子育ての慣習

 「多くの人が」「昔から」という言葉ほどあてにならないものはありません。その言葉が、本質からそらしてしまうことが多く、いろいろな問題の解決にはならないことが多いのです。その代表的なものに「子育てにおける慣習」があります。子育てという行為は、人類共通のものであり、世界中の人類がその遺伝子を子孫に残すための子育てをしてきました。ジャレド氏は、国家社会では、人類的観点から見れば特異と思えるような、狭い振り幅の子育て慣習のなかで、子育てが実践されていると言います。

私がために講演などで話すことですが、たとえば、現在、保育所が行政から指導を受ける内容の主たるものは、栄養、衛生、安全が多いのですが、世界中の中で、栄養計算をした食事を子どもたちに食べさせている国は、どのくらいあるでしょうか?また、日本においても、時代的にも、いつ、どのくらいの期間行われていることでしょうか?同じように、赤ちゃんのなめるおもちゃを、日々消毒をしている国は日本の他にあるでしょうか?もしかしたら、それは、統一された、進んだ国家社会だからかもしれませんが、そこからどのような結果を生んでいるのかをきちんと検証しているのでしょうか?

ジャレド氏は、国家社会における子育てを、このように説明しています。「日常生活や遊びといったものが主たる学習の機会ではなく、国家が管理する学校教育制度が施行されている。両親だけでなく、警察も子どもの保護にあたる。遊び集団が、通常、年齢の異なる子どもたちによって形成されるのではなく、ほぼ同年齢の子どもたちによって形成される。子どもと両親が、一つの同じベッドで就寝するのではなく、別のベッドで分かれて就寝する。母乳育児の場合は、授乳間隔が赤ん坊本位ではなく母親の都合であることが多い。」

この指摘は、私は幼児教育に携わる人たちにも読んでもらいたい気がします。特に、私は、「日常生活や遊びといったものが主たる学習の機会ではなく、国家が管理する学校教育制度が施行」「遊び集団が、通常、年齢の異なる子どもたちによって形成されるのではなく、ほぼ同年齢の子どもたちによって形成される」というようなことが、これからの新しい概念である「子ども園」に適応されようとしていることに危惧しています。

このような、似たような子育て慣習の比較研究がもたらしたものは何だったのだろうかということをジャレド氏はこう指摘しています。「それは、ジャン・ピアジェ、エリック・H・ジークムント・フロイトのほか、小児科医、児童心理学者などといった専門家による一般性の探究である。これらの専門かは、WEIRDと呼ばれる様態の社会の、つまり、西洋的で(Western)、教育が普及していて(Educated)、産業化されていて(Industrial)、富める(Rich)、民主的な(Democratic)様態の社会の研究成果に重きをおく形で、人間の子どもの一般性を探求している。その際、とくに重きをおいたのは、自分が教鞭を執る大学の学生を対象にした研究や、大学教授の子どもを対象にした研究の成果である。それにもかかわらず、これらの専門家は、不適切にも、そこから得られた結果を世界全体の事象にあてはめ、その説明を試みたのである。」

保育の現場にいると、このような矛盾によく出会うことがあります。その時には、当然目の前にいる子どもを直接見て、それにたいして対応するべきであるのに、専門家の研究にあてはめようとすることが多くあります。専門家の研究から説明しようとすることが多くあります。しかし、必ずしも当てはまらないということを、ジャレド氏は、伝統的社会における子育てから考えようとしているのです。

非西洋社会

日本でいやというほど耳にするのは「少子高齢化社会」です。THE WORLD FACTBOOKというページ、世界の平均年齢が書かれてあります。それを見ると、日本は、45.8歳とあります。しかし、アジアで見たときにバングラディッシュは、23.9歳、ラオス21.6歳、インド27.8歳、一時有名になったブータンで25.7歳です。アジアではないのですが、ぱっと目についたところでは、ニジェールが15歳だそうです。そのデータの最初のところに、「half the people are younger than this age and half are older」と書かれてるように、単純には言えませんが、簡単に言うと、平均年齢とは、その年齢以下の人々が半分もいるということです。

 確かにジャレド氏が言うように、子どもは社会人口の半数近くを占める存在ですから、社会の人口の半数近くに関わる問題を無視しては、社会のありよう理解することはできないのです。また、成人の生活に見られる特徴には、発達段階での影響が内在していると言っていますが、全くその考えに賛成です。物事の結果には、かならずその原因があります。現代社会を語るうえで、また、今の若者を歎くうえで、その人々の乳幼児から考察する必要があるのです。その人たちの発達過程を研修する必要があるのです。現在社会は、数十年前の子育ての結果なのです。

 そうした考えのもと、ジャレド氏は特に非西洋社会の子育てに関する事象に関心を持ちました。それは、今まで、それらの社会の研究対象としての価値に値する関心が学問的に向けられてこなかったからだと言います。それは、それらの地に出かけていくような若い研究者の多くは、年齢が若くて、子育ての経験がなく、子どもと話したり子どもを観察したりする経験が浅いからだと言います。ですから、どうしても研究の中心が、大人の行動観察や、大人からの情報収集になりがちなのです。「人類学にしても、心理学にしても、そしてその他の学術分野にしても、アカデミックイデオロギーに分野独自の偏りがあり、その基盤の範囲から外れるような事象は、たとえ学問的探究に値するような事象であっても、研究テーマとして取り上げられない、ということがある。」

彼の指摘は、最近常々私も感じていることであり、特に子どもについて、保育については、学究者からだけの観点からだけでは解決しない問題が多い気がするのです。また、特に子どもの集団における検討は、西洋における心理学的観点だけでは、解明できないような気がしていたのです。また、そのほかの観点の必要性を、ジャレド氏は指摘しています。

「もちろん子どもの発達に関する研究のなかには、これは異文化的背景の子どもについての幅広い調査である。と主張する研究もある。しかし、それらにしても、世界にいくつも存在する文化的に多様な社会のなかの、ごくごく一部の、ドイツ、アメリカ、日本、そして中国といった国々の社会から子どもたちについてのデータを収集し、その結果を比較研究しているにすぎない。しかも、これらの国々の社会は様々な観点で似ている。これらの国々は、どの国も中央集権化された国家社会である。経済的に分化が進んでいる。社会経済的な不平等が存在していて、すべての人間が公平・同等に扱われていない。そして、これらの国々は、どの国も、人間の幅広い文化的多様性のなかの非典型的な例である。」

この指摘のようなことから、私は、子育てをもう少し原点から見ようということで人類学的に、また、今のような社会の中からでなく、もう少し地方における伝統的社会における子育てを見てみようと民俗学的にみてきたのです。まさに、彼が試みようとしていることと似ている気がしました。

抑圧か放任か

 ジャレド氏は、伝統的な子育てを考えるうえで、彼がニューギニアで出会ったエヌという少年の子育てを例に出しています。みなさんは、どちらの子育てを肯定しますか?

 エヌは、大人が子どもの人格を全く認めず、頭ごなしに押さえつけるような、極端に抑圧的な子育てが行われている集落で育ちます。そこは親が子どもの気持ちを押さえつけるような育て方をするため、親の言葉にしたがわなければならないという義務感と、従わない罪悪感で心がいっぱいという空気が子どもたちのあいだに漂う社会でした。5歳になったエヌはその生活にうんざりし、みずから集落を離れ、親兄弟や親戚一同とわかれて暮らす決心をします。

そして、自分を快く迎えてくれる親類たちが暮らす別の部族の集落にいき、その人たちと一緒に暮らし始めます。しかし、エヌを養子として迎えてくれた社会は、彼の出目の社会とは正反対の、放任主義の子育ての社会でした。そこは、幼い子どもといえども自分の行動に責任を持つべきであるという考えのもと、子どもたちにほとんどなんでも好き勝手にさせていました。たとえばその集落は火のそばで赤ん坊が遊んでいても、大人が世話を焼くことはありませんでした。その結果、子ども時代の出来事の証に、体のどこかに痛々しい火傷の跡がある人が大勢いるのです。

この二つの社会の子育てのやり方は両極端で、どちらがいいとは言えません。そして、私たちの周りの社会では、親が威圧的に子どもを抑圧することもなく、また、子どもを危険にさらしていいほど放任でもありません。しかし、世界各地の狩猟採集社会では、放任主義の子育てはそれほど珍しくないのです。狩猟採集社会のなかには、幼い子どもも自立した一人の人間とみなす社会があるのです。子どもがしたがることをむやみに妨害すべきではないと考える社会が多いのです。そのため、子どもが、先のとがったナイフで遊んでいようが、煮えたぎる鍋や火のそばで遊んでいようが、それが危険だからといって、子どもに遊びをやめさせるようなことはしないのです。

この本には、ブメ族の赤ん坊が鋭い歯の大型ナイフで遊んでいる写真が掲載されています。その写真の説明には、「多くの伝統的社会の子どもたちは、現代の親たちが絶対に認めないであろう危険な行動でさえ、自分たちの意志で行動することを認められている。」とあります。私も以前、北大の川田氏の講演を聞いた時に、大きな斧を持っている赤ん坊の写真を見せてもらいました。そして、講演では、「園では、何歳ぐらいから包丁を子どもに使わせますか?火を使わせますか?」と会場の保育者たちに問いかけていました。そして、「刃物も、火も、赤ちゃんから使わせる部族があるのです。」とうことで写真を見た気がします。しかし、その時には、そんな部族もあるのだということしか思わず、それが特にどんな意味を持ち、そこから何を学ぶべきかまで考えませんでした。

ジャレド氏は、この本の中で、それには学術的な理由があると言います。子どもは社会人口の半分近くを占める存在であり、社会の人口の半数近くにかかわる問題を無視するような社会学者は、社会のありようを理解する研究者とはいえないからであると言います。また、成人の生活に見られる特徴には、発達段階での影響が内在しているために、子どもが大人にっ成長していく過程でどのように社会化し、大人としての行動をとるかが検証できなければ、社会における紛争解決や婚姻などのかかわる問題も理解できないと指摘します。

社会5

 人は、様々なところから情報を得ることができます。しかし、最近思うことは、その情報の片寄りと、その読み取り方です。以前、ブログでも書きましたが、私は、新聞を二紙購読していますが、大きなニュースがない場合は、1面から取り上げる記事が違っています。1紙だけ読んでいると、そのニュースがその日の重要な項目なのだと思ってしまいますが、そうではなくて、新聞社の意図によって取り上げる内容が違います。また、その解釈も新聞によって違うことが多いです。同じ数字でも、解説によってその意味が違ってくることがあります。ですから、ある面からだけの情報ですと、偏ることがあります。

 何かを研究する時にも、それについての情報を集めますが、それぞれの情報には、それぞれメリットとデメリットがあります。また、たがいに重なるところもあります。それは、人間社会について考察するために得る情報も同様なことが言えるようです。最もわかりやすいのは、社会科学や生物学の専門家が、伝統的社会の人々を訪問したり、共に生活したりしながら、特定の問題に焦点を当てて研究する方法です。しかし、このおもな弱点は、そういった科学者たちが伝統的社会に受け入れてもらえるのはその社会がすでに「平定」され、外来の疾病のために人口も減少し、国家政府に征服されて支配を受けるようになり、以前の環境で0の状態から、かなり影響を受けた状態になってからだという点にあるとジャレド氏は言います。

 第2の方法は、現代の伝統的社会で最近になって生起した変化を取り除き、その下に隠されているものを探るアプローチです。文字を持たぬ社会の現存者に口承の歴史を語ってもらい、それをもとに過去数世代続いてきた社会のありようを再構築する方法です。第3の方法は、探検家、交易商人、政府の警邏隊、宣教師兼言語学者など、一般に社会科学者より先に伝統的社会の人々と接触した人たちの記録を利用するアプローチです。しかし、彼らの記録は、体系的でも定量的でもなく、科学的な厳密さに欠けますが、後になって科学者が訪問して研究する場合よりも本来の姿に近い伝統的社会を記録していると言います。

もう一つの方法は、はるか昔の文字もない時代に存在し、識字能力のある観察者が接触しなかった社会に関する唯一の情報源は、考古学者的発掘です。この方法は、現代世界が接触して変化をもたらす前の、遠い昔に存在した文化を再構築できるというメリットがあると言います。その代り、人の名前や行動の動機などに関する詳細は失われ、考古学的堆積物に保存されていた物理的な出土品からその社会に関する結論を導き出さなければならないために不確実さが増し、さらなる努力も必要となると指摘しています。

ジャレド・ダイアモンド氏は、その著作「昨日までの世界―文明の源流と人類の未来」というなかで、過去1万1000年にわたって世界中の民族がどのように人間文化を築いていったかというテーマについて、いくつかの視点から伝統的社会を理解しようとしています。

 第1部では「空間を分割し、舞台を設定する」ということで、伝統的社会が空間的領域をどのように分割するかを説明しています。第2部では紛争解決を扱っています。第3部では、人間の一生の始まりと終わり、つまり子どもと高齢者について検討しています。第4部では、危険と、それに対する人々の反応について論じています。最後の第5部では、人の一生で中心的な位置を占め、なおかつ現代では急速に変化しているテーマ、宗教、言語の多様性、健康について取り上げています。

それぞれのパートは、どれも興味がありますが、とりあえず、第3部第5章「子育て」のところを読み進めてみようと思っています。

社会4

 私は、保育を考えるうえで、様々なアプローチから検証することにしています。そのアプローチは、時として難しく、直接保育に結びつくかはわからないときがありますが、それを試みよとするのは、純粋に興味が湧いてくるからで、自分の中では何となく考えていることと結びつく部分があり、納得してしまうことも多くあります。研究者たちも、社会間の相違を理解しようと、様々なアプローチを使っています。しかし、それらのアプローチは、一部の社会間で見られる一部の違いを理解する際には役に立つのですが、その他の現象にまで用いるのは適切とは言えないとジャレド氏は語っています。

 今まで考察してきたのは、進化論的アプローチと呼ばれているものです。このアプローチから社会の形態を見たときには、人口規模や人口密度が異なる社会では差を描き出すことができるほか、人口規模や人口密度が似た社会同士でも共通する様々な特徴を描き出すことができます。そして、社会の拡大や縮小に伴って現れる変化を推論し、ときに直接観察することができると言われています。そして、この進化論的アプローチに関連するものとして、適応主義的アプローチというべき手法があるようです。それは、社会の特徴の一部には適応性があり、その社会特有の物質的条件や物理的・社会的環境、人口規模や人口密度のもとにおかれた時に、その社会がより効率よく機能できるような変化するという考え方だそうです。この適応主義的アプローチでは、社会にはそれぞれ独自の歴史があり、おのおのがユニークな存在だと考えます。そして文化的信条や習慣は、環境条件に左右されない、かなり独立した変数だとみなします。

 社会間の違いを理解するためのアプローチには、もう一つあるそうです。それは、ある地域で広く普及している文化的信条や習慣の中から、局地的な条件とは明らかに関係ないにもかかわらず、歴史的にその地域で広まったものを見極める方法だそうです。このアプローチの例としてジャレド氏は次のようなことを挙げています。ヨーロッパではほぼどこでも一神教と非声調言語が普及しているのに対し、中国や隣接する東南アジア地域では多神教と声調言語が多いということです。私は、声調言語のことはよくわかりませんが、確かになぜ、日本を含めて中国や東南アジアの環境では一神教が本質的になじまなかったという点は疑問に感じます。

宗教や言語、その他の信条や習慣は、次にあげる二つのいずれかの方法で広まったと思われています。ひとつは、人々が自らの文化をたずさえて各地に進出する方法です。南北アメリカやオーストラリアに移住したヨーロッパ人が、ヨーロッパ言語やヨーロッパ風社会を現地で構築したことがいい例だと言います。もう一つは、人々が他の文化の信条や習慣を取り入れる方法です。たとえば、現代の日本人は西洋風の衣服を取り入れ、現代のアメリカ人は寿司を食べる習慣を取り入れたが、これは西洋の移住者が日本を乗っ取ったわけでも、日本の移住者がアメリカを乗っ取ったわけでもないのだとジャレド氏は言います。このことから、最初に書いたニューギニアの進化が少しわかります。その進化は、環境に適応していったわけでもなく、また、その地を他国が占領し、その国の文化に強引に変えさせたわけでもないのです。しかし、その変わってきた文化を考察してみても、伝統的文化に関する知識を獲得することはできません。そこで、ジャレド氏は、四つのカテゴリーに分類した情報源から得ることを試みています。

社会3

ジャレド氏が整理した社会の形態で、「首長制社会」における経済的イノベーションは、「再分配」であるとしています。それは、「個人が直接、物々交換をする分配ではなく、首長が食料と労働という貢物を集め、その多くを首長に仕える兵士、聖職者、職人に再分配するのである。つまり再分配は、各種の新しい機関や制度を支える課税システムの初期形態といえる。また、貢がれた食料の一部は庶民にも還元される。そのため、庶民は記念碑や灌漑設備などの建造において首長のために働き、首長は飢饉の際に庶民を支える道義的責任がある。首長社会では、小規模血縁集団や部族社会では現れなかった政治的・経済的イノベーションに加え、制度化された不平等という社会的イノベーションのさきがけも現れた。」

このような整理の仕方は、とても面白いものを感じます。それは、リーダーシップ論にもつながり、チームのあり方の参考にもなります。そして、つづいて出現した社会は、紀元前3400年頃以降に、征服や高圧的な合併を経て登場した「国家社会」であるとしています。その結果、人口が増大し、ときに多様な民族を内奥するようになったほか、官僚の分野ごと、階層ごとの専門化が進み、常設の軍隊が整備され、経済活動の専門化や都市化やその他の変化がさらに進み、現代の世界全体に普及している社会が誕生したのだと言います。

人口規模の拡大、政治の組織化、食糧生産の集約化は、小規模血縁集団から国家にいたるまで連続的に変化していきますが、その変化は、個人における発達と同じように、どこででも起きるわけでも、非可塑的でも、直線的でもありません。それにしても、なぜ人々は世界各地で多様な社会を築いて暮らしていたのだろうかという疑問をジャレド氏は投げかけています。コロンブスが初めて大西洋を横断した1492年当時、ユーラシア人をはじめとして一部の人々はすでに国家政府のもとで生活し、文字も金属器も持ち、集約農業を行い、常設の軍隊をっ整備していたのです。その一方で、盆名のあかしともいえるこれらの特徴を持たない人も多く、オーストラリアのアボリジニや、アフリカのクン族やピグミー族は、紀元前9000年まで世界中の席巻していた生活様式を依然として守っていたのです。この驚くほどの地理的な違いを、どう説明してきたかを紹介しています。

かつて広く信じられてきた説明は、人間の知性や生物的な差異、そして労働倫理が先天的に異なるために、地域によって到達点が異なるというものだったようです。現在でもそう信じている人は多いようですが、この考え方に従えば、ヨーロッパ人の方が知性があり、人間として進化していて、勤勉であり、現在も小規模血縁集団や部族社会で暮らす人々は知性が劣り、原始的で、活力にかけるということになってしまうとジャレド氏は言います。ところが、両者はっ生物学的に異なるという説を支持する証拠はありません。この説を無理やり支持するには循環論法を展開し、「小規模血縁集団や部族社会で生活する人は、いまだに原始的な技術や政治組織、生業を継続しているから、生物学的に原始的なのだと推定される。」というしかないと言います。

現代の世界に多様な社会が共存しているのは、環境による違いがあるためであるとジャレド氏は言います。政治の中央集権化が進み、社会成層が増えたのは、人口が稠蜜になったためであり、それを推進したのは農耕と牧畜による食糧生産の増加と集約化であるというのです。そして、たまたま栽培化や家畜化ができる動植物が多くその地域に住んでいたために、その地域の人間社会が食糧生産や余剰食糧、人口増大、技術革新、国家政府の樹立を推し進めるに当たり、圧倒的に有利だっただけだというのです。

社会2

 部族社会は、小規模血縁集団より人口が多いため、狭い地域でより多くの人間を養うためにはさらに多くの食物が必要になります。そのために、部族社会ではふつう農耕民または牧畜民、もしくはその両方を兼ね備えていることが多いのですが、とくに生物生産性が高い環境では狩猟採集民も多少はいるようです。ジャレド氏は、このような例として、日本のアイヌ民族や、北アメリカの太平洋北西部沿岸の先住民などを挙げています。

 彼らは、定住する傾向があり、畑や牧草地や漁場の近くにつくった村でほぼ1年中生活します。しかし、中央アジアの牧畜民やその他の部族民の中には、季節移動する集団もあります。夏にかけて草の生育を追って高地に移動し、季節ごとに標高が異なる土地に家畜を移動させるのです。

 その他の点では、小規模血縁集団によく似ていて、彼らは比較的、平等主義であり、経済活動の専門化が進んではいず、政治的指導者の存在が希薄であり、官僚がいず、一堂に会して意思決定するのです。

 この次の段階として、数千人の人口を抱える、複雑に組織された「首長制社会」へと移行すると言います。その社会では、人口が増えるうえに経済活動が専門化しはじめることから、食糧生産にたずさわらない首長とその親族や、官僚などの専門職を養えるよう、食糧の生産性をあげて余剰作物を生み出し、それを貯蔵する能力が欠かせなくなってきます。そのため、首長制社会では貯蔵施設を備え、人が定住できる村や集落をつくり、その大半で農耕や牧畜により食糧を生産していました。

 人口数千人の社会では、成員全員と顔見知りになったり、全員が一堂に会して議論をしたりすることは不可能です。その結果、首長制社会は、小規模血縁集団や部族社会にはなかった二つの新たな問題に直面します。ひとつは、首長制社会内の見知らぬ他人同士が互いに顔を合わせたとき、相手は個人的には知らないけれど同じ首長制社会内で暮らす同胞だと認識でき、なおかつ占有地を侵したかどうかで緊張が高まって争いに発展することがないようにしなければならない点であると言います。そのために首長制社会では、共通のイデオロギーと、首長の神権的地位から派生した共通の政治的・宗教的アイデンティティを保持することが多くなります。

 このあたりの社会の考え方は、それぞれの家族から、保育園、幼稚園という社会、保育団体という社会のあり方について考えるところがあります。それに照らし合わせて、首長制社会のふたつの問題を見てみると面白いです。ジャレド氏は、ふたつめとして、首長制社会には首長という誰もが認める指導者がいて、その首長が意思決定をし、みなが認める権威を有し、必要であれば社会の成員に武力を行使する独占的権利を持つ点であるとしています。首長はこれにより、同じ首長制社会に住む見知らぬ者同士で争いが起きないようにしているというのです。首長を補佐するのは様々な業務を遂行する専門化していない官僚の原型ともいえる役人で、貢物を集めたかと思えば、争いを仲裁し、その他の管理業務もこなしていきます。国家のように、徴収官や裁判官や飲食店の衛生管理検査官が個別に存在するわけではありません。

 このような社会は、多くの一般書では、単に「部族」と記されていることが多いために、混乱することがありますが、首長が存在する伝統的社会のことで、首長制社会のことのようです。それを踏まえて、もう少し、これらの社会の特徴をジャレド氏は述べています。

社会1

 人々は、集団を形成して生活をします。そして、その集団は次第に大きくなり、国家になっていきます。それは、あたかも人間が年齢によって発達していくのに似ています。しかし、ジャレド氏は4歳児が3歳児に戻ることは絶対にないのに対して、社会形態は逆行することがあると言います。たとえば、干ばつが続けば、農村の住民が小集団に分かれて狩猟採集を行うことがあるというのです。そうはいっても社会形態体を考察するうえで、いくつかのカテゴリーに分ける必要があるということで、ジャレド氏は、50年くらい前、エルマン・サービスが定義した四つのカテゴリーに分けています。

 人々の集団は、人口規模の拡大、政治の中央集権化、社会成層の進度によって分類できます。それはすなわち、「小規模血縁集団」「部族社会」「首長制社会」「国家」です。サービスが「小規模血縁集団」という用語を定義した最も小規模で単純な社会は、数十人だけで構成され、ほとんどの成員はひとつあるいは複数の拡大家族に属します。例えば、成人した夫婦とその子どもたち、夫婦の両親や兄弟やいとこの一部などとしています。移動型の狩猟採集民の大半と畑を持つ農耕民の一部は、伝統的にこのような人口が疎密な小集団のなかで暮らしてきました。このような小集団血縁集団は人口が少ないため、成員の誰もが互いをよく知り、一堂に会しての議論で集団の合意ができ、政治的指導者は存在せず、経済活動の専門家もみられません。このような集団について、社会科学者は、比較的平等主義で民主的な集団であると述べているそうです。成員の「富」や政治的権力にはほとんど差がなく、たまに、もし個人の能力や性格によって差が生じることがあれば、小規模血縁集団の成員全体に資源を広く分配して差を調整することもあるといいます。

 考古学的証拠から判断すると、少なくとも数万年前までは人類はみなこのような小規模血縁集団で生活し、さらに大半は1万1000年前という最近まで、以前として小規模血縁集団で暮らしていたと思われています。それは、コロンブスがアメリカ大陸を発見したと言われた時代、ヨーロッパ人が世界に進出し、非国家社会で暮らす非ヨーロッパ人と出会ったころ、オーストラリアの全土、もしくは大部分、北極圏、それに南北アメリカとアフリカ大陸のサハラ以南など生物的生産性(環境の生産性)が低い砂漠や森林地帯は、いぜんとして小規模血縁集団で占められていたと言います。たしかに、世界のなかで先住民と言われている人々は、それほど大きくない社会の中で、民主的、平和的に生きていたのかもしれません。それを、発見したヨーロッパの人々は彼らを野蛮と決めつけ、私たちが子どもの頃に習った歴史でも、若干そういったニュアンスのことを教わった気がします。そこで、土人とかインディアンとかエスキモーなどという差別用語で表現していたのでしょう。しかし、私たちは、ここから多くのことを学ぶことができるのです。

 この小規模血縁集団が次に移行する社会は、サービスが「部族社会」と定義した社会で、より規模が大きく、形態もより複雑な、数百人の局地的な集団で構成される社会のことです。しかし、部族社会も依然として成員はだれもが顔見知りで、見知らぬ他人はいない程度に集団規模が限定されます。そして、そのような規模の集団では、数十の家族がいて、それがときに氏族という血縁集団に分かれます。氏族間では交換婚が行われていたかもしれないと言います。そのほかに、どんな特徴があるのでしょうか。

国家

何回かブログで紹介しましたが、笠木透さんという日本を見通した歌詞を作る人がいます。彼の作品に、「少年よ」という歌があります。その歌の歌いだしの歌詞が「この小さな星を見てごらん この水色の星を見てごらん 国境線などどこにもないだろう 海と大地とが広がっているだけ」確かに、もし宇宙から地球を眺めたら、この歌詞のような世界が見えるでしょう。また、ホモ・サピエンスが、世界中に拡散していった時には、国境線などはなかったでしょう。しかし、いわゆる国、国家ができることによって、その境目ができてきたのでしょう。

ジャレド氏は、伝統的社会を考察するうえで、まず、国家という考え方を示しています。「紀元前9000年ごろにようやくはじまった食糧生産以前には国家は存在し得ず、その後、食糧生産が数千年にわたってつづけられて国家政府を必要とするほど稠蜜で膨大な人口が形成されるまで、国家は存在しなかった。初めて国家が成立したのは紀元前3400年前後の肥沃三日月地帯で、それにつづいて中国、メキシコ、アンデス、マダガスカルで国家が成立し、つづく1000年のあいだにその他の地域にも広がり、ついに今日では地球全体が描かれた地図を広げると、南極大陸以外の土地はすべて国家に分割させるという状況にまでなった。南極大陸でさえ7か国が領有権を主張している。」

彼が説明しているように、どの国家も、狩猟採集から、農耕や牧畜といった食糧生産によって市民の食糧を賄い始めることにより、国家を支える多くの人口を養うことができるようになったのです。多くの人口内では、国民の大半は見ず知らずの他人同士ということになり、国民全員と知り合うことは難しくなります。ですから、日々避けられない他人同士の遭遇がきまって争いに発展することがないように、国家には警察や法律、そして道徳規範が必要なのだとジャレド氏は言います。警察や法律や、身も知らぬ他人にも親切にふるまうよう定めた道徳規範は、誰もが互いを知っている小さな社会では必要とされることがないのです。

ジャレド氏は、本書において、このような国家社会と、伝統的で単純な政治体制の下で暮らす伝統的社会の違いを浮き彫りにすることがテーマであると言っています。しかし、人間社会とはどれもユニークで、一般化することが困難な場合があります。彼は、同じユニークでも特殊であるということでこんな例を出しています。「人間はみなユニークな存在ではあるが、それでも年齢による傾向を大まかに捉えることができる。たとえば3歳児は平均的に、相互に関連する様々な側面24歳の大人とは異なる。とはいえ人間の年齢にはだんだんと歳を取っていくという連続性があり、突然どこかでとぎれるものではないので、“3歳児のような”存在から“6歳児のような”存在に一気に移行することはない。しかも、同年齢の人間の間にも違いがある。このような複雑な状況を“乳児期”“幼児期”“児童期”“青年期”“初期成年期”などの単純なカテゴリーに分類することの不完全さを認めつつ、それでもこのように分類すれば便利であると、発達心理学者たちは考えた。」

このように社会科学者も、単純化した分類の不完全さを認識しつつ、やはりカテゴリーに分けることの意義を認めてはいるようですが、その単純ではないようです。伝統的社会を語るうえで、国家に至る過程をどのようなカテゴリーで分けたのでしょうか?

変化

 世界には、いろいろな種族といわれる人々が生活しています。彼らは、長く受け継がれた文化を持っています。そして、独自の生活をしています。それは、国内のおいても、各地に残る文化や風習があります。それは、伝統社会と呼ばれるものかもしれません。私の子どもの頃は、世界の珍しい種族の風習を取り上げたテレビ番組がありました。それは、自分の周りしか知らない子どもたちにとって、全く未知の世界でもあり、驚きの風習でした。例えば、その中には、全く何も身につけず、素裸で生活している人々も紹介されました。もちろん、私たちが決して口にすることのない物を食べたり、子どもたちが成人になるために試練であったり、テレビは、その姿をそのまま伝えてくれました。

 「昨日までの世界」を書いたジャレド・ダイアモンド氏は、1931年に初めてニューギニア高地人を「発見」した最初のオーストラリア人が撮影した彼らの写真を見ます。そこに写っていたのは、腰蓑を申し訳程度に身につけ、編み袋を肩にぶらさげ、頭には鳥の羽でつくった飾りをつけているニューギニア高地人でした。当時のニューギニア高地には、以前として石器を使用する村人が100万人も暮らしていたのです。彼らは、何千年ものあいだ外界に関して限られた知識しか持たず、比較的孤立した生活を送っていました。

 そのニューギニアに2006年、ジャレド氏は訪れるのです。すると、彼らは、シャツ、ズボン、スカート、短パン、それに野球帽といった、世界標準ともいえる服装をしていました。彼らは、1、2世代のうちに、読み書きやコンピューターの使い方を覚え、飛行機まで運航できるようになったのです。ここには、彼らが西洋の衣服をまとっていること以上に大きな違いがあるのです。1931年当時のニューギニア高地人社会には、大量生産された衣服がなかったばかりでなく、空港を見渡してみると当たり前かのようにある、時計や電話、クレジットカード、コンピューター、エスカレーター、航空機など、現代のありとあらゆる技術が全く存在しなかったのです。ということは、文字も、金属も、貨幣も、学校も、中央政府もなかったのです。

 もし、最近の歴史を学んでその後の展開を知らなければ、文字を持たなかった社会がほんとうにわずか1世代で読み書きを習得できるのだろうかと、疑問に思ったに違いないとジャレド氏は言います。人類史を眺めてみたときに、人類は長い年月を経て進化していきます。人類が文字を獲得するまでにどのくらいの年数がかかったことでしょう。

ここで、ジャレド氏は、現代世界では当たり前のことと思われていることで、当時との大きな違いに気がつきます。それは、ニューギニアの空港で気がついたのですが、そこで働いている人々、利用する人々がほとんどそれまで会ったこともない他人同士だというのに、その場で何の争いも起きていないことです。1931年当時では、そのような状況は想像もできなかったと言います。見知らぬ他人に出会う機会は稀であり、ひとたび会えばそれは危険を意味し、いつ暴力沙汰に発展してもおかしくなかったのです。しかも、当時ニューギニアには、警察も政府も存在していなかったのです。現代では、国内のどこだろうが、許可を求めず飛行機その他の交通手段で移動する権利があります。そのような移動の自由を当たり前の権利として受け止めていますが、当時は、それは稀なことだったのです。当時の移動距離も、わずか10マイル(約16キロ)と行かないうちに見ず知らずの不審者として殺されるのが普通で、その先に勧めることなど想像もできなかったと言います。

このように、人類が数千年かけてたどった変化の過程を、ニューギニア高地人たちが直近の75年で経てしまったということはどういうことなのでしょうか?