救う道

 戦争は、多くの孤児を生みました。また、普段でも親が亡くなるケースも少なくなかったようです。その時には、親戚などに引き取られて成長することは多くみられました。しかし、そのような手段だけでなく、他にも孤児たちが生きていく世界はあったようです。その一つの例を、宮本氏は書いています。

 「瀬戸内海西部では、一本釣りの昼漁がひろくおこなわれているが、そういうところでは、釣り船の櫓を押すために、子供が乗り組む場合が多い。これを梶子といっている。漁場へでて、船が潮や風に流されない程度にまた船の向きをかえたりする程度に、櫓を押すのであれば子供の力で十分間にあう。そこで子供がやとわれてゆくのだが、それは多くは、貧しい家の子や、親のない子たちであった。その家の者が一人として生活し成長し、そのままそこへおちついて独立して猟師になるものもあれば、また他の職に転ずる者もあるが、そうして成長してゆく子供は、少なくなかった。」この地方に、ずいぶんと多くの戦災孤児が梶子として引き取られていったようです。

 このような制度は、「ただ梶子が必要だから貧乏人の子を雇うというだけでなく、その底には、共同体における相互扶助的な意味も大きくふくまれていた。」と宮本氏は推測します。それは証明するかのような風習が山口県大島の久賀に残っています。「ここでは、古くからの漁浦として、そこの漁民たちは、江戸時代の初めのころから、朝鮮海峡方面へ出稼ぎにいっていたのであるが、そうした船にはかならずメシモライといって、6~7歳の孤児を一人ずつのせていた。6~7歳であるから、櫓ひとつ押せず、手足まといになるだけだが、早くから船に乗せて、漁業技術を身につけさせ、また親はなくとも生きていけるようにしていた。」このような例は、他の地域にもみられるようです。

 鹿児島や高知の海岸地方のカツオ漁の盛んなところで、漁船へ沖へつりに出ていた時代には、船の中に大きな樽をすえ、その樽の中にイワシやカナゴをいかしておいて、カツオを釣るとき、海として釣り人に配ったものだが、その餌を配るのが少年の役であり、それには、たいてい孤児がやとわれていったそうです。それは、子供なりに、生活のたつように、村人は気を付けていたのです。

 しかし、このように子供が大切に扱われただけでなく、悲惨な境遇であった子どもたちも少なくなかったようです。特に東日本では、子どもたちが家畜同然に売られていく話も多いようです。それは、当然貧しさゆえですので、鎌田三之助翁は、このようなさまを見るに見かねて、郷土を開発することによって、そういう弊害をなくしてしまおうと考え、80年の生涯をかけて、品井沼干拓の大事業を完成させたといいます。それでも、このような子どもを売る話は、昭和の初めまで続いていたようです。

 ただ、貧しさのあまり、子どもを売って金を稼ぐということではなかったようです。人手が不足したり、くらしがらくだったりするところへ頼んだのです。たいていは、食うに困った者や、後家になった女が、その子を連れて山中の村をおとずれ、暮らしにゆとりのある家をたずねて、たのんでゆくのです。家では、家族の一員として待遇したことは、古い戸籍に養男、養女と記されていることでもわかると宮本氏は言います。ただ、自治の子と違うところは、「成長して妻をもらい分家するとき、土地を分けてやらないため小作人になる。しかし、よく稼いで、たいていは一人前の百姓になっている。」

 このように、過去の日本にも、貧しいものの救われる道はあったと宮本氏は書いています。

救う道” への7件のコメント

  1. このような日本のセーフティーネットは、その時代の人と人との繋がりを感じさせます。また、相互扶助的だったというので、どちらか一方的に強い負担がかかることもなく、上手く生活できていたのかもしれませんね。また、余裕のある人が子ども達を受け入れていったというのも上手くやっていける理由でもありますね。その中でも子ども達はやはりどこか他人という意識や雰囲気を感じとったり、持っていたのかもしれません。そのように生きていく強さというのは私には想像することしかできませんか、いろいろな苦労もあったのだろうと思います。その中でも人と人がつながり、誰もが安定して生活できる仕組みがあったというのは制度どうこうではない、温かさをのようなものを感じます。

  2. そのような孤児を救う道は、どうしてできたのでしょう。子どもが一人増えるだけでも大変な時代に、孤児を引き取るということは、相当の覚悟が必要であったと思います。「放っておけない優しさ」「大人の責任」といった、一種の人情がその制度を支えていたのでしょうか。そして、子どもにも仕事を与えることで、両者の関係を成り立たせていたのでしょうね。地域や社会で子育てを行うという意味の、究極な部分である気がします。「親はなくとも生きていけるようにしていた」という言葉から、「協力する」といった生存戦略の一つを感じさせてくれます。

  3. 共同体の相互扶助の意味合いが含まれていたという状況と比べ、今はどうなんだろうと考えさせられます。当然特殊な事情もあったわけですし、同じ状況でないのは当然とは思いますが、生きることにシンプルに向き合っていたんだろうと想像しています。その地域にある資源をみんなで活用し、なんとかみんなでやりくりしていた状況は以前に比べると減ってきていると思いますが、それでも再びその方向に動き始めているような気はしています。内向きと評されるかもしれませんが、共同体の力を高めていくことは結果として子どもに向ける目も高まっていくのではないでしょうか。社会で子どもたちを守っていく形は、日本人には向いているあり方なんだろうと思っています。

  4. 「梶子」や「メシモライ」といった制度がもたらす相互扶助的な意味はとてもすごいものではないか考えさせられました。

    みんなで助け合うそんな意識のほかにも、まだ何もできない子に、教えるということにより、教える側もまた知識を深めたり、モラルの面でも育っていく。
    教えられる側も、その思いに答えるため、がんばり、また次の世代へとつなげていく。

    古き時代の風習を知ること、それは自分の行動を見直すよいきっかけになると感じました。

  5. テレビの影響もあるかと思いますが、戦争孤児の子どもは色々な場所へ引き取られている話しを聞くと、少し可哀想に思ってしまいます。と言うのも引き取り先の家で大人に雑に扱われたりなど、どうも良い印象がありませんが、しっかりと背景を知ると、むしろ孤児の子どもたちを救うための仕組みだったのですね。そして一人立ちができるまで、面倒を見る。決して子どもを見放すのでなく、子どもを守るための行為だったのですね。今は養護施設などがあるので、親がいない子どもも安心して生活ができています。形はどうであれ、子どもを守るという気持ちは今も昔も同じですね。

  6. 常々こういった話を聞いているとそういったコミュニティやコミュニケーションの場や相互扶助できる関係や人との繋がりが昔からあったということに驚きます。今よりももっと子どもたちの存在や問題が切迫したもののように感じますし、それだけに周りの社会もどうにか子どもたちを守ろうとする姿をとても感じます。こういった子どもたちが生き抜く術をしっかりと身につけることにより、戦後の社会が今の社会につながっていると思うと、子どもたちの生きる力は今よりももっと強かったのだと思います。社会が子どもたちの生活を見て、それを改善するために積極的に動く姿勢は私にはとても見習うべき部分がとても多いです。

  7. 民俗学者の宮本常一さんの報告を読んでいると、以前のコメントにも書いたと思いますが、今どきは、ブログで紹介されていた子どもたちは、みんな行政及び社会福祉団体やその施設に引き取られ、育ち行くのだろうな、ということを思わざるを得ませんでした。戦災孤児や貧困家庭の子たちを当時は地域社会で面倒を見ていた、ということに痛く感心させられるのです。「梶子」や「メシモライ」という形で漁に従事することは、その時だけの救済に留まらず、将来、その漁で生計が立てられるように、あるいは培った経験を他の職でも応用できるように、といった様々な配慮を感じることができます。当時と比較して、児童福祉施設が多い今日、孤児や貧しい家庭の子を地域社会の代わりに「施設」等が面倒を見ることになっています。おかげで、施設や行政のつながりがあっても、地域社会とのつながりが希薄化してしまっているのが今日なのでしょう。子どもが社会の一員として捉えられた場合、まずは地域社会とのつながりが大事になってくると思うのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です