どこから5

 考古学は、あたらしい遺跡が発見されるにつれて、事実が解明されていくというよりも、謎がますます深まっていくということも多いようです。そこが面白いのかもしれませんが、港川人の骨があちこちで見つかるにつれ、いろいろなことがわかっていたのですが、今の段階では、港川人が、4万年前までに日本列島にやってきた旧石器時代人の子孫であり、のちに縄文人になったのか、4万年前までにやってきた人々の子孫ではあっても縄文人になったのか、それとは別にやってきた系統の違う人々なのかは、謎のままのようです。

 しかし、港川人と縄文人との関係はとりあえず置いておいて。溝口氏は、では、縄文人はいつ、どこからやってきたのかを考察しています。「まず、いつ来たかについては、縄文時代は約1万6000年前に始まったわけですから、縄文人はそれ以前に日本列島にやってきた旧石器時代人の子孫が主体をなしていた、ということはほぼ間違いはないでしょう。」

 しかし、そうはいっても、一度で列をなしてわたってきたはずはありませんし、その頃は道も海路もないわけですから、ある方向からだけ、あるルートを通ってきたはずはありません。何度かにわたって別々の地域からやってきたのではないかという説もあります。それは、当時の縄文人の形質が地域や時期によってやや違いがあるからです。その違いも、やがて縄文時代の後半になるとその形質はかなり均一化され、“縄文人らしさ”とされる特徴がはっきりしてきます。それは、中期以降になると、かなりの数の化石人骨が出土し、縄文人の特徴をつかむことができるようになったからです。では、どんな特徴だったのでしょうか。

 溝口氏はこう説明しています。「縄文人は、身長が低く小柄で、縄文中、後、晩期人男性の平均は約158センチ、女性は149センチと推定されています。早、前期の縄文人は、後、晩期の縄文人よりも華奢だったという報告もありますが、早、前期の人骨標本が少ないため、その全体像はまだはっきりしていません。」また、頭と顔の特徴はどうだったかというと、「頭が大きかったようです。頭は前後の長さも左右の幅も大きく、顔は幅広で上下の長さが短く、四角い印象です。眼窩上隆起というほどではありませんが、眉のあたりが発達し、鼻の付け根が窪んだ、彫りの深い顔立ちをしていました。歯は小さく、切歯はいわゆる「シャベル型切歯」(裏側が深く窪む切歯)ではない、特徴があります。ただし、歯のすり減り方は激しく、おそらく皮を歯でなめすというような作業を行っていたのではないかと考えられています。」

 この特徴を読んで、あれっ?と思ってしまいます。それは、私たちが思っている日本人の特徴を随分とかけ離れているからです。私たちは、日本人は「引目鉤鼻」の風貌や、胴長短足(正確に言うと短脚)の体形であると思っています。しかし、このことは、数年前にやはり国立科学博物館に「縄文人と弥生人」という企画展を見に行った時に、展示されていたことです。その時に、縄文人に稲作が伝わって弥生人になったというのは間違いであるということがわかったのです。これは、私たちが社会の歴史で学んできたこととは異なるものでした。たしかに、稲作が始まって、彫りの深い顔がのっぺりとなったり、二重瞼が一重瞼に変わるはずはありませんね。

 では、縄文人の故郷はどこなのでしょうか?誰に似ているのでしょうか?ということを溝口氏は考えています。