学校でない教育

 バナナを切り分けて遊ぶのは、皆で分け合うことを学ぶ遊びに対して、最近のアメリカ社会のおもちゃについてジャレド氏は、次のように考察しています。「数の面でも、材料の面でも、求められる機能の面でも、伝統的社会のおもちゃと同じではない。アメリカでは、おもちゃ会社が激しい売り込み攻勢を展開し、知育玩具を売りまくっている。知育玩具とは、創造的な形の遊びを供するおもちゃの、いわば別名である。そして、アメリカの親たちは、子どもの発達の促進にとって重要であるのは、おもちゃ会社が生産し、店頭販売されているおもちゃであると吹き込まれ、信じ込んでいるのである。」

 これに対して、伝統的社会におけるおもちゃは、それとよべるものはほとんどないそうです。子どもがいくつかおもちゃを手に出来るようなところでも、それは、子どもが自分で作ったものか、親が作ってくれたものなのだそうです。そのために、彼らは、創造性が豊かだそうです。

 現代の国家社会には、正規(学校)教育というものがあります。学校の授業中も、放課後も課外授業においても、あらかじめ学校評議会の用意した教材に基づき、専門の指導者が子どもにいろいろな教育を施し、教育と遊びはまったく別個のものとされているとジャレド氏は指摘します。この指摘は、欧米における教育についての指摘ですが、日本でも全く似たようなところがあります。ところが、小規模社会においては、教育と遊びは分離されていません。子どもたちは、親や他の大人のお供をする中で学びます。たき火を囲み、大人や年長の子どもが語る話を聞きながら学びます。
このような教育の仕方を、インド南部のナヤカ族の教育について、ハイファ大学の人類学者メーリット氏は報告しています。「ナヤカ族の子どもたちが、ひとりで小さな獲物の狩りをしたり、他の家に一人でいって、そこでお泊りしたりするのは、現代社会の子どもたちが学校教育を受け始める6歳くらいになった時である。そのとき、親は何も指示しない。しかし、他の大人が何も言わないわけではない。さらに、子どもに対する教育は、さりげない形で行われる。教育的指導のようなものがかしこまった形であるわけでもなく、何かを暗記させるわけでもない。授業もなければ、試験もない。文化的な場所“学校”もない。知識は、状況に応じて咀嚼され、人から人へ伝えられる。そこは、知識を社会生活から切り離すことはできない世界なのである。」

 「教育」という漢字でエデュケーションをあてはめてから、日本では本来の教育になかなか近づけなくなってしまいました。特に「教」という語源である「棒をもって子どもに知識を叩きこむ」という意味から、どうしても抜け出せないでいます。しかし、それは、必ずしも感じのせいでもないかもしれません。西洋でも、最近まで、教育とは鞭でしつけることということが思われていました。いわゆる体罰によって子どもを仕込むというイメージです。この状況が、このブログを始めたときの課題でした。

 鞭を使って教育をするという西洋国家社会に比べて、伝統的社会では、遊びの中から、大人のやることを見て、真似して学ぶという本来の教育を行っていることがわかりました。それは、私は、日本ではその文化を江戸時代までは継承してきたということを再認識する必要があるということともに、乳幼児期においての教育を考えるうえでとても大切なことです。

学校でない教育” への6件のコメント

  1. ナヤカ族教育の、「さりげない形で行われる」という感じがいいですね。相手に一方的に教えられるというより、相手の行動や思考から好奇心を得て、自らそれら実践してみようとする能力を“引き出す”感じがうかがえます。また、「知識は、状況に応じて咀嚼される」というのも印象に残りました。一見、知識は知識として伝承されるだけであると思っていましたが、知識を状況に応じて使いこなすといった、柔軟性を高めていく流れができている事は素晴らしいことですね。伝統的社会における「遊びの中から、大人のやることを見て、真似して学ぶという本来の教育」は、“遊びと教育が分離されていない”ことを強く感じさせてくれますね。

  2. 知識や教育の意味や価値が違うような気がしています。難しい漢字を知っていたり、歴史上の出来事の年号を覚えていたりという知識に価値を置いている私たちの教育と伝統的社会の教育では大切にしているものが全く違いますね。「知識を社会生活から切り離すことができない世界」とあります。本当の意味での知識は社会生活の中にあるのに、今はそれを排除しているように思います。というより、価値あるものが受験のために必要なものとされていてはどうしようもないのかもしれません。と、受験のための勉強もできなかった人間が偉そうには言えませんね。それに教え方も大切なんですね。黄石公が馬にのって靴を落とした時に張良が閃いたという話を聞いたことがあります。この話を聞いた時に、教える側と教わる側の絶妙なタイミングやお互いの姿勢の深さを感じさせられました。日本も昔はそのようにして師と弟子の関係があったのかもしれないなと思いました。

  3. 生活といっていいのか分かりませんが、子どもたちと広島カープの試合結果を追い続けています。今日までが1位のチームとの対戦で、4位のチームと5位のチームの対戦結果によって3位の広島カープの位置はどのように変化するか、毎日そんなことをあーでもないこーでもないと言いながら楽しんでいます。単純に勝つか負けるかという話ではなく、誰が投げるか、誰が調子が良くて誰が調子が悪いか、相手は勝ちにきているかどうか、様々な要因によって確率も変わってくるので、単純に計算をして先を予想することはむずかしいんですよね。ちょっと特殊な例だとは思いますが、こうしたことを話したり考えたりする機会を用意することも大事なんだなあと、だんだん理解が深まってきている子どもを見ていて感じています。これが教育だというつもりなんて全くありませんが、こうしたことからも学ぶことはあると思っています。

  4. わからないことを知りたいと思って息子が私のところに来て質問します。その答えをあたかもスポンジが水を吸収するが如く、吸収していきます。学校の宿題や通信教育の教材に対しては基本リラクタント。私は親としてそれでいいと思っています。何にせよ、知りたいとかわかりたいという気持ちが大切です。先日元灘高校の国語の教師で中勘助の「銀の匙」を教材にして多くの灘生を東大京大に送り込んだ渡辺さんが101歳で亡くなりました。彼は「好きなことをやる」ということをずっと主張してきました。私はエデュケーションとは「好きなことをどんどん学ぶこと」だと思っています。わが子には義務教育の小学中学は行かせますが、その先に関しては、子どもが行く必要を自ら感じたらそれを認めようと思います。わが子の学校の先生も「お説教」が好きですね。授業を犠牲にして「お説教」をするそうです。「先生」という存在はどうしても「教え諭し」たいのですね。自分の考える通りにこどもたちを導きたいのですかね。21世紀の今日なお「棒をもって」風の授業が小学校で行われているようです。悲しい現実です。

  5. まず藤森先生の講演やブログを読むまで、学校で学ぶことが全てを思っていました。それが今は全く真逆と言っても過言ではないように思います。もちろん学校で学ぶことも大切ですが、それ以前に社会で生活していく為に学ぶことは、机上の上で学ぶことでなく、実体験から学ぶことが多いです。伝統的社会でも大人のやることを見て、真似て学ぶということが本来の教育ならば、私たち保育者は目の前にいる子どもたちに、どのような環境が必要か、自然と分かってくると思います。

  6. 確かに考えてみると「教育」と「遊び」を切り離しているところは今の社会ありますね。しかし、実際子どもたちの「学び」は「教育の時間」として行われているだけではなく、「遊び」を含めた「生活」の時間そのものが「学び」に繋がっており、それこそが指針などで言われている「生きる力」や「人格形成」というものになるということを改めて感じました。まだまだ、子どもたちに「仕込む」という意識が保育のなかや教育の中でも根強い気がします。そこから「さりげなく学ぶ」ことや「引きだす」ということに変わっていくことが求められると思います。また、そのためには「知識は、状況に応じて咀嚼される」ということがキーワードのように思います。

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