遊びの教育的意味

 子どもたちは、何のために遊ぶのでしょう。遊ぶことで、どのような力をつけているのでしょう。子どもにとって、遊びは大切であるということは誰でもいうことですが、それはどういう意味があるかはあまり語られません。また、どんな遊びがいいのかについても語られません。もし語られるとしても、それは、大人が考えるいい遊びのことが多いからです。

 遊びの目的には、それが子どもの自発的な遊びにしても、ある目的があります。それは、生きていくための学びが遊びにはあるからです。何回もブログで取り上げますが、日本では男の子は「凧揚げ」で他人と協力することを学びました。そして、創意工夫をすることを学びました。女の子は、ままごとで家事や家庭内の所作を学びました。それは、ある意味では、大人のまねをしながら、学んでいるのです。ということは、大人のやることが違う社会では、子どもの遊びも違ってくるはずです。

 ジャレド氏は、ニューギニア高地の少年たちの遊んでいる姿を見ます。それは、石蹴りやおもちゃ車での遊びではなく、部族戦争ごっこだったのです。子どもはみんな、小さな弓と矢筒を持って、その矢の先には草が巻かれていました。その矢にあたると痛いのですが、けがをしないようになっています。二手に分かれ、矢を射る中から一人が飛び出し、矢をかわしながら、「敵の少年」に近づいては矢を放ち、また後ずさりしては矢をつがえるようなことをしていました。本物の戦争そっくりまねていたのです。矢にあたっても死なない、戦っているのが少年たち、だれもが同じ集落の人間、笑顔で戦っているといったこと以外は、外見上、全く本物の戦争と違いはなかったそうです。

 この遊びを見て、ジャレド氏は考えます。「この遊びから、私は、ニューギニア高地人の生活の一部をかいまみることができた。そこでの遊びが、世界中の子どもたちがやっている、いわゆる“教育的遊び”の典型だったからである。そして、その多くが、大人のすることの模倣だった。大人が話してくれる物語の登場人物や出来事のまねだった。楽しいから遊んでいるだけの子どもの遊びには、大人になってしなければならない物事の予行演習を子どものころにさせておくという働きもある。」

 よく、子どもの他人をやっつけるという「戦いごっこ」の賛否を聞かれることがありますが、もしそれを許す人がいたら、その人は、子どもたちに、大人になって戦うための予行演習をさせているということになります。それは、日本ではおかしいですね。ということは、遊びの内容については、何がいい、悪いということではなく、子どもたちがその地域では大人になって何が必要であるかというような、環境によって左右されるはずです。

 人類学者であるカール・ヘイダー氏は、ニューギニア高地のダニ族を観察します。「ダニ族の子どもの遊びには、大人専用の儀式以外の大人の活動行為のすべてが模倣され、教育的に取り込まれている。」と書いています。その教育的な遊びとは、たとえば、草木でつくった槍を使っての戦争ごっこです。子どもたちは、この戦争ごっこで、槍や小枝でベリー類を突いたり叩いたりして、敵の「軍団」を「殺戮する」、戦士の前進や後退のまねをして、地べたをころころ転げまわる、垂れ苔や蟻塚を標的に弓矢の練習をします。そして、野鳥を見つけ出して狩り出したりするのです。大人の家づくりの作業などを模倣した遊びでは、掘っ立て小屋を本物っぽくつくってみたり、畑もどきをつくって、そこに溝を巡らせてみたりします。豚に見立てた野花を、ひもの先にくくりつけ、ダニ族で「豚、豚」という意味の言葉を口ずさみながら引っ張りまわしたりします。夜はたき火の周りに集い、燃えさしの小枝が落ちた先に座っている子が将来、あんたの義理の兄弟になるなんてことを言って遊ぶのだそうです。