本来の保育

 国家社会における子育ては、国家が意図するある価値観のなかで共通性が強くなりますが、非国家社会では、様々な形態がとりやすくなります。しかし、非国家社会の中でも、子育ての基本において共通部分がみられる狩猟採集社会のあいだでは、その共通性が狩猟採集社会の子育ての考え方を収斂可能なものにしているとジャレド氏は言います。

 国家社会は、狩猟採集社会に比べ、軍事的にも技術的にも進んでいます。人口もはるかに膨大です。これらの点において、国家社会は狩猟採集社会よりも有利な立場にあるといいます、この優位性のおかげで、国家社会は過去数千年にわたり、狩猟採集社会を征服してきたのです。その結果、いまや、どこもかしこにも国家があって、その境を境界線が仕切っています。狩猟採集民が現存する地域はほとんど残されていません。国家社会は、狩猟採集民の小規模血縁集団よりも、はるかに弾力であり、強大なのです。

 ジャレド氏は、だからといって、国家社会の子育てのほうが狩猟採集社会の子育てよりも優れているとは限らないと言います。それどころか、彼らの子育て法の中に、見習うに値するものもあり得ると言います。私もそれに全く同感です。それは、狩猟採集民での子育ては、人間本来の子育てのあり方を継承し、真の人間を育てる考え方だと思います。国家主義における西洋化は、机上の学問を基盤として、人間本来の力、特に赤ちゃんの持って生まれた力を軽視しすぎてきたきらいがある気がしています。それは、大人が子どもをコントロールしやすい存在として育てている部分があるような気がします。いま、必要なのは、もう一度人類がつないできた子育てをよく検証し、そこから学ぶことが必要です。

 ジャレド氏は、実際に狩猟採集社会を訪れ、彼らと接する中では、必ずしも素晴らしいと言えない子育ても見聞きしてきたでしょう。それは、実際に目で見、体験した人しか見ることができない、善いものと悪いものをはっきり言える資格かもしれません。そのなかで、彼が狩猟採集民の子育て慣習のなかの今のそのままの形で見習えるものを提案しています。それは、「ベビーカーに赤ん坊を載せて移動する際の赤ん坊の姿勢や顔の向き」「赤ん坊が泣いたらすぐに対応する」「アロペアレンティングをもっと盛んにする」「赤ん坊とのスキンシップをもっと濃密にする」「知育玩具で子どもの独創性を奪うのはやめにして、子どもに自分で遊びを工夫させる」「同年齢遊戯形態で遊ばせるだけでなく、異年齢による遊戯形態を子どもに勧める」「子どもの探索の自由を、安全な範囲で最大限に増やしてやる」

 これらあげられた項目を見ると、どれも私たちが提案する保育のあり方とまさに合致します。しかも、それは、少し前までに唱えられていた保育のあり方に疑問を持つものです。ただ、アロペアレンティングという言葉は、私は初めて聞くのですが、その内容についてはブログでも紹介しましたが、「他」を表す「allo-」と「母親が世話をする」が転じて「子育てする」の意味をもつ「mothering」が結びついた言葉だそうです。それを盛んにすると考えているのは、わが意を得たりという気持ちです。これは、もっと強調した方がいいですね。また、異年齢における遊びの重視も同様です。

 このような子育てをしている狩猟採集民は、一見発展途上に見えますが、ジャレド氏が実際に生活した彼らは、大人ばかりでなく、子どもまでもは情緒的に安定し、自分に自信があり、好奇心に満ち溢れ、自律しているようです。私たちに足りないところですね。