自由と自律

 自由という考え方はとても難しいものです。また、子どもにとっての学習は、自らの体験から行われるということから、それを大人が保障しようとすれば難しくなります。数年前に、ドイツの保育園を訪ねたとき、こんな話を園長先生から聞きました。乳児の食事の場面でしたが、机の真ん中にスプーン、フォーク、ナイフが立てかけられていて、子どもたちは自分で使うものを取りだします。その日のメニューはスープでした。一人の赤ちゃんはフォークを取り出しました。そして、一生懸命フォークでスープをすくって飲もうとしていました。当然、歯のあいだからこぼれてすくうことはできません。しかし先生は何も言いませんし、手を出しません。

 その場面で、先生は何も言わないのかという質問に対して、「何を使って食べるかは子どもの自由です。しかし、自分で食べるのが不便であれば、他のものを使うでしょうし、他の子どもが何を使って食べているのかを見て学ぶでしょう。しかし、フォークで何も不便を感じなかったら、それはそれでいいと思います。」では、フォークでなく、ナイフを持ったとしたらどうしたでしょうか?以前のブログで紹介したエヌ少年画用紙に行った部族では、幼児が火のそばで遊んでいようが、幼児にも行動の自由があり、ひどい目に遭う自由があると親たちは考え、何の制止もしないのです。「ひどい目に遭う自由」となると考えてしまいますね。

 狩猟採集社会や小規模な農耕社会のなかには、子どもや赤ん坊が大怪我をしそうなことをしていて、それに大人が気づいていながら、止めることもしなければ、何もしない社会が存在します。しかし、やはり以前紹介したドイツでの絵葉書にある、「子どもは怪我をする権利がある」とどう違うのでしょうか?
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 もちろん、すべての小規模社会において、子どもの自由な振る舞いが容認されているわけでないとジャレド氏は言います。そこには、いくつかの考慮されるべき要因があるというのです。ひとつは、牧畜民や農耕民の社会において、体罰が多くみられる要因です。つまり、平等主義的な傾向が強い狩猟採集社会と、性別の違いや、年齢の違いといったことで行使可能な権力の程度に差がある農耕・牧畜社会との違いだと言います。もう一つの要因は、所有物をあまり持たず、子どもに壊されても困るようなものが少ない狩猟採集社会と、所有物が多い農耕・牧畜社会との違いです。これらの二つの要因によって、狩猟採集民の子どもたちに、農耕・牧畜社会の子どもたちのあいだにみられるよりも、自分の周囲の環境や世界を好きなように探索させてもらえる自由がより多くみられるのだろうとジャレド氏は観察しています。

 どうも、子どもの自由な振る舞いがどこまで容認されるかは、周囲の環境によって異なるようです。子どもの周囲の環境がどれほど危険であるか、あるいは、どれほど危険であると認識されているかの問題であるようです。ジャレド氏は、「世の中には比較的子どもに安全な環境も存在するが、環境そのものが危険な場合や、他の人間から子どもが危害を加えられる可能性が高い危険な環境も存在する。環境の危険度の幅がピンからキリまであるとすれば、その度合いに並行するかのように、子どもの振る舞いの自由度を制限する子育ての幅もピンからキリまで存在するという。」

 私たちの保育が、環境を通して行われるものであるゆえ、子どもをよく見て、その幅を調節することかもしれません。