新教育運動は、知識の一方的伝達を中心とした伝統的な学校教育への批判からはじまっています。この伝統的な教育の中では子どもたちは形式にしばられて受動的になり、個性や感性、そして創造性は抑圧され、行動は機械的なものになってしまうため、めまぐるしく変動する社会変化に対応していくことができないと説いたのです。この時代は、今ほど社会は、めまぐるしく変動していないと思うのですが、それでも、当時子どもの力に対する危機感を感じていたのです。
デューイが学校改革を目指して学校を創設したということは、知識の一方的伝達を中心とした教育からの改革が中心になります。そこで、子どもを受動的立場におく教授中心の学校教育から「子ども中心」の教育への変換です。そのもとになる考え方は、「人間における認識の定着・深化が、社会的経験の連続的改造を通じて果たされる」という児童中心主義の教育理論に哲学的根拠があるからです。この考え方が、当時の進歩主義教育運動において指導的位置を占めるようになっていきます。その後、彼の提案する子ども中心主義、経験主義の教育観は、世界的な新教育運動の基礎も築くことになるのです。
「子ども中心主義」というと、当たり前のような気がします。誰でもそれには反端子ないような気がします。私は、この考え方が、当時の教育界に大きな影響を与えていったということに、少しびっくりします。しかし、現在の日本の教育界を見ても、だれでもそう思っているけれど、それを実現しているかというと首をかしげる実践が多くみられます。ですから、実験校からの提案は、ずいぶんと影響していったのですね。19世紀末期から20世紀初期にかけて、英語圏では、「進歩主義教育(Progressive Education)」、ドイツ語圏では「改革教育学(Reformpadagogik)」、フランス語圏では「新教育(education nouvelle)」、日本では「大正自由教育」と呼ばれる運動をして広がり、それらを総括して、通称「新教育運動」と呼ばれているのです。しかし、それが、本当にスタンダードとして根付かなかったのには、どうもこの運動のどこかに落とし穴があったようです。新教育運動を評価するうえで、それの検証する必要がありそうです。
話は元に戻して、デューイの提案の特徴の中で、教育とともに哲学も重視したことがあげられています。もともと哲学における国家論の大半は教育論でもあったのです。それが、この世の究極的な真理を求めるものが哲学であると思われ、実在する姿を言葉で記述したものが真理であり、その真理を発見することが哲学の役割だと考えられていたのです。その哲学のあり方にデューイは疑問をもちます。彼は、哲学とは公共性のある問題の解決策を行動レベルで明確にすることが役割であると考えたのです。公共性のある問題とは、現実社会における解決されなければならない問題ということなのですが、その解決手段・方法を明確にすることが哲学の役割だとデューイは考えます。そして、その行動の方法について熟考されて明確にされたものが「指導観念」とします。まず、行動をするときには、指導観念をよく考えてつくり、その指導観念に基づいて実験的に行動していくことが重要であるとしました。そのために、デューイの哲学の立場は、しばしば実験主義とも言われています。
この考え方に基づいて、デューイは、「問題解決学習」という学習方法を提案します。それは、「問題解決は人間の知性を信頼し、その知性を生かして行動の方法についての計画を立て、それに基づいて実行していけば現実社会における問題を人間が自らの力で解決することができる」とし、そのような知性を教育でどのように育てるのかが課題となっていくのです。