のAグループの作業を諜し、まだ了解できない者にはさらに個別指導を行い、同時に先のAグループには個別的注意ないし迅速練習の指示も出して、「独立研究」を継続させていきます。しばらくして、「独立研究」の結果を全級に向って発表させる形で子どもたちの相互学習を組織し、教師がまとめ的教授(説明・指示)をして次の新課題の提示へと移行していきます。全級に始まり全級に終るのです。そして、その途中でグループ指導と、個別指導を適宜織り交ぜていきます。そして常に一人ひとりの子どもに 「為すことによって学ぶ」「独立思考」を保障していこうとするのが分団式教育の原則なのです。

そして、教師の直接指導を受ける「教授期」と、子どもの相互学習である「研究期」を繰り返すことで、児童は独立研究の機会を与えられ、自発的学習の習慣が養われていきます。これが、及川が提案した「分団式動的教育法」の概略です。

全級、分団、個別

及川平治は、年齢別に学級を編制し、画一教育を行い、同一課程の履修を強要し、一斉教育をもって学級教育の本体と思っている当時の教育のあり方を打破して、正式教育として本体たる学級教育を樹立したいと思います。「怜悧なるもの、魯鈍なるものを混同してマッチ箱のごとき教室に幽閉し、同一題材を同一方法で授けておくという授業を行っていながら個性発展を云々するのは矛盾もはなはだしい」と憤っています。

他にも当時の教育についてこんな批判をしています。「現今の教育は、学校をもって製造所と同一視して、盛んに同形同質のダース的人間を生産している。現今の学校は人の個性の発展を抑圧してことごとくこれを平凡化し、同一鋳型に投じてダース的人間をつくっている。」彼が言う「ダース的」というのは、「ひとからげ」とか「画一的」という意味で使っています。このように及川は、能力不同という事実を無視した当時の画一教育= 同時教育としての学級教育を否定します。そして、これらの教育を動的教育に反するものとして「静的教育と呼びました。

さらに、この静的教育は、教師からの一方的な知識の伝達になり、子どもの学習は受身的な受容学習になります。この点で及川は、「教授の定義中に伝達の語を用いるは妥当でない 」とか「真理を与えんよりはむしろ真理の探究法を与えよ。知能を授けんよりはむしろ研究法を授けよ」と主張します。この主張は、納得がいきます。教育を行うときには、「一人ひとりの子どもに学習動機が惹起されているか」とか、「彼らの学習は自己活動として成立しているか」ということを常に問わなければならないのに、そんなことにはおかまいなしに授業は進んでいきます。これは、「真に教えるとは、一人ひとりの子どもに真に学ばせることである」という原理を無視しだ静的教育であると批判します。では、彼が目ざす本体たる学級教育とはどんなものなのでしょう。

彼は、本体たる学級教育=全級的+分図的+個別的教育とし、これらの教育を「分図式教育」とします。しかも、分図的個別的教育は、全級教育と同格と、及川は定義しています。「同格」ということは、全級に対して、一斉指導( 説明、指示、発問等) をしているときにも学級の一人ひとりの子どもに真の学習、価値ある学習活動が成立しているよう常に配慮することが必要であると言っているのです。また、ある分団に直接指導している時にも、直接指導を受けない残りの分団の一人ひとりの子どもに真の学習、価値ある学習活動が成立しているよう常に配慮することも必要であると言っているのです。それは、個別指導をしているときにも、直接指導を受けない他のすべての子どもに真の学習、価値ある学習活動が成立しているよう常に配慮するということです。この配慮のポイントは、授業で学級のどの子にも常に自己活動的な学習させられているという状態を保障するということなのです。そのために、全級、分団、個別の指導を柔歓に組み合せることが必要であり、三者の転換、組合せは、教師の判断によって、教科により、日により、時間により変動し得るという柔軟性をもっていることが大切です。

この点で、学年別、能力別につくった固定した従来の複式数綬の分団とは、決定的に異なると言っています。及川の提案は、全級、分団、個別の三者が柔軟に変動し、しかも、だれが、いつ、どの分団に入るかも変動します。この点でも彼の分団式は動的なのです。それを彼は、「可動分団式」と呼びます。

彼の言う分団とは、今でいうグループ学習でしょう。クラス全体でやるときと、グループ活動でやるときと、個別にやるときとを柔軟に組み合わせていく授業展開を提案しているのです。