体罰2

 またスポーツ界での体罰について、また世間を騒がせています。体罰はなかなかなくなりませんね。また、逆に体罰がいけないということがあまりに広がると、スポーツ指導者はやりにくいようです。ちょっと押したり、襟をつかんだだけで体罰と言われてしまうからです。また、育児においても、子どもをしつけると言って、わが子を体罰から虐待する親も多くなっています。何も抵抗できない子どもに対して、イライラをぶつけることもあるようで、そのニュースを聞くにつけ、胸が痛みます。

 体罰に対する考え方では、たとえば、スウェーデンでは、子どもへの体罰が法律で禁止されており、子どものお尻を叩く様な行為すら児童虐待とみなされ、刑事事件の対象になります。しかし、これと全く逆に、ドイツ社会やイギリス社会では、高学歴でリベラル主義の人たちや、キリスト教福音主義の人たちのなかには、体罰を与えぬ子育てよりも、体罰を与える子育ての方がよいと信じている人たちが多いそうです。体罰に肯定的な人々が好んで引用するのが、17世紀イギリスの詩人サミュエル・バトラーの「鞭を惜しめば子どもはだめになる」という言葉や、アテネの劇作家メナンドロスの「鞭で打たれない者はよく育たない」という言葉です。
 狩猟採集民の社会で見ても、アフリカのアカ・ピグミー族の人々は、子どもを絶対に叩かないそうです。叱ることさえしませんが、近隣の農耕民であるメガンドゥ族の子どもへの体罰を許す子育てを、恐ろしく乱暴な子育て方法であると考えているそうです。

 このように体罰が許容されるか否かは、昔にもみられるようです。例えば、古代ギリシャでは、メナンドロスの言葉があろうが、子どもがあたりをガヤガヤ走り回ろうが、しかる大人は誰もいないというのがアテネの日常の光景だったそうです。しかし、同時代のスパルタは、スパルタ教育というその名をのこしているように、子どもに体罰を与えるのはその子の親だけではなく、だれの子どもに対しても、大人がたいべつを与えることが許されていたそうです。

 このように子どもに体罰を与える社会と、体罰を与えない社会との違いについてジャレド氏はこう説明しています。「多くの場合、これは明らかに文化的要素に起因する違いであり、生業形態が異なることによる違いではない。たとえば、スウェーデンとドイツとイギリスは、文化は異なるが、いずれの国も農業主体の産業化社会であり、いずれの国でもゲルマン系言語が使われていて、経済的な違いもそれほどあるように思えない。このことから、文化が異なるがゆえに、ドイツとイギリスでは一般に体罰が容認されていて、スウェーデンでは容認されていたいという事実が説明できる。また、ガステンの集落も、エヌ少年を養子として受け入れた部族も、どちらもニューギニアの地で農耕と養豚を生業としており、そこに経済的な違いはそれほどみられない。しかし、ガステンの村では、棘だらけのイラクサを使った体罰が容認され、エヌ少年を養子として受け入れた部族では、少しの体罰もあり得ないという違いがある。これもまた、文化的要素に起因する違いがあるという説明ができる。」

 そうは言っても、生業形態が異なることによる違いも大まかにはあるようです。ジャレド氏は、狩猟採集民の小規模集団を調査をすることによって、大方の傾向があることに気がついたようです。