教育方法

「親は何も指示しない。しかし、他の大人が何も言わないわけではない。さらに、子どもに対する教育は、さりげない形で行われる。教育的指導のようなものがかしこまった形であるわけでもなく、何かを暗記させるわけでもない。授業もなければ、試験もない。文化的な場所“学校”もない。知識は、状況に応じて咀嚼され、人から人へ伝えられる。そこは、知識を社会生活から切り離すことはできない世界なのである。」

こんな教育のあり方を、人類学者コリン・ターンブル氏が伝統的社会であるピグミー族を観察して、次のような表現をしていることからも頷けます。「子どもたちにとっての人生とは、鞭で打たれたり叩かれたりすることがたまにある、ひとつづきの長いお祭り騒ぎの日々の連続である。そして子どもたちはある日、大人になり、それまでの遊びの日々がもはや遊びの日々ではなく、自分の現実に生き抜くべき日々となるのである。そのとき、狩りの遊びは本物の狩りに変わる。木登りの遊びは、取りにくい樹の上のハチの巣からのハチミツ採集に変わる。ブランコでやっていた曲芸は、逃げ足の速い獲物をすばやく追いかけまわす動作に変わり、森のバッファローの突進を避ける動作に変わって、毎日毎日が曲芸業の連続である。それにもかかわらず、彼らは、お祭り騒ぎの日々の変化に気づかない。変化の進行があまりにも緩やかであり、彼らが誇り高き、名高い狩人になったのちにも、彼らの人生は依然として、楽しく笑いながら暮らす日々の連続だからである。」

この報告を読んで、もしかしたら私が求めている幼児教育とは、こういうものだったのかもしれないと思いました。これこそが、私が思っている就学前教育なのです。私が書いた「さんすうのはじまり、こくごのはじまり」という書籍では、幼児期における子ども生活が、遊びが、小学校に行ってから、4年生になるまでに緩やかに変わっていくことが重要であるということを訴えています。そして、それは、えらくなるとか、金持ちになるとかではなく、楽しく笑いながら人生を送るためというのもいいですね。それは、誇り高いからです。自分の人生を、誰かのために、誰かに評価してもらうために、使いたくないからで、自分というに誇りを持つという自尊感情なのです。

このように、小規模社会では、社会生活のなかで自然に教育が行湧えますが、現代社会のなかには、社会生活の初歩すらもかしこまった形で学ばなければならない社会が存在するとジャレド氏は言います。そして、こんな例を出しています。「現代のアメリカの都市のなかには、子どもが他の子どもと遊ぼうにも安全に外に出られない都市がある。近所の人でも面識がなく、道行く人がみんな他人だからだ。道路に車があふれ、歩道が整備されておらず、誘拐される可能性があり、一人で歩くのが危険だからだ。子どもが他の子どもと安全に遊べないため、子どもは「母子の学校」に通い、他の子どもと一緒に遊ぶ方法を正式に教わるはめになっている。マミー・アンド・ミー・クラスには講師がいて、十数人の母子に遊び方を教える。子どもは内側に、母親は外側に、それぞれ輪になって車座になる。子どもはそこで、他の子と順番に話す方法を教わる。相手の話に耳を傾ける方法を教わる。交互に物を受け渡す方法を教わる。そして、母親は外側から、子どもの様子を観察し、子どもの学習体験を共有するのである。」

このようなアメリカの幼児教育の状況を聞いて、どう思いますか?どこにびっくりしますか?