改革

 私は、保育という行為は、保育学という学問ではなく、子どもをいかに世話をするかということではなく、どんな社会を作っていくかという課題を持つ、人の生き方であると常々言ってきました。いわゆる人としての「道」ということで、「保育道」と言ってもいいと思っています。また、保育、教育は、子どもをどうするかということだけにとどまらず、国をどうするか、社会をどうするかということであると思っています。ということで、国家論とは、教育論であり、どのような社会を作っていくかということは、そのような社会の形成者としての資質を備えていくことが教育の目的になるのです。

 オランダの教育改革は、落ちこぼれ対策から始まりました。しかし、この教育政策は、単に落ちこぼれ問題を解消するための個別化・分化という考え方からさらに一歩進み、初等教育にかぎらず学校教育全体の社会に果たす役割に強い関心を払いました。そのように影響の広がりを示すものとして、リヒテルズさんは、当時の文部科学大臣のもと教育政策の出発点として示された項目を紹介しています。

「社会的文化的に他より遅れている子どもたちに対して教育機会を均等に提供すること」「教育の中に、子どもたちが生きている社会の実情を理解できるような要素をより多く取り入れていくよう働きかけること」「保護者、生徒自身、また教員が、教育に対してより大きな影響力を持つようにすること」「発達段階・テンポ・能力・ニーズに応じた教育の個別化を一層進め、それによってすべての子どもの発達の機会を平等にすること」「全日制の教育のほかに、すべての年齢層のための教育施設(成人教育・生涯教育)を充実させ、動機づけの高い人々への教育の機会を広げていくこと」「教育の目的を明らかにすることでより統合的に組織された、また、財政面でも目的意識の高い計画や制度を作ること」

 よく、縦割り行政と言われ、なかなか他とは連携を持たず、それぞれの場で話し合われることが多いのですが、教育は、うまれた瞬間から死ぬまでの人の人生に影響していきます。それを横断的に議論をしていかなければなりません。オランダでは、教育改革をしようとしたとき、「画一を排して、可能な限り個々の子どもの適性とテンポに応じた教育を行うための制度づくり」という一貫した目標に向けて、初等教育審議会、中等教育審議会、勤労青年のための教育審議会、教員養成審議会という四つの審議会をもうけました。そして、審議の持ち方として、上意下達の一方的なやり方を排し、時間をかけて各界に意見を求め審議に参加してもらう方策をとりました。このプロセスを経ることで、ゆっくりと、しかし確実に国民の理解と合意を得ていったのです。

 このような経過を得て、オランダでは「教育の自由」が保障され、それがのちのオランダの教育を伝統的に特徴づけられていくのです。しかし、これには、今回、私がオランダで危惧したことのリスクを伴います。それは、日本において、「建学の精神」とか「独自性」を重んじるということで、規則はできるだけ簡潔に、大綱化されているため、どのような保育をしてもいいのだと思ってしまいかねないリスクがあります。オランダでもこんなことが危惧されました。「時代が何を要請しようと、世論がどういう方向に進もうと、それぞれの学校は、自ら信じるところにしたがって、教育の内容や方法を選択できる」ということです。もし、画一教育が効率的でよいと信じる限り、その学校はその方法で教育を続けることができます。中央政府がどんなに言葉を尽くして個別の子どもの最大限の発達ということを主張しても最終的にどんな方法を選択するかは、学校の理事会や教育者の判断にかかってくるからです。それを、どう防いでいったのでしょうか?

草案

 私が「乳幼児教育法」の案を、子どもの権利条約を基にしてつくったのは、テレビのNHK大河ドラマ「竜馬がいく」のある場面を見たからです。その中で、坂本竜馬が、京都に上洛していた前土佐藩主の山内容堂に対して大政奉還論を進言するため、藩船で長崎を出帆すると間もなく、船中で「戦中八朔」という条文を考え、それを表わす場面がありました。

これは、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事」という大政奉還を前提に、公議政体論のもと、「1.大政奉還 2.上下両院の設置による議会政治 3.有能な人材の政治への登用 4.不平等条約の改定 5.憲法制定 6.海軍力の増強 7.御親兵の設置 8.金銀の交換レートの変更」というなど、八ヶ条から成る主旨書でした。それは、議会開設、官制刷新、外国交際、法典制定、海軍拡張、親兵設置、貨幣整備など、新国家体制の基本方針が表わされたものです。当時としては画期的な条文が平素な文章として記されています。これがのちに、徳川慶喜へ差し出される大政奉還の建白書の原案となりました。

何かを提案するとき、あれこれと理屈を並べても、いくら議論しても進まないときがあります。それは、評論家の集まりでしかならず、具体的な話にはなりません。そんな時には、きちんと具体的な原案を示すことです。いくら、乳幼児教育が大切といっても、どう大切なのか、どうすればよいかを示さないと進みません。しかし、それを出すのには、かなり勇気がいります。それは、保育という奥の深いものを、簡潔に文字に表すとなれば、いろいろと言い足りないところが出ますし、言い表し方が不備な点が多々目につくために、それに対しての批判が多く出るからです。しかし、きちんと先を見通し、現在解明されてきている科学的知見も踏まえ、日本で批准された国際法に沿って提案すれば、その内容ないつか影響を与えるであろうと思っています。

オランダで、画一教育から個別教育へという方針に固まった教育改革の議論は、1970年、少しずつ具体化されていきます。文部科学省次官(初等教育担当)であったフロスヘイデは、「新初等教育法」の草稿を発表します。その発表の折、新聞社のインタビューの中でこう述べています。「新しい法律を導入することで教育が明日からがらりと変わるとは思っていません。… ただ、草稿を公表することで刺激を与えることができると思います。」

そして、この改革が、政府主導の、つまり上意下達の改革にならぬよう、そして初等教育に最も深くかかわっている人々自身が担っていけるように、教育関係者や教育改革に関心を持つ者の広い参加を呼び掛けたのです。

この草案では、幼児教育と初等教育の間の溝を埋め、また、旧来の、学習内容を分断してしまう科目制や科目ごとの時間割ではなく、もっと柔軟なカリキュラムの作成を認めるという改革の方向が示されていました。そのために、教員をその新しい教育方法のために再訓練する必要があるということで、現職教員のための再教育やあたらしい教員のための研修プログラムを作ることになったのです。

そして、新初等教育法の骨子が次のように具体化されていくのです。「①幼児段階から小学校段階への子供の成長が遮断されずに連続的に進むよう保障すること。②精神的社会的発達御個人差を認め、学校教育プログラムに教材や方法を“分化”する可能性を取り入れること。③子どもの発達を診断し、その診断にもとづいてその子どもに合った指導をしていくため、個別の、特別支援的な教育活動を導入すること。」などです。

時代の要請

 オランダでイエナプランが急速に広がっていったのには、様々な理由があると思いますが、その一番大きな理由は、時代がそのような教育を求めていたということがあるでしょう。当然オランダでも1960年代のはじめまでは、ほとんどの学校で、先生が教室の前に立ち、黒板を使って教室内の子どもたち全員に授業をする、という古典的な形式が主流でした。リヒテルズさんは、この形式を「古典的な」と表現していますが、もし日本であれば、「現在でも多くの学校で行われているような」となるでしょうね。

 1960年代は、各国で教育の見直しが行われた時期です。その原因は、スプートニク・ショック(Sputnik crisis)と言われているもので、1957年10月4日にソビエト連邦が、人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功したことにより、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国の政府や社会に衝撃や危機感が生まれたことによるものです。時を同じくして、画一一斉授業のもつ問題点が多くの人々の中に起きてきました。もっと子どもたちの個別の能力や適性を考慮した教育が必要ではないかということになりました。そこで、今までのものに取って代わる方法ということで「オールタナティブ」として、従来はなかった新しい理念や方法によって教育活動が展開されました。

 オランダでは、そのような自由な、新しい発想の教育が急激に広がったのには、以前のブログで紹介した1917年に憲法第23条の改正された「教育の自由」があったからです。そして、その当時に生まれた様々な教育方法が実践されていたのです。それは、モンテッソーリ教育、ダルトンプラン教育、フレイネ教育、シュタイナー教育などです。しかしその実践校はほんのわずかでしたが、その土壌があったため、1960年代後半から1970年代にかけてオランダでは、オールタナティブスクールは増加していきました。

当時のオランダでは教育現場では、いわゆる「落ちこぼれ」が問題になっていました。なんと、普通初等教育だけでも、200万人以上の子どもたちが留年していたのです。小学校を留年せずに終了しているのは、全生徒数のおよそ三分の二だけだったのです。しかも、中等教育になると、それは2倍から3倍にもなります。そこで文部科学省の委託によって、当時あった教育研究財団という機関が調査・研究を行いました。その報告書は、「落ちこぼれへの抵抗」というタイトルで出されました。

その中で、「特に、古い画一的な教育では、同じ内容をただ反復するという授業形態が留年の原因になっていること、また、留年する子どもは、わかっていない部分をもう一度学ぶために、わかっている部分も繰り返して学ばなければならない、という非効率的な教育が行われている。」と指摘したのです。また、「諸外国の教育改革の事例を参考にして、生徒各自の可能性とニーズに応じた教育内容や方法の“分化”を目指して、学校教育の内容を根底から組織し直す必要がある。」と主張しました。また、「従来のように学習内容を学年ごとにヨコに決めるのではなく、タテに、つまり子どもの発達を学校就学期間全体を通じて継続的に捉え、より包括的な形で組織していくべきだ。と述べています。

 さらに、「モンテッソーリ教育とイエナプラン教育の重要な点は、いずれも、タテの生徒グループを基本としていることである。異年齢の子どもからなるグループは、社会形成(相互の助け合い、グループワークなど)の可能性をより多く提供しているし、場合によっては組織上の利点もある」と述べ、画一教育に代わる方法を探るために、オールタナティブ教育の実例を採用する必要があると主張しています。

勉強会

学会としてNEFは、イギリスの女性視学官であったエンソア氏の提案によって創設されましたが、その趣旨に賛同し、参加者として名を連ねた人には、スイスの教育学者であるフェリエール、ドイツの女性教育学者のロッテン、英国学校経営者であり、教育思想家であるニイル、イタリア幼児教育者として有名なモンテッソーリ、ベルギーの教育者であり医師でもあるドクロリー、スイスの児童心理学者のピアジェ、アメリカの教育学者のデューイ、インドの詩人で教育者であるタゴール、スイスの深層心理学者のユングといった、現在でもその影響を与えている著名な教育者、心理学者、哲学者などが参加しました。

このNEFは、隔年に国際会議を開催しています。その会議は、1966 年から名称を WEF ( World Education Fellowship)に改め、活動を継続しています。また、この会の支部が各国に置かれています。日本でも、1930 年(昭和5 年)に発足しています。その名称を「国際新教育協会」(1955―1967)、「世界教育日本協会」(1967―1991)、「世界教育連盟日本支部」(1991―2004)、「世界新教育学会」(2004―) と改称してきています。

オランダでも支部があり、その名称を「養育・教育刷新研究会(WVO)といいます。1950年代にその会の書記をしていたスースさんは、たまたまその運動のなかでペーターセンの「小さなイエナプラン」という本を手にします。その数年後に、ドイツ支部での総会で他の新教育の例とともにイエナプラン校のスライドを見ます。その学校は、イエナ大学に勤めていた人が校長として運営していました。そこで、すぐにスースさんは、その学校を訪れ、その校長をオランダのユトレヒトで行われたNEFに招待したのです。

そこから次第にオランダにイエナプランは広がっていくのですが、その時にこんなことを言っています。「各人は、イエナプランの概念を、それぞれの状況に適合する形で取り入れなくてはなりません。それぞれの状況に合わせても、大きな原則を見失うことがなければ、安全なコンパスの上で航行することができます。」イエナプラン教育の運動家たちは、ドイツで生まれたペーターセンの教育理念を、その基本的な考え方や姿勢を確乎たるものとして維持しながら、それが提唱されてから何年も経っていることもあり、ドイツとは異なる文化や環境の中でどのようにして活かしていくか、ということについて、初期の段階から意識的に考えてきたと言います。

オランダでイエナプラン教育を実現するためには、どんな教材や教授法を開発していくべきか、また、どのようにすればこのペーターセンの考え方をオランダの教育制度の中で普及させていくことができるか、ということを勉強会や研究会で熱心に論じ合いました。また、当時世界で行われていた様々な教育運動にも関心を向け、そこから、イエナプラン教育に相通じる考え方や方法を積極的に取り入れていこう、という方向へと向かったのです。現在のオランダイエナプラン教育協会のホームページには、「オランダのイエナプラン教育には、アメリカ合衆国の無学年制学校や、イギリスのインファント・スクール、フレイネ教育の影響があります。」と書かれてあるそうです。

このあたりの経緯は参考になります。実現化するための勉強会は、今、私たちが試みようとしていることです。基本的に考え方や姿勢を確乎たるものとして維持し、ぶれなければ、どう普及していくか、どう実現していくかの勉強会では、実りある、実践に使える内容が話し合われるでしょう。そして、相通じる考え方や方法を積極的に取り入れて、よりいいものを作っていくことも可能になるでしょう。

各国へ

 日本でも、小学校で電子黒板やタブレット型パソコンを使った授業が各地で行われています。この利用で、授業が変わってくると言われています。しかし、私は、それらはあくまでも道具であり、授業形態だけでなく、教育のあり方を考え直さなければならないと思っています。ペーターセンが、ドイツのイエナ大学に着任したのが1923年です。彼が提案した教育改革では、教師は教育者として、学校で自立的に子どもが学ぶために適切な指導とサポートと方向付けをしていきます。日本で多くの学校で行われているような、教員が決められた知識と技能を一律に伝達するような授業では、いくら道具が進化しても、素晴らしい道具を使っても子どもに身に付く力は基本的に変わりません。

 逆に教育の目的や授業方法を改革しても、それを行う教員養成や教材開発も行わなければなりません。何よりも、教員のあり方、教員の子どもに対する接し方について、自身のもつ既成の考え方を大きく転換させなければなりません。また、評価についても従来と異なる考え方をしなければなりません。ペーターセンが提案したイエナプランでは、子どもの学習は、その成果を自分で評価できるものでなければならないと考えます。また、それと同時に、大人である教育者からだけではなく、子ども自身が、自立的に学びながら、あるいは、他の子どもとの協力や相互作用によって、自分がやっている学習をフィードバックできるような状況が、できる限りつくられねばならないと考えます。

 ペーターセンは、イエナ大学の実験校をつくって、独自の教育理念に基づいた新教育を行い、諸外国に出かけて講演をし、また、多くの国々の教育者たちがペーターセンのもとに集まりました。さすがヨーロッパですね。国内への広がりではなく、諸外国へ広がりを見せます。そして、それぞれの国で、それぞれの形をつくって定着していきます。イエナプランと呼ばれる教育方法は、現在オランダで実践されています。というよりは、オランダ以外の国での実践をあまり聞いたことはありません。もしかしたら、イエナプランを日本に精力的に伝えているリヒテルズ直子さんの成果かもしれません。しかし、ペーターセンが諸外国で講演をしていたころ、最初は隣のオランダではそれほど注目されなかったようです。さらには、第二次大戦後でもあまりオランダでは取り上げられなかったようです。それは、戦時中、オランダはドイツに占領され、ドイツが嫌いだったかもしれないとリヒテルズさんは推測しています。

 しかし、1950年代、ある偶然によってオランダに知られていきます。そのころにはペーターセンも亡くなっていて、イエナ大学の実験校も閉鎖されていました。しかし、どうやって、だれによって広げられていったのでしょうか。

当時、新教育運動は、各国で引き継がれていました。私は、昨日の講演で、どんな経緯で「イエナプラン」という名がついたかを話しました。それは、新教育フェローシップの会議で、その秘書をしていた人が、イエナ大学で考えられたということで、「イエナプラン」と呼んでからです。この新教育フェローシップは、世界新教育学会(New Education Fellowship/ World Education Fellowship)と呼ばれ、そのかした文字をとってNEFと呼ばれています。この学会は、子どもの自主性・創造性を尊重する新教育を普及する目的で、第一次世界大戦後の国際協調期1921 年に、世界の新教育実践者・理論家たちが連帯する国際教育組織New Education Fellowship (NEF :国際新教育連盟)として創設されました。この学会には、私たちが現在よく知っている人たちの名前が連なりますので、もう少し説明してみます。

小さなウサギ

 どうもオランダ報告から、ブログが重くなり始めました。しかし、とても大切なことなので、私の整理の意味も含めてしばらく考察してみようと思います。

 しかし、ここでしばらく一休みします。というのも、オランダに行っている間、コメントをたまに入れてくださるtakuminoriさんからこんな信号機の写真を送っていただきました。普通の信号機の人の形のところがある姿になっています。たぶん、ほとんどの人はそのシルエットだけで何の姿かわかるほど世界中にその名が知れ渡っています。そうです、この姿はミッフィーです。なぜ、オランダでこの写真を頂いたかというと、それは、このキャラクターは、オランダ人のグラフィック・デザイナー、ディック・ブルーナ(Dick Bruna)が抽象美術運動である「デ・ステイル」の影響を受けて作られたものだからです。彼の故郷であるオランダ王国ユトレヒト州ユトレヒト市の信号機だそうです。
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 世界中にその名が知れ渡っていますと言いましたが、実はそうではないのです。というのは、その名はその国によってずいぶんと違います。本家のオランダでオランダ語で書かれたミッフィーの本を買いました。その表紙には、「Nijntje」と書かれてあります。オランダでは、「ナインチェ・プラウス(Nijntje Pluis)」と言われているようです。実は、ミッフィーというのは、英語で表す時に使う呼び方で、Miffyと表します。また、日本独自のよび方としては、「うさこちゃん」と呼ばれることもあります。しかし、オランダ語のnijntjeとは「小さなウサギ」という意味ですので、日本の「うさこちゃん」というよび方の方が、原語の意味に近いようです。
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このキャラクターは、全世界で、絵本やキャラクター商品に使われ、絵本の売り上げは全世界で8500万部に達するそうです。ということで、その呼び方は絵本からの影響が大きいのですが、日本では問題があるようです。というのも、1964年、日本での初出である「うさこちゃん」が石井桃子による訳語で福音館書店から刊行されました。その後、1979年に講談社から刊行されるときに、1960年にイギリスで英語訳版が発売される際に付けられた英語風の名前「ミッフィー」というタイトルで刊行されたため、二通りのよび方になってしまったのです。

このミッフィーのキャラクターをつくづくと眺めていると、そのシンプルさに不思議な気持ちになります。この絵本には様々なキャラクターが出てきますが、彼らはすべて、何をするにしても常に前を向いています。最初、ミッフィーの信号機を見たときに、こちらを向いて、じっとしている絵柄なので、ふつうは止まれの合図のはずです。そして、進めは、横を向いて歩いている姿のはずです。ですから、消えている方の絵は、どんな絵で、何をしている姿なのだろうと思ってしまいます。しかし、何をするにも常にこっちを見ているのは、「いつも、本と向き合っているあなたのことを見ている」というブルーナの愛情表現からだそうです。usakoehon2また、ミッフィーの口が「×」なのは、じつはブルーナが子どもの頃に見たウサギの口と鼻が×に見えたからで、本当は、鼻を表わす「V」と、口を表わす「Λ」が合体したものです。

こんなシンプルな表現は、当時、大人たちは「子どもには理解できない」と敬遠していましたが、このシンプルな線と明解な色彩が、子どもたちの支持を得たのです。色もシンプルで、赤、青、白、緑、黄、(茶)を使い、これらの色は「ブルーナカラー」と呼ばれています。

教師から教育者

 私たちは、教師というとどのようなイメージを持つでしょうか?「教える人?」「偉い人?」「権威を持った人?」「権力を持った人?」「怖い人?」「優しい人?」様々な印象を持っている人がいるでしょう。その多くは、自分が出会った教師のイメージがあるかもしれません。また、それは、時代によっても変わってきているかもしれません。また、子どもから見たイメージと、親たちから見たイメージと、一般的な社会から見たイメージと違うかもしれません。しかし報道などでの取り上げられ方を見ると、同じ人間であっても「教師が何々をした」ということは、特別に感じるようです。

 以前のブログで書きましたが、日本の教師は外国における位置づけと少し違って、境域基本穂の中の目的のひとつである「人格の完成を目指す」ための人であるため、人格者であることが要求されることが多いと思います。ですから、「聖職」などと言われることもあります。それに対して、外国では非常にフレンドリーな立場でいることが多いと聞きます。

 イエナプランの創始者であるペーターセンは、権威的なニュアンスを持つ「教師」という呼び方を嫌っていたようです。教師という言い方が持つ、力や知識をより多く持つ存在、未熟な子どもに対して上から一方的に教える存在、というニュアンスに対して否定的だったのです。ですから、「教師」ではなく、「教育者」「養育者」という言葉を好んで用いました。今でも、オランダにあるイエナプラン校でも、他の学校のように「先生」=教える人(Leraar/Lerares)という一方的な意味合いを持つ言葉を用いず、子どもたちのグループと生活を共にする「グループリーダー」と呼んでいます。

 ペーターセンは、教育者と生徒の関係、また、生徒と生徒との関係は、「人間的なもので、より高貴な基本的な態度に基づくべきである」と言っています。また、教育者と親の関係も、他者・相手の権威から自由な、相手に束縛されない、互いに対等に語り合える関係でなければならない、と言っています。親か教育者のどちらか一方が権威的な態度を持って相手を従わせようとすると、平等な人間としての関係が破壊され、両者の間に距離が生まれる、と言っています。

 この言葉は、学校などでは、教師が権威的な態度を持って親などを従わせようとすることが見られることが多いと反対に、保育園などでは、親の方が権威的な態度で園を従わせようとすることが多いと最近聞くことが多くなりました。しかし、子どものもとでは平等であるべきで、このことは大切です。

 また、この呼び方は、教えることは教育ではないということを表わしていると私は思っています。教育とは、「子どもたちが自立的にまた、他との関係を通じて学ぶこと」であるとペーターセンは思っていたようだからです。そのような意図を持った学校は、「生徒たちこそ、学校での仕事(勉強)の完全な担い手になるということを表わしているのです。そして、教育者は、この仕事に取り組む生徒たちの、方向付けをする者でなければならない。」と言っています。すなわち、学校とは、知識や技能を持った教師が、それらを持たない生徒に教える場、という考え方とは全く異なる教育者と学習者の関係です。ですから、授業方法も、教員が決められた知識と技能を一律に伝達し、できない子どもにそれを繰り返すように言い渡し、耳を傾けない子どもには規律やしつけで管理する、という姿勢では子どもは育たないと考えます。

 イエナプランのように、これは小学校での話ですから、日本において、この問題が就学前の施設での問題になっていると聞いたら、びっくりするでしょうね。

教育の目的

 ペーターソンは、年齢別のクラスによる教育体制に対するアンチテーゼとして、いくつかの提案をします。学年制を廃して、異年齢の子どもたちを混合させたマルチエイジンググループを作ることを提案します。この主張の背景には、学校という人間社会は、現実の社会を反映したものであり、異なる社会階層、異なる宗教的信条、異なる知的レベル、男女など、あらゆる面での多様性を受け入れる共同体でなければならないという強い信念があります。この考え方は、現在のバイエルン州における「バイエルン(陶冶プログラム)」の中でも書かれていることです。特に、男女、異なる知的レベル(しょうがい児)とともに年齢によってグループをわけてはならないということが規定されているのです。

 グループは、同じ発達レベルの子どもたちを集めるのではなく、むしろ、違っている面がいろいろとある子どもたちを同じグループに入れることで、子ども同士が学びあい、教え合い、理解しあう機会を提供しようとしています。同じようにマルチエイジンググループを基本単位とするモンテッソーリ教育と比べて、考え方の上で一線を画する点だと言われています。モンテッソーリ教育では、子ども同士のかかわりは想定していないからです。

 イエナプランでは、日本における教育基本法の目的に書かれてある「平和で民主的な国家及び社会の形成員としての資質を備えること」と同じ目的を持っています。それをこのように説明しています。「イエナプランの考え方に基づく学校は、まず何よりも家族学校である。それはどういうことかというと、この学校は国立であるけれども、私たちは、その深い内的な意味において、家族の養育を補完し、さらに進めて、文化生活全体とより密接に結合させることで、若い世代の人々が有機的に国民社会の中に参加し成長していくことを目指した機関として捉えている。」とあります。

 それは、日本の教育の目的である、子どもたちが社会の形成者としての資質を備えるための教育を目指すものであり、リヒテルズ・直子氏は、ペーターセンは、学校教育を終えた後、社会に参加していくことを想定し、その準備として子どもを指導するということを学校教育の目的として捉えているからと言っています。ペーターセンは、学校を、単に知識・技能の伝達の場としてではなく、子どもたちが将来、それらの知識・技能を使って、社会に自立的・積極的に参加していくための社会的な能力、すなわち、人間関係の築き方について学ぶ場、として捉えていると言います。さらに、ペーターセンの言う「一般学校」とは、エリートのための教育を行う学校ではなく、異年齢の子どもたち、異なる社会階層や信条を背後にもつ子どもたちを差別なく受け入れる学校の姿であると言っています。

 このような考え方が、学校教育の中心であるとすれば、乳幼児教育が学校教育の中に入ることは賛成しますし、乳幼児期から初等教育への連続性が教育基本法のもとに保障されることになるでしょう。しかし、どう見ても、現在の日本における初等教育、中等教育は、知識・技能の伝達の場としての役割が大きい気がします。

 教育の役割が変わってくると、教育者の役割が違ってきます。このあたりのことは、その国の言葉が持つニュアンスに関係しますので、訳者によって違ってくるかもしれませんが、リヒテルズさんは日本人ですので、言葉の使い方にはそれほど本来のものと違わないと思います。その説明では、教育者をどのように考えると言っているのでしょうか?

少し教育学

 オランダ報告の後、それまでブログで取り上げた「イエナプラン」についてもう少し考察してみようと思います。その作られてきた経緯は、私たちが目指す保育の参考になることが多いからです。
 まず、教育学の勉強になりますが、ペーターセンが着任したイエナ大学は、あの近代教育学の建設者と言われているヘルバルトが哲学を学んだ大学です。彼の業績を振り返ると、あまりに教育学の授業になってしまいますので、ざっと言われている経緯を振り返ると、ルソーによって「子どもの発見」がなされ、ペスタロッチやフレーベルによって学校という場での教育実践が行われ、さらに教育実践を反省し、教育を学問として確立しようとしたヘルバルトによって、近代教育学の成立が実現したということになります。

彼の科学的教育学とは、経験にたよる従来の教育観を乗り越え、これを統一的原理のもとに一貫した全体的体系をもつ学問にまで高めたことです。その中で、私のドイツ報告の中に何度も現れる「陶冶」という概念を打ち出します。ヘルバルトにとって、教育の究極の目標は、「強固な道徳的性格」の形成、彼の言葉では「品性の陶冶」であり、品性の陶冶というものに、経験・感覚・知識・技術などの獲得がどうかかわるかというテーマが彼の関心だったのです。そこで、日本では、陶冶という言葉は人格形成に含まれる概念として使われなくなったのです。

品性の陶冶では、ルソーやペスタロッチが重要視した「自然」は、必ずしも教育の基本にはならず、教育が「自然」に従う必然性は認めませんでした。だからといって、当時のヨーロッパの絶対主義的国家が国民に対して画一的な統制・管理を基本にしていた動きにも同調しませんでした。彼は、「国家のことを顧慮しない教育、政治的利害に左右されることのない教育、他人のためにではなく、それぞれの人が自分自身のために陶冶しようとする教育こそが国家にとっても望ましいと考えたのである。」と言っているのです。

そして、教授方法として、決して知識や技能を一方的に教えこんだり、機械的に記憶させたりすることではなく、子どもに興味・関心をもたせるための教師の教育的活動を重視したのです。子どもが学習対象や学習課題に魅力を感じ、意欲的に追求していく「態勢」(姿勢)を培っていくことが教授の使命であると考えたのです。

 その後、イエナ大学では、ヘルバルト派の代表的な教育学者であるラインが受け継ぎます。しかし、彼は、教師が指導する授業の展開過程に即して、「予備・提示・比較・総括・応用」という五段階の指導方法を定型化したために、彼の理論は、近代学校が制度として確立する過程で、教師主導の授業形態を画一化していきます。それに反対したのが、その後着任したペーターセンで、子どもが経験の中から学び、発達することを基本にした教育のあり方、人間と人間の間、また、人間と環境との間の有機的な関係から出発した教育を追求していきます。

 また、彼は、子どもの現状から課題を見つけていきます。当時、学校では、多くの留年(落ちこぼれ)を生んでいました。そして、その現象は、ドイツ国内にとどまらず、オランダ、ベルギー、イギリス、チェコスロバキアでも見られると指摘します。それに対して、ペーターソンは、まず、「学年クラスの破たん!」と題して、学年制による教育を批判します。そして、年齢別のクラスによる教育体制に対するアンチテーゼとして、いくつかの提案をします。

しかし、1927年にペーターセンによって指摘されたこの問題に、各国が取り組むようになるまでに、40年近くの歳月を要します。ヨーロッパにおいても、古典的な学年制の教育がいかに根強いものであったか、あるいは、至当の者として人々の議論を封じ込めてきたからです。日本では、変わるまでに、100年近くかかるのでしょうか?

オランダ報告まとめ

 今回のオランダ研修で、参加者の皆さんに、今後オランダ研修を行っていくべきかという話を聞きました。それは、私たちは、オランダの保育事情を研究するためではなく、私たち独自の保育カリキュラムを作るために、ドイツ、オランダから学び、いいところ、取り入れるべき考え方、そして、欧米での今後の方向性、それらを参照すようとするものです。そのような意味からすると、オランダからも学ぶべきことがあるのではないかという意見が大かたでした。
fusya
 確かに、私たちが目指す保育における理念である「子どもの主体性」「子どもの自発性」はどの園でも共通でした。どの園でも、何かを教える、何かを覚えさせる、なにかをやらせるというような保育を見ることはありませんでした。また、いわゆるスクール形式に子どもを椅子に座らせて、先生が前に立ってみんなに話をするという場面も見ませんでした。
orandagikai
 また、園庭は日本で多くみられるような、ただ広く、真ん中には何も置かず、子どもたちがただ走り回っているような光景はどの園でも見られませんでした。それは、保育室も同様で、家具が部屋の周囲に取り付けられ、部屋の真ん中には何も置かず、広くなっているような部屋はどこにもなく、保育室には、どの園でも様々なコーナーが作られていました。
orandasyokuji
 また、クラスというグループは、4歳の誕生日の翌日から小学校に入学できるということもあって、すべての園で異年齢で構成されていました。そのような特徴は、全くドイツでも同じで、そこまではどうも欧米ではどの国でも見られることのようです。そんなスタンダードな保育形態が、日本では稀有な形態であるということに驚きます。
kigutu
 しかし、各国の取り組みは、必ずしも日本に導入すればいいとは限らないものもあります。今回のオランダ研修で、私は、いくつもの園を持つグループでの理念の統一化についての疑問がありました。というのも、その説明で、理念、保育方法は、地域のよって事情が違うので、それぞれの園で違っていると言いました。ですから、必ずしも同じグループだからといってイエナプランを取り入れているとか、ピラミッドメソッドを取り入れているということもないようです。ドイツのように、統一カリキュラムである「バイエルン」のような存在は、保育の質のスタンダード化には必要な気がします。また、その統一カリキュラムを実践するために、教育局のアドバイザーが、各園を回ってカウンセリングをしているということも大切なことのような気がします。いくら教育の自由といっても、そもそも論がなければ、その質は担保出来ないという思いを強くしました。
orandatatemono
 今後、オランダでは次第に統一カリキュラムが作成されていくのかもしれませんが、どうなっていくのでしょう。私から見ると、たとえば、イエナプランは新教育運動から引き継いで、小学校教育としては素晴らしい試みだと思います。そこから学ぶことも多いと思いますので、もう少し、その内容も考察してみたいと思います。しかし、オランダ国内では、どうして広がらないのでしょうか?子どもは生き生きと活動し、学力も上がっている実績もあるのでもっと取り入れていけばいいと思うのですが、そのあたりの事情は、日本と同じようなことがあるのかと思います。
orandaressya
 今回のオランダ訪問では、日本での保育の質をスタンダード化する必要性を大いに感じた研修でした。