子育ての理想

現代のアメリカの都市で行われている幼児教育の状況を聞いて、このような傾向は、すでに東京では、数年前からまったく普通になりつつあります。ですから、特にはびっくりしないのですが、ニューギニア人から見れば、奇妙に思えることがたくさんあるようです。ニューギニア人がその話を聞いて、特に仰天したのは、「子どもが他の子と遊ぶ方法を教えてもらう特別な場所、特別なクラス、そして、特別な先生がいる」という話を聞いた時だそうです。

私も、二十数年まえに、びっくりしたことがありました。それは、新幹線に乗って遠くから毎週通ってくる、東京にある人気のある幼児塾で行われている内容を聞いた時でした。その内容は、物をもらった時に「ありがとう」ということを何度も繰り返し言わせたり、床に先生がごみを散らばせて、それを拾ってゴミ箱に捨てることを何度も繰り返しさせているのです。こんなことは、保育園では毎日、日常的に行っていることで、これを教えてもらうために、新幹線に乗って、高い月謝を払って通わせていることにびっくりしました。それは、家庭での教育力が低下しているのか、通わせること自体がステイタスなのかわかりませんが、「教える」ということが、大人から子どもへの知識の伝達と捉えていることは確かなようです。ですから、生活も、遊びも、大人から子どもへ知識として伝達するようになってしまったのでしょう。
ジャレド氏は、「昨日までの世界 ― 文明の源流と人類の未来」という書籍の中で、子育てということを考察しています。それを読み進めてきましたが、その章の最後に、小規模社会と国家社会を比較して子育ての違いについて考察しています。ただ、同じ国家社会であっても、子育てに関する理想や慣習はそれぞれ異なっているものを持っています。また、地域によっても、随分と違います。農家、都市の貧困層、都市の中流階級、それぞれ違いますし、世代によっても違います。当然、個人によっても違います。しかし、その違いを認めつつ、おおむねの傾向はあるようです。

ジャレド氏は、国家社会には共通の基本的な類似点が存在すると言います。それは、国家政府にとって、子どもの位置づけや、子どもの取り扱いについて国家としての利害を持っているからです。そのために、どのようなことが行われているかをジャレド氏はこう書いています。「国家社会の利害の関心は明確に表意されており、中央集権的な指導のもとに策定され、決定され、上意下達式に施行され、執行を職務とする人々によって実行されている。国家社会の願いは、子どもが有能で従順な市民に成長することである。立派な兵士や労働者になってくれることである。そのため、未来の市民が出生時に殺されてしまったり、火の周りに放置され、やけどを負ってしまったりするのを容認するような子育ては、国家にとっては看過できない子育てなのである。」

この指摘を読むと、現代の日本において、なぜ行政が、やれ安全だ、清潔だ、栄養だ、ということにこだわるかがわかります。さらに、ジャレド氏は、国家の定めるところにより、その独自の考え方と目標に基づき、未来の市民の教育が行われていると指摘します。それは、市民の性行為の様態も、国家の定めるところにより、その許容の範囲を逸脱せぬように決められるのです。

このような考え方と目標は、いずれの国家社会においても認められるものであり、その共通性が国家社会の子どもに関する政策を一つにまとめることができるのだと考えています。