江戸時代の出生率

最近、問題になっているのは、人口減少というよりも少子化です。江戸時代での出生率はどうだったのでしょうか?縄目さんは、江戸時代の出生率を、各地の「宗門改帳」によって推測しています。この宗門改帳とは、江戸時代に、キリスト教禁圧のため、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものです。 そのための宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっているのです。

例えば、この宗門改帳等により推計される粗出生率(人口1,000 人当たりの出生数)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12年:28.2、1832-36 年:19.1)、(イ)信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、(ウ)尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、(エ)美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、(オ) 和泉国塔原村(1792-1851 年31.48)、(カ)備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、(キ)肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっています。

この数字によって縄目さんは、「東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて多産という江戸時代のイメージより出生率が低いという印象を受ける。 」と書いています。それに比べて、明治33 (1900) 年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912) 年は35.1、昭和元(1926) 年は34.6、「団塊」の出生期であった昭和22 (1947)年は34.3 であり、私たちが今の少子化について比較する数字は、この時代のものであり、江戸時代は明治∼昭和前期より出生率が低かったようです。

確かに、江戸時代の資料にはいろいろな問題がありますし、いろいろな事情がありますが、それを加味しても確かに江戸期の出生率は、明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難いようです。しかも、当時の乳幼児死亡率の高さ、 医療、衛生、食料等を考慮すれば、なるべく多い子どもを産む必要があったでしょうが、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えるのではないかと縄目氏は考えています。

この少子化の傾向は、幕府や各藩の政策ではありませんので、悩みであったようです。それは、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自作農や小作より高く、 出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かったために、耕作減少に結びつくからです。そのために、各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行いました。少子化による、年金を支える若者の減少に対して、様々な手を尽くそうとしている今の政府にとても似ています。江戸後期は意外と出生率の低く、「少子化対策」に苦慮する社会であったと縄目氏は説明しています。

一方、現代の政策も東京を中心とした都会に対する取り組みが多くなりますが、江戸時代でも、当然江戸の町に対しての政策が多くなったでしょう。では、江戸の人口・家族はどうだったのでしょうか?すでに、江戸時代中期以降の江戸の町の人口は、100 万人を超える大都市でした。しかし、縄目氏は、ここに男女比の異常さに目をつけています。「享保6年の男女比は男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民により人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」と書いています。

その片寄りはどうしてでしょうか?

江戸時代の出生率” への7件のコメント

  1. 私の祖父は12人兄弟でした。それを小学生の頃に聞いた時には自分の周りではなかなか想像もできなようなことだったので、とても驚いたのを覚えています。江戸時代の出生率もそれよりも多いものだと勝手に思っていたので、今日のブログの内容は意外でした。しかし、男女比には驚きました。やはり、少し不自然ですね。ここまで不自然だと人の意図があるように思えてしまいます。この男女比と出生率に何らかの関係があるのでしょうか。この男女比が記録に残る出生率から生じたものなのか、それとも記録には残らない所からのものなのか、そもそも宗門改帳そのものが…ん〜分かりません。

  2. 「宗門改帳」は江戸時代の身分証明書の役割をしていたと同時に、人口管理簿的な役割を果たしていたのでしょう。「宗門」とはブログにあったように、仏教各派のことですが、キリスト教信者ではないことの証しと同時にどの村にどれだけの人間がいるのかを正確に把握できる、今でいうところの住民台帳のようなものでしょうか。江戸幕府はすごいものを開発したものだと感心させれらます。さて、江戸時代から昭和20年代までの1000人あたりの出生数が紹介されていますが、江戸時代のほうが明治大正昭和に比べて出生数が低かったことは逆に明治大正昭和という時代が子どもが生まれ育ちやすいということを表しているような気がします。医療の発達や保健衛生の観念の普及等が出生数を高めたのでしょうね。とは言え、2010年の1000人あたりの出生数は、最高の沖縄県で12人、最低の秋田県に至っては6人。やはり現代という時代は日本の歴史上にかつて存在しなかったのではないかと思われるほどの「少子時代」なのですね。明治大正昭和をモデルとするような教育をやっていたらこの国の将来は危うい、とこの数字を見ただけで思えてきます。

  3. 江戸は、男性が憧れる場所であり、男性を必要とした場所であったということでしょうか。私だけかもしれませんが、「江戸っ子」と聞くと、どうしても男性をイメージしてしまいます。そこには、男女比という背景が関係していたのかもしれません。この片寄りの原因は、まったく検討つきませんが、女性が100に対し、男性が105が平均であるという現代の出生率を考えると、自然におきたことではないように感じます。また、江戸以降に出生率が上昇することがあれば、現代の少子化問題解決の糸口がそこにあるかもしれませんね。

  4. なんとなくイメージで出生率は右肩下がりできているように思ってましたしたが、そんな単純なものではなかったんですね。過去を基準にして何かを語る場合、このようにきちんと調べていくことがもちろん大事なのですが、調べているうちにその事実に興味を持ちすぎてはまってしまうかもしれません。こうやって人口のことを考えていていつも思うのは、今後の人口のことです。今の人口が維持される、もしくは増えることを前提として社会の仕組みを考え制度なども作られているように感じているのですが、どうしてもそのような流れになるとは思えないのです。人口が減ったときに、その人たちでどのような社会をつくるかが課題だと思うので、過去から学ぶことは非常に意味のあることだと思います。もちろん成功例だけでなく失敗例も含めてです。

  5. 地域別の出生率で見ると、出生率が高いという印象だった江戸時代も低いように見えること少し驚いています。この差さはなんでしょうか??もちろん医療や衛生、食料の面から当時の目線で考えると赤ちゃんを産むことに対して、抵抗はあったかと思います。また養育金の支給に関しても、江戸のような都会は十分かもしれませんが、地方はそこまで十分に支給出来なかったり、様々な要因があったと思います。その変の政策が現在の子ども手当と似ていることに更に驚きました。当時も子育てしやすい環境を作るために考えることは同じなんですね。ただ男女比の数字で男性が女性の2倍の数字のときは何が原因だったのか、とても気になります・・・。

  6. いつの時代も出生率が問題になることはあったんですね。江戸時代にはいろんな調査や情報があったなかでこういったことも、そのなかで文献としてのこっており、そのときの政策に反映されていたということはそれだけ国において、当然のことなのですが、人口ということが重要視されていたということがとても分かります。現在でもこういった出生率が調査され、発表されています。今ではその男女差がどれくらいあるのかはわかりませんが、江戸時代の男女比が2:1というのは、考えて見ると異常なように思います。確かに江戸の街はその当時の社会の中枢で各武家屋敷がひしめいているイメージがありますが、それにしても驚きですね。その中での出生率の改善に向けた動きがどういうものであったのか、過去の事例から学ぶことはとても多いですね。

  7. 江戸時代もまた出生率の問題を抱えていたのだと思うと親近感が湧いてきます。子どものことについて一生懸命に考える大人の人に感動するのですが、ちょんまげ姿の大人の人たちが集まって出生率について考えている姿を想像すると、胸の熱くなる思いがします。いつの時代も子は宝であるべきですし、現代こそ、その教えに則っていくべきなのかもわかりません。

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