出産2

 出産について私がよく講演で話すのですが、人類は直立で立つことによって大きな脳を獲得することができた半面、産道が狭く、楕円形になったために出産に人の手を借りなくてはならなくなったということから、人類は一人では生きていくことができない宿命を背負ったと思っています。しかし、妊婦がひとりで、誰も立ち会いもなく出産を行い、それが文化的に最高の理想的な出産とされている社会があるといます。アフリカ南部のクン族ですが、彼らのあいだでは、産気づいたら妊婦が数百ヤード離れた場所に一人で行って、そこでひとりで出産するのが理想的な出産とされている社会だそうです。

 一人で生きていくことが求められる社会では、「人間というものは、強くあるべきものであり、自力で困難に立ち向かうべきものである」という信念を持つようになるのは当然かもしれません。しかし、その戦略をとったネアンデルタール人は滅びてしまっているのです。ですから、一人で出産するのが理想的と言われているクン族の人たちでも、現実には、特に初産の場合には、部族の女性が付き添い、介助するそうです。また、産屋は、いくら離れといってもそれほど離れて出産するわけではないので、赤ん坊の産声が聞こえてきたら、誰かが母親のもとに駆けつけ、へその緒の切断を手伝ったり、赤ん坊の体をふいてやったり、赤ん坊を連れて帰るといった手助けはするそうです。

 また、ブラジルのビダハン族でも介添えなしの出産が多くみられたそうですが、それゆえに、出産で苦しんでいる若い女性を助けもせずに、ひとりで死なせたことがあることを学んでいっているそうです。しかし、介添えを得ての出産の方が伝統的社会においてはるかに一般的だそうです。出産や月経が「不浄」とされている社会でも、女性は出産時に森の中の出産小屋にいって、そこで年長の女性たちと暮らし、出産します。また、フィリピンのアグタ族のように、出産は公のイベントであり、自宅出産する際、集落中の住民が女性の家に集まり、母親や助産師に向かって、みんなで声をかけて指示するような社会も多いようです。

 やはり、人類にとって、出産は遺伝子を残す大切なことですので、できるだけリスクを少なくするような風習として、皆が手伝うというようなものが結果的に伝わっていったのでしょう。しかし、大人になって、一人で生きていくために、強く、鍛えることが子どものためであるという考え方は、どの時代でも持つような気がします。辛くても、我慢する、人を蹴落としてでも勝ち残る、危険を恐れず突き進む、このような精神論がどの時代でも表れます。しかし、それは、その時代においてのみ適応することができるかもしれませんが、人類の長い歴史を見たときに、それ以上に社会を構成する能力、社会とかかわる能力、社会の一員であるという意識の方が、大人になってからの生きる力になるのだということは明白なのです。

それが、私が長くブログで取り上げたEQ力であり、SQ力なのですが、教育基本法の目的が人格形成と、平和で民主的な社会を築く資質を備えることであるのであれば、早く、教育の方法を見直してほしいものです。特に、その基礎を培う大切な時期である乳幼児期においては、なおさらです。

出産2” への6件のコメント

  1. 私は母から生まれ出てくるとき、母にとっては、いわゆる難産で、そのためにお産婆さんだけではどうしようもなくなり、近所の町医者にも来てもらって、やっとこさ生まれたそうです。しかも仮死状態で・・・。私の息子は帝王切開で生まれてきました。息子の場合は、手術を執刀した医者と看護師さんたちに囲まれて生まれてきました。今回のブログで紹介された、ひとりで出産小屋で子どもを産む部族の話は衝撃的ですが、まぁあり得ることだとは思います。我が国でも何らかの事情でひとり出産しなければならない女性もいるような気がします。しかし、やはり出産にはいろいろな人の助けがあって成し遂げられることのほうがいいですね。そしてそこに居合わせた様々な人々に祝福されてこの世に出てくる。このほうがずっといいですね。「フィリピンのアグタ族」のように皆が見守る中赤ちゃんが生まれてくる、このほうが幸せを感じます。そして生まれてきた子どもはその時点で「社会の一員」です。

  2. 「辛くても我慢する」という言葉はよく聞きます。社会とはそういうものだという言われ方も多いような気がします。不愉快な人間関係に耐えることで得るものがあるのでしょうか。精神にダメージを受けながら、耐えるよりもその関係を遠ざけることの方が大切であるようにも思います。それは逃げるということではないようにな気がします。「人を蹴落としてでも勝ち残る」というのもよく聞きます。資本主義社会であるが故の人生観であるのかもしれませんね。そして、その資本主義にも限界がきているようにも感じます。常に成長、常に利益をあげるという姿勢、私にはとてもついていけそうにありません。誰か優れた人がいつも先頭に立って、というよりもみんなで助け合いながら補い合いながら過ごせる社会集団はやはり居心地がいいでしょうね。その方が良い意味で人の気持ちのようなものが循環しているように思えます。循環はきっといい流れを生むのでしょうね。

  3. ここに書かれているように出産は多くの人の支えの中で行われる行為であるべきです。ということは社会にとって子どもが生まれることは大事なことであるはずなので、もっと社会全体で温かく受け入れることが出来ればなあと思うことがあります。まあそれは置いといて、1人でも生き抜いていけるような強さを求めることはいつの時代も定番なんですね。生存戦略としても間違っているようですし、それが出来るのはほんの一握りのエリート?のはずです。でも1人で生き抜いていく力をつけて、それによって1人で生きることになったとしたら、それは求めていたことなんでしょうか?やはりみんなで協力し合って生きていく、そのための力を乳幼児期からつけていくことが大切ですね。

  4. 藤森先生の「人類の長い歴史を見たときに…」といった思考は、そういった見方もあるのかぁと、いつも新境地を開拓させてもらっています。私たちは、なぜ近時代にしか目が向かないのでしょうか。歴史を学んでも、どこか自分には関係がないことだと思ってしまっているのでしょう。恥ずかしいですが、少なくとも私はそう思っていました。よく考えてみると、時代は節目はあるものの、途切れなく続いており、“時代の連続性”が存在します。一人の子どもの発達のように、時代も発達し続けていると考えるならば、乳児の環境が大事なように、はるか昔の社会環境をないがしろにできないのは、当然のことなのかもしれません。出産においては、義務的でない介添えをしてもらえる社会というのは、限度にもよりますが“頼る力”を兼ね備えていると思います。生きる力に大切な「社会を構成する能力、社会とかかわる能力、社会の一員であるという意識」の3つは、社会の中に常に自分がいるということを思い出させてくれます。

  5.  出産は基本的に人の手助けを得て終えるものだと思っていましたが、現在に一人で出産をする民族がいるとは驚きました。最後は解除するとは言っても、母親には不安でしょうが、それが当たり前の環境だと、それが普通になってしまうのですね。しかしブログにも書かれてあるように、出産は人の手を借りなくてはいけなくなったことから、一人では生きていくことができない宿命を背負ったと書いてあるように、出産をはじめ、生きていくためには人の手がやはり必要です。もちろん子育てもそうです。子どもに強くなってもらいたい、これはどの親も子どもに対して思うことだと思います。そのためには子ども自信が強くなることも確かに必要ですが、やはり藤森先生が言われるようにEQやSQといった社会の中で生きていく力です。それを培う基礎である乳幼児期は見直す必要があります。

  6. 人間の社会の中でも一人で出産をする民族もあることに驚きました。しかし、その反面で、女性が出産により死亡するケースも多くあるということはやはり人間にとって一人で分娩することはそれほど危険を伴うものなんですね。一人で強くなることを求めたネアンデルタール人はその後滅び、逆に弱くなることで生き残った我々の祖先はまさに「一人では生きれない宿命を背負った」という言葉が当てはまりますね。だからこそ、人においての社会性はとても重要になってくるのは当然重視されるべきなのだと思います。社会では「おひとり様」や「個人主義」とヒトの本来の力とは大きくかけ離れている社会になっています。今後の子どもたちの生き方、育ち方を語るうえで大人の考え方や価値観は大きく変えていかなければいけなくなると思います。とりわけ、乳幼児期を預かる保育園や幼稚園はもっと考えていけなければいけない事柄ですね。

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