現代社会

私は、10年余りドイツの保育施設を訪れています。それは、ドイツから学ぶことが多いからですが、それは、必ずしもドイツの方がいいからということではなく、ドイツの保育を見ることによって、日本の保育がよく見えてくるからです。日本では、当然と思っていることが、海外から見ると特殊であったり、逆にドイツでは当たり前かのようにしていることが、日本ではあまり見られなかったり、両国を比較することで見えてきます。ジャレド氏ら人類学者も、伝統的社会を見ることによって、アメリカの特殊性が見えてきたようです。昨日までの感想に加えて、こんなことに気がついたようです。

「アメリカ人の子どもはニューギニア人の子どもに比べて、創造性がありません。すべてができあいだからです。ニューギニアでは、もし飛行機のおもちゃが欲しいと思ったら、材木や棒切れを使って自分でつくります。それを急降下させたり、騒音を立てたりして遊ぶんです。僕たち兄弟は飛行機を手づくりして、細部にもこだわったフライトごっこをしていました。でも、アメリカ人の子どもは出来合いの飛行機を買ってくるだけで、細部にこだわったフライトごっこなんてやりません」「アフリカではなんでも共有します。たとえば、私が学校に通っていた時、赤いタイヤやチューブを入手したことがありました。ゴムはパチンコを作るために貴重です。その貴重なチューブを他の子どもたちにも分けて、パチンコを作っていました。でも、アメリカでは、何か貴重なものを手に入れたら独り占めにします。それに、アメリカではだれもタイヤチューブで遊ぶ方法を知りません。」

「ニューギニアからアメリカに引っ越して、最も慣れなかったことは、自由がないということでした。ニューギニアの子どもは夫自由です。アメリカでは、私は木登りを禁止されましたが、ニューギニアにいたときにはいつも木に登っていましたし、今でも木登りは大好きです。私たち兄弟がカリフォルニアの今の自宅に引っ越した時、最初にしたのは木登りと、その木にツリーハウスを作ることでした。他の家からは、変わっていると思われました。アメリカでは、訴訟を避けるために規則や規制がたくさんあるので、子どもが冒険をする機会がありません。プールにはフェンスがめぐらされていて、“誘発的危険物”ではありません。ニューギニア人のほとんどはプールなんで持っていませんが、よくいく川にだって、“飛び込みは自己責任で”なんて看板はありませんでした。当然です。自分で結果を引き受けられないなら、どうして飛び込んだりするのでしょうか?アメリカでは、責任がその個人から引き離されて、土地所有者やビルの建設業者に移転されています。アメリカ人の大半は、自分を責めるのではなく、できるだけ他人を責めたいと考えているんです。ニューギニアでは、危険は付き物と考えて、創造的に遊んだり、外や自然のなかで自由に探検をしたりして育ちました。どれほどしっかりと管理されていようとも、リスクはあるのです。こうした遊び方は、リスクを避けようとする平均的なアメリカ人の子どもにはないでしょう。私は、ひじょうに恵まれた教育を受けましたが、アメリカ人にとっては想像を絶するものでしょう。」

「アメリカでのフラストレーションは、働かなくてはいけないというプレッシャーがいつもあることです。午後、ゆったり座ってコーヒーを楽しもうものなら、お金を稼ぐ機会を無駄にしている罪悪感を覚えずにはいられません。ですが、もしコーヒーを楽しむ代わりにお金を稼ぐような人だったとしても、余分に稼いだお金を貯めておくわけではありません。稼いだ以上に贅沢な暮らしをしてしまうので、もっと働き続けるはめになります。アメリカ人は、仕事と遊び、あるいは仕事と休養のバランスをとる能力をほとんど失っています。ニューギニアでは、店は日中に閉まり、夕方近くにまた再開します。これはアメリカ的価値観の対極です。」

これらの感想は、もう少し続きますが、私は、非常にこの内容に興味を持ちます。まさに、子どものおかれている環境の問題点や課題を的確に言い当てているからです。したがって、もう少し続きます。

現代社会” への6件のコメント

  1. ジャレド氏の気づき、「うっ?、これってもしかすると・・・」となります。引用文の「アメリカ人」を「日本人」「日本」に置き換えてみたら・・・「日本人の子どもはニューギニア人の子どもに比べて、創造性がありません。すべてができあいだからです。」「日本人の子どもは出来合いの飛行機を買ってくるだけで、細部にこだわったフライトごっこなんてやりません」「日本ではだれもタイヤチューブで遊ぶ方法を知りません。」「ニューギニアから日本に引っ越して、最も慣れなかったことは、自由がないということでした。」「日本では、訴訟を避けるために規則や規制がたくさんあるので、子どもが冒険をする機会がありません。」「日本では、責任がその個人から引き離されて、土地所有者やビルの建設業者に移転されています。日本人の大半は、自分を責めるのではなく、できるだけ他人を責めたいと考えているんです。」「日本でのフラストレーションは、働かなくてはいけないというプレッシャーがいつもあることです。」・・・ここまで日本及び日本人はひどくない、と断言したいところですが・・・。ニート人口が過去最高を記録したそうです。ニューギニア他世界のほとんどの地域で「ニート」になったら生きていけません。「〇〇制」や「1人ひとり」、「特定の〇〇」、「管理教育」「脱ゆとり教育」「勝ち組負け組」「安定志向」・・・世界のほとんどの国で生きていけないシステムばかりです。日本は鎖国でもしなければなりません。

  2. 「自分で結果を引き受けられないなら、どうして飛び込んだりするのでしょうか?」という言葉が印象に残りました。一呼吸おいてよく考えてみると、もっともな意見だと判断できると思いますが、周囲の環境によって“自己責任”を感じずに成長を遂げてしまうと、感情を向ける矛先が、自分ではなく他者に向いてしまうものなのですね。ドイツの冒険広場(学童を対象とした自作型大型遊具施設)では、ゴミ拾いや職員の手伝いといったお仕事をして、パーク内専用通貨をもらい、その通貨で木材を買い、ログハウスを修繕していく遊びをしていました。基礎工事と支柱設置は大人の手によって行われますが、その他の作業は子どもたちが“自己責任”のもと作り上げていくのです。その場では、他者からの“〇〇しなくてはいけない”といったプレッシャーではなく、自分の中で“〇〇する覚悟はあるか”といったプレッシャーとの折り合いを図っているように感じました。

  3. 私が勝手に描いていたアメリカの印象とは少し違っていて、驚きました。子ども達の関係性も希薄で、創造力が乏しく、遊びとなる自然な環境はなく、大人たちもストレスを抱えているのですね。何かの本で吉本隆明さんが、「他国の問題でも、自分の身近な問題と置き換えてみるといい」というようなことを言っておられたのを思い出しました。まさに私たちの周りでもこのアメリカの社会と似ている所がたくさんあるように思います。私が子どもの頃は土地柄も関係あるかもしれませんが、創造的であり、冒険的で自由な活動をしようと思えばすることができました。しかし、それと同じくらい創造的でなく、冒険できない、不自由さもありました。その頃の大人たちの様子はよく分かりませんが、今の大人はバランスのいいゆるやかな生活をしているとは思えません。誰かと競う、誰かよりも秀でることで維持されている社会は生きにくいですね。

  4. 一見自己責任が徹底していると思われるアメリカですが、責任は個人から離れて管理者等のもとに移ってしまっているんですね。そうしていくことで人間の力は落ちてしまうんでしょうね。経済的に発展していくことによってこのような状況が生まれていくんだとしたら、もうこれは豊かになることのコストだと言ってもいいのかもしれません。「働かなくてはいけないプレシャー」や「仕事と遊び、あるいは仕事と休養のバランスをとる能力をほとんど失っている」ことなんかは特に個人的に考えさせられます。気づかないうちにこのような状態になっていることを考えると、他の環境を見ることで自分を振り返る機会を持つことがどれだけ大事なことかわかります。それを理由に毎年ドイツへ…といかないものか考えましたが、残念ながらちょっと無理があるようです。

  5. 今の日本の教育をとてもいいとは断言できませんが、ドイツと比べることで、長所もあるのかもしれません。日本だけで見るのでなく、視野を広げて自分を見つめ直すことはとても大切ですね。
    ニューギニアとアメリカを比べてみると、とても興味が湧きます。それと同時にやはり自分たちの見直しにもつながると思いました。日本もどちらからと言うとアメリカのように、出来合いのおもちゃを買って遊ぶと思います。決して自分で作ろうとは思わないと思いますが、それこそ環境を用意することで、子ども達は飛行機を作り始めると思います。創造力という力を身につけるには、子どもが自分で作り上げることができる環境が必要で、自然と身につくようなことではないのですね。

  6. 非常に興味深いです。程度の差こそあれ、アメリカを日本と置き換えても話が通るように思います。先進国であるがゆえに同じように見えてくる課題なのかもしれませんね。物欲とよく言いますが、自分でものを想像して作るということは最近ではあまり見かけませんね。また、その「作る」といっても最近の子どもたちは作り方のあるおもちゃで遊ぶのは上手ですが、いちから制作していくということは苦手な子が私の周りに多いです。そういった環境がまず、少ないんでしょうね。以前、ドイツに一緒に行かせてもらった時の感想が子どもたちを信じるということの徹底でした。そのときは自分自身それをやっているつもりでも、実際、違う国の保育を見たときにその違いははっきり見え、自分の未熟さ、子どもの可能性を過小評価していたことを改めて感じました。また、そこで言われていたことが以前ブログでもあった「自己責任」です。今回のブログでも「 自分を責めるのではなく、できるだけ他人を責めたいと考えているんです。」という一説がありました。また、リスクを避けるということは今の日本でも言えることです。決して、子どもを信じていないわけではないですが、大事にするがあまり、その可能性をつぶしてします環境を作っていることはとてももったいないことのように思います。

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