どこから4

 いろいろな研究から、現在わかっていることは、アフリカで生まれたホモ・サピエンスは、数万年の時をかけ、姿形を変えながら、4万年前ころまでには、日本列島にたどり着いたと考えられています。それは、沖縄で発見された山下町の第1洞穴で発見された4万~3万6000年前頃の骨です。この見つかった骨は、様々な議論がありましたが、ほとんどの計測項目で縄文人と大きな違いがないので、少なくともホモ・サピエンスであるとして矛盾はない、と考えられているそうです。

 では、私が感動した湊川人は溝口氏の著作の中ではどうなのでしょう。湊川1号は、額が狭く、頬骨が横に張り出し、鼻の根元が深く窪んで、幅広の彫りの深い顔立ちをしています。これが推定されるのは、例えば、山下町で発掘された骨は大腿骨の上3分の2と脛骨の上3分の2にあたる部分で、他にも若干見つかっていますが、港川人は、頭蓋を残す男性を含み、化石はほぼ完全なものから断片的なものまでを含めると最低5個体、最高9個体が発掘されているのです。ただ、顔の特徴は、現代の私たちでさえ、鼻の高い人、低い人、彫りの深い人、浅い人など様々ですので、1個体だけでは果たして湊川人がみんなそうだとは言い切れません。しかし、これらの特徴は縄文人と共通していることは確かなようです。身長は1体の男性が149センチ程度、女性3体の平均が152センチ程度だそうですが、これも、この人たちが低かったのか、高かったのかを比較するものがないので、はっきりとは言えないそうです。

 また、頭蓋の計測値も最近の研究では、中国北部の周口店上洞から発見された化石人骨「上洞人」や中国南部の柳江から出土した化石人骨「楊江人」よりも、縄文人やインドネシアのジャワ島のワジャクから出土した「ワジャク人」にもっと似ていることがわかっています。

 では、港川人は東南アジアからやってきたかというと、話はそう簡単ではないようです。というのは、縄文人は前腕や脛、すなわち腕や脚の体から遠い部分が、近い部分である上腕や大腿に比べて相対的に長いのに対して港川人は短いなど、大きく異なる点がいくつかあることも指摘されていますし、彼らがのちに貝塚人(本土の縄文から平安時代に相当する時代の沖縄の人々)になったか否かは不明であるという見解も示されています。

 科学的解明は、びっくりする結果を引き起こします。頭蓋から顔を復元してどんな顔だったかを推定するのですが、最近は、コンピューターで復元修正を行うことができるようになりました。すると、港川人の顔が、獅子頭のように下顎の大きい、非常にごつい印象だったのが、コンピューターでは、下顎のほっそりした、スマートな印象になったのです。つまり、縄文人に似た幅広の顔が、縄文人とは似ていない顔になったのです。それによって、他の骨も分析してみると、縄文人とは異なる特徴がいくつもあり、その起源は縄文人とは別に探る必要なあるとされました。現代人であれば、東北アジアや東南アジアの人々よりも、オーストラリア先住民であるアボリジニやニューギニアの人々などと近い、という指摘がされているそうです。

 港川人の生活していたあたりを探索した時に、わくわくしたのは、もしかしたら、今ニュージーランドのテファリキというカリキュラムの中で、先住民のマオリの子育て観「子どもに自ら育つ権限を与える」という考え方が、私たちと共通したものを感じたからかもしれません。

どこから3

港川人は、現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いそうです。これは、後で書きますが、非常に重要なことです。国立科学博物館の海部陽介研究主幹は「港川人は本土の縄文人とは異なる集団だったようだ。港川人は5万~1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高い」と語っています。

一方、那覇港に近い奥武山の南側にある琉球石灰岩台地で山下町第一洞穴遺跡が、1962(昭和37)年に発見されました。この遺跡から出土した化石人骨が山下洞人とよばれるもので、約4万から3万2000年前の、8歳ぐらいの女児と測定されました。現在、日本ではそれよりも古い時代のものは発見されていません。私たちの祖先であるホモ・サピエンスは、遅くとも4万年前ころまでにはボルネオに、3万5000年前頃には中国の北京周辺に到達していたと考えられるわけですが、日本列島にはいったいいつ頃やってきたのか、また、それ以前から、日本列島には、原人や旧人はいなかったのでしょうか?中国とは陸続きでしたから、当然わたってきたような気がします。マンモスなどと同じで、もし彼らが住んでいたのであれば、その後彼らは全滅したかもしれませんが、日本列島における原人たちは、どうして滅びてしまったのでしょうか?

いろいろな疑問は湧いてきますが、どうも日本では、化石などの発掘調査は困難なようです。例えば、マンモスなどはそのまま氷漬けであれば、保存がいいのですが、もちろん日本はそれほど寒くもありませんし、雨が多く、腐りやすい気候です。もう一つ、化石が残らない大きな理由があるようです。それは、日本は酸性の土壌が多く、骨が残りにくいために、古い化石人骨が見つからないのだそうです。溝口氏によると、「中国では何か所からも原人の化石が見つかっているそうです。また、12万年前(7万年前とも言われています)ころから始まったとされる最終氷河期だけでなく、それ以前の氷期にも日本列島は大陸と陸続きになったことがあるようですから、日本に原人や旧人が来なかったとか言いきることもできません。事実、北海道からはマンモスなどの、そして北海道から九州までの全国100か所以上の遺跡からはナウマン象などの、大陸から渡ってきたと考えられる動物の化石が出土しています。」

考古学は、宇宙と同様、わからないことが多いということに魅力を感じる人がいるのも頷けます。想像を膨らますことができるからです。しかし、その想像も、きちんと根拠がある推論でなければなりません。その点、私は、推理小説を読んでいる気になるのです。証拠を積み上げて、犯人を追いつめていく。怪しいときには、結論を急がない。冤罪には気を付けなければならないからです。その点は、考古学では、想定される年号の誤差もけた違いに大きいです。

現在、化石人骨の推定年代は、「炭素14年代法」によって出た数値(BF)を、歴年代に置き換えた「較正年代」で、厳密なものではありません。「炭素14年代法」とは、骨などに含まれる炭素化合物の中にごく微量に存在する、炭素の放射性同位元素である炭素14を利用した年代の算出法だそうです。その量を、過去の宇宙線の強度や地球の磁場の変動など、様々な自然現象を考慮して、推定するのだそうです。私などは、基本的にわけがわかりませんが、同じようにわけがわからないニュートリノのことを調べたときと同様な、とてつもなく大きな数字に、わくわくする魅力を感じるのは、どうしてでしょうか?

どこから2

あらためて、人類は、おなじ先祖から進化してきたのに、どうして国によってこうも違うのだろうかという疑問に対して、ある本を思い出しました。それは、溝口氏著作の「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」です。この本の「はじめに」の最初の文にこう書かれてあります。「鏡を前にして、なぜ自分はヨーロッパ人のような姿形―背が高く、手足が長く、二重瞼のぱっちりした目に高い鼻、―に生まれてこなかったのかと、ため息をついた覚えのある人も多いのではないでしょうか?かつて、映画やテレビに登場する欧米のスターがかっこよく見えたものでした。しかし、“アジアン・ビューティ”などという言葉もある今では、その違い、つまり私たち一人ひとりや、日本人とヨーロッパ人といった集団の間の多様性こそ、生物学的に重要な意味があることがわかっています。」

それは、わかりますが、その多様性のために、なぜ日本人の方がかっこ悪くできているのでそうか?どうして、日本人は、そのような特徴を持つようになったのでしょうか?溝口氏は、それ以上に、こんな疑問を投げかけています。「もしも、私たちホモ・サピエンスが、誕生した時のままの姿であったとすれば、私たちの外見はアフリカ人であるはずです。なぜならば、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したことは、化石的な証拠からもほぼ確実だからです。ところが、私たちの姿形は、アフリカ人とは異なっています。ヨーロッパ人もまた然りです。」

この疑問に対しては、簡単に言えば、「アフリカで長い時間をかけて猿人から進化し、ホモ・サピエンスになった人類は、アフリカから世界各地へただ移住しただけでなく、その土地土地の環境に進化していきました。そして、その結果、必然的にヨーロッパではヨーロッパ人に、アジアではアジア人になったのです。」

このことは、国立科学博物館での展示「グレートジャーニー」では、過酷な環境に住み着いた民族を紹介していました。では、世界に拡散していた人類は、どのルートで日本に渡り、日本人らしさといわれる特徴を兼ね備えていったのでしょうか?

この本の1章では「猿人からホモ・サピエンスまで、700万年の旅」が書かれ、第2章では、「アフリカから南太平洋まで、ホモ・サピエンスの旅」が書かれてあります。この内容は、かつて私がブログで書いたこととダブりますので、省いて、3章から読み進めてみたいと思います。第3章は、「縄文から現代まで、日本人の旅」です。

私は、かつて沖縄に行った時に「港川人」の骨が発掘された場所と、もしかしたらここで境川人が生活したかもしれないという、骨が発掘された場所からすぐ近くの鍾乳洞を訪れたときになぜか感動してしまいました。minatogawajin11967(昭和42)年、沖縄県具志頭村港川の石切場から、シカやイノシシなどの化石とともに、約7体の化石人骨が発掘されました。この人たちを、発掘場所の地名にちなんで「港川人」と名付けられました。その後、年代測定の結果、およそ1万7000年前の人類であることが分かりました。頭や手足のそろった完全な旧石器人骨の発見は、日本はおろかアジアでもはじめてのことで、国際的に紹介されました。

 この港川人は、発見された当初、もしかしたら日本の縄文人の祖先ではないかと考えられました。現在の最新の研究では、どうも、港川人を縄文人の祖先ではないとする考えが主流になっています。しかし、彼らが走り回ったであろう周りの森林の中を歩くと、タイムスリップしたような気分になります。
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日本人はどこから?

 人口問題を江戸時代にさかのぼって考えてみたのは、まず、「いったい子どもたちは、どのような規模の子ども集団で遊んでいたのだろうか?」という疑問からでした。子どもは小さいうちは、特定な人とのかかわりが大切であると指針に書かれてありますが、「かつて、子どもたちは、特定な人に育てられてきたのか?」という疑問、子どもは3歳までは、子ども同士がかかわることはないということに対して、「かつて、日本における3歳未満児は、子ども同士のかかわりを持たなかったのか?」という疑問などが湧いてきたからです。しかし、なかなかその資料や研究論文は少なく、きちんとしたデータがありませんでした。そこで、民俗学的に、人口問題としていろいろと考察してみたのです。

 その前に、考えてみようとしたことは、人類学的考察で、人類がどんな遺伝子を受け繋いできたのかを考えてみることで、私たちが子どもたちにつないでいくべき内容を考えることをしました。それらすべては、日本における保育カリキュラムを考えるためです。ニュージーランドが、もう一度原点に戻り、先住民族であるマオリ族に受け継がれてきた子育て観を基本にして今の時代を織り込んで、織物という意味のテファリキを作った経緯に似ています。

 そこで、まず、もう一度、人類がどこから来たかから、日本人が、どういうルートで、アフリカからわたってきたかを考えることにしました。それは国立科学博物館人類研究部長である溝口優司氏の「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」という本を読み進めてみました。

 先日、ある人から、「世界中にいる人類は、皆同じ中央アフリカに生まれたホモ・サイエンスというヒト族であるのに、どうして、各国によって、違っているのですか?」と聞かれました。私も、子どものころは、ヨーロッパの人たちはクロマニヨン人から進化したので、あんなに鼻が高く、ほりが深いのだ。それに対して日本人は、ジャワ原人とか北京原人から進化したので、鼻が低く、のっぺりしているのだと思っていました。しかし、どの国の人も、同じアフリカから出たとしたら、どうしてこんなに顔や体型が違うのだろうかと不思議に思うのは当然です。

顔、体型がそれぞれの地域によって、こんなにも違うのであれば、性格も、物の考え方も国によって違うのではないかと思います。それが風土であり、文化なのでしょう。ということは、不易と流行があるように、人類共通なものと、国によって違うものがあるはずで、当然そこに住む人を対象とする仕事は、それをきちんと踏まえないといけないのです。特に医学、教育、保育の分野においては、考慮すべき気がしますが、どうも欧米化しすぎているように思います。鎖国が解かれた時のコンプレックスがいまだにあるのでしょうか。しかし、西洋医学に頼りすぎてきたことが少し見直されつつあります。

教育・保育についても、同様なことが言えます。保育カリキュラムも、どうも欧米の心理学を基本として研究されたものを日本では取り入れる園が多いようです。この分野においても、もう少し日本の文化、東洋的な子育て観、保育、教育を見直す時期が来ている気がしています。

今後の少子化

江戸時代から夫婦、家族の変遷を見てくると、今まで思い込んでいたこと、また、「ずっと昔から」ということの不確かさなどが見えてきます。そして、その中から現在問題になっている「少子化」は、どう考えたらいいでしょうか。

 1970 年代半ば以降、 日本は第二の人口転換の時代を迎えます。それは、昭和49(1974)年以降、日本の合計特殊出生率は、人口を維持する水準を下回り続け、低下に歯止めがかかっていません。また、従来結婚・出産期とされてきた20 歳から34 歳の者の未婚率は、昭和50(1975)年の男性49.9%、女性31.7%を底に上昇を続け、平成12 (2000) 年には男性68.2%、女性55.5%にまで達しています。生涯未婚率もかつては男女とも1%台だったのが、2000 年には男性12.57%、女性5.82%に達しています。この傾向は、単なる出生率の低下ではなく、近代以降の「皆婚社会」が終焉を迎えつつある可能性があると縄目氏は指摘します。

 それら最近の傾向を縄目氏はこう整理しています。1つ目は、「結婚するまでは実家を離家しないという傾向」で、二つ目は、「その延長として実家にとどまり続ける未婚者の増加」で、30 代未婚者の7割近くが親と同居しており、このうち少なからぬ部分が生涯未婚にとどまる可能性があるようです。次に、「結婚した者は緩やかな直系家族をつくる」という傾向で、同棲や婚外子の少なさ等、直系家族を出発点とする日本の家族規範は意外なほど強固であり、直系家族は減少しつつも継続しているという指摘です。ある程度の安定した収入を持ち、 新たな直系家族を形成することができる者と、経済的見通しや価値観の変化等から実家にとどまり続け生涯未婚となる者との分化が生じているのではないだろうと縄目氏は考えています。

同じような傾向があった江戸時代では、経済力の弱い小農や小作人は十分な数の子を生むことができず絶家に至る例が多かったし、都市の庶民には生涯未婚者が多かったし、乳幼児の死亡率が極めて高かった時代においてもなお、人口が維持できたのは、 地主や比較的規模の大きい自作農を中心に旺盛な出産力があったからであると分析しています。それに対して、戦後の「二人っ子社会」が到来しますが、それは、同時に「皆婚に近い状態を維持しないと人口が減少に転じる社会」でもあるのですが、1950~1970 年代に特殊な時期が訪れます。それは、都市、農村、階層の違いによらず「皆婚、子ども2人前後」という状況が実現したのです。しかし、これは、特殊であるために、その時代と比較したり、その時代の再来を望んでも無理なことです。

また、現代の傾向として語られる経済的理由から実家にとどまり続ける未婚者の存在や、都市における未婚率の高さは、実はかつての日本でも同様の傾向があったのであり、本当の問題は、子どもが消費財化した現在では、経済力の強い層の多産は期待できないということなのです。そうした中での対策として、今後、日本の家族が一部の欧州先進国のように従来の結婚制度にとらわれない、個人を単位とした社会に変化していくとの予測もあるが、縄目氏は、現時点で見る限り、(修正的)直系家族に代わる新たな家族のスタイルが見えてきたとは言えないといいます。従ってこれ以上の少子化の進行の抑制策としては、当面は現在の結婚・家族のスタイルが続くことを前提として考えるべきで、まず、未婚率の上昇を抑制する必要があるといいます。それには、未婚率上昇の原因となっている男性若年層の不安定な経済的基盤の強化する必要があるといいます。また、既婚者の出生力向上の施策に取り組んでいくために、晩婚化が進行し、既婚者の完結出生児数も低下しつつあることから、育児休業における所得保障の大幅な拡充等大胆な施策が必要となるであろうと指摘しています。

夫婦の年齢

 団塊の世代の特徴は、“友達夫婦”という夫婦関係です。これは、年齢が接近している夫婦が多くなったということです。それは、この世代の人口が、突出して多いため、そしてこの世代は3年間の幅しかないために、男性にとって結婚相手として年下の女性が、非常に少なく、また、女性にとっては、年上の男性が不足しているために、同世代内で結婚せざるをえないという状況なのです。

 では、最近の初婚夫婦の年齢差は、どんな推移をしているのでしょうか。厚労省調べでは、1970年には、夫3歳年上が最も多かったのに対して、2010年には、夫婦同年齢が最も多くなっています。夫が年上の婚姻件数は年齢差にかかわらず全て減少しているのに対して、夫婦同年齢、あるいは妻が年上(姉さん女房)の件数は全て増加しており、全体として、夫が年上で当然といった夫婦関係は大きく崩れてきているようです。また、年齢差別の婚姻件数の構成比の変化を1970年から5年ごとに追ってみると、当初、妻年上は10%、夫婦同一年齢も10%、合わせて20%でしたが、2010年には、妻年上が24%、夫婦同一年齢が20%、合わせて44%と半数近くに達しており、この約40年間に大きな構成比の変化があったことがうかがわれます。

これらの変化の中で、変化が大きかった時期を見てみると、妻年上は1985年までは10~12%だったのが、2005年にかけて一気に20数%と2倍にまで拡大しており、1980年代後半からバブル崩壊、失われた10年を挟んで2000年代の前半までの20年間の変化が大きかったようです。この変化の背景には、何が影響しているのでしょうか。まず、見合いの場合の多くは、男性よりも年下の女性を紹介することが多いのですが、恋愛結婚が多くなると、どうしても知り合うのは、学校の同級生、職場の同期、友人の知り合い同士ということになってきているため、同年齢か、ひとつ違いの夫婦が多くなるのでしょう。しかし、妻が2歳年上という件数も増えているのですが、その理由として考えられるのは、いわゆる「草食男子」が増えてきて、女性の方がリーダーシップをつるような夫婦が増えてきていることがあるようです。

このように女性の方が年上である夫婦は自然であると考えられていますが、社会に様々な影響を及ぼすようです。まず、男女の精神年齢は、同一年齢であれば女性の方が上という社会通念が正しければ、妻年上(姉さん女房)、あるいは夫婦同一年齢が半数近くになったということは、日本人の夫婦関係は、全体として、精神的には女性優位となったと考えることができるといわれています。この他にも、女性の平均寿命の方が長いことを考え合わせると、死別後のひとり暮らし女性高齢者の増加の加速が見込まれるなど、今後も社会に様々な影響が生じてくると考えられています。

しかし、夫婦間の年齢差では、全く逆に、2000年までは縮小していた夫が5歳以上年上の構成比が、それ以降、2009年にかけて、むしろ、拡大しているのです。その理由として、女性が男性配偶者に高い所得を期待するという傾向のあらわれとか、男性が幼くなっているので、かなり年上でないと話が合わないとも考えられています。

夫婦の年齢差から見ても、時代が見えてきます。

核家族

それがいいか悪いかは別として、かつて子どもはその家族にとって労働力でした。しかし、それは、戦前から戦後初期の日本人の多くが農林漁業や自営業に従事していたからです。しかし、戦後、日本では「サラリーマン化」 が進み、子どもの補助労働力としての価値が低下していきました。昭和28 (1953)年の就業者3,913 万人のうち「家族従業者」(1,262 万人)、「自営業主」(991 万人)が全体の57.6%を占め、「雇用者」(1,660 万人)が42.4%だったのに対し、昭和50(1975)年には5,223 万人のうち3,646 万人(69.8%)が雇用者となっています。

このような状態で、「子どもの生産財から消費財への転換」ということが起きたのです。ということで、子どもが多くて助かるということから、子どもが多くてお金がかかるという存在になったのです。これが、子ども2人が平均になっていった一因です。これは、戦後の経済発展の中で、先進国に共通の現象です。他にも、乳児死亡率の低下により多産の必要が少なくなったこともあります。

 少し前のブログで紹介しましたが、江戸時代では、地主や規模の大きい自作農は多産だったのですが、地主等からの分家という形で生じた小規模な自営農や小作農では、出生率は必ずしも高くありませんでした。また、江戸などの都市に移住した者には生涯独身でいるという者が多かったことは前にも書きました。この大都市への人口集中は、戦後にも、起きました。人口5万人以上の市等が総人口に占める割合は、昭和 20(1945) 年で 22.8%であったのに対し、昭和30(1955)年45.3%、昭和40(1965)年57.9%、昭和50(1975)年67.5%と、地方から都市部への移住が急増します。しかし、江戸時代とは違って、戦後の大都市に移住した人たちは、大半が結婚し、「2人っ子」家族を形成したのです。このように、戦後日本の空前の経済成長と第一次人口転換が、「夫婦と子ども2人」という戦後における標準的な家族を生んだのです。現在、私たちは家族というと、このような形態を当然のように思っていますが、実は、歴史的にみれば「皆結婚して、生涯生む子どもは2人」というのはむしろ特殊な時代と言えると縄目氏は指摘します。

 このような大きな流れの中で、団塊世代は非常に特殊なものです。というのは、団塊世代の特徴は、「兄弟数が4人以上」というように子どもの数が一時期非常に多くなります。しかし、そのひとたちの多くは、地方から都市部へ移住した者で、戦後日本の急速な経済成長に伴う都市部への人口集中の最大の担い手だったのです。この都市部に移住した団塊世代が、 比較的近い年齢層同士で結婚し核家族をつくったというのがいわゆる「ニューファミリー」と呼ばれる世代です。

 では、このニューファミリーという形態により、江戸時代からの伝統的な直系家族が消滅したか、戦後日本の核家族の増加が「直系家族制」から「夫婦家族制」への移行によるものであったかというとそうではなかったようです。縄目氏は、こう書いています。「地方には親と同居する“跡取り”夫婦がいたし、それだからこそ他の兄弟は都市部で核家族を形成することができた。 非常に単純化した表現をすれば、団塊世代の4人のうち2人が地方に残留して直系家族を継承し、残る2人が都市部に移住して核家族を形成したのである。」

 また、先行の世代より兄弟数が少ない世代が結婚するようになると、親との近居の増加という形で「修正直系家族」が増加する傾向さえ見られるようになったといいます。それは、団塊より下の世代は兄弟数が少ないため、夫婦何れかの親と近・同居する必要性が高く、特に結婚中期以降その傾向が強まり、直系家族の伝統は修正されつつも続いていくのです。

家族の変容

日本は、今や世界一長寿の国として有名になりました。平成21年簡易生命表によると、男の平均寿命は79.59年、女の平均寿命は86.44年だそうで、これは、平均ですので、ずいぶんと長生きですね。この平均寿命(出生時平均余命)が、江戸時代中・後期では、30 歳代にとどまっていたと推測されています。それが、大正10(1921)年∼14(1925)年の全国の平均寿命は42.06 歳、大正15(1926)年∼昭和5(1930) 年で44.82 歳、昭和10(1935) 年∼11 (1936)年で46.92 歳と着実に伸びています。それでも、ずいぶんと短いですね。それは、死亡率が依然として高いからということもあり、予防接種等医療の進歩があった反面、結核の流行や大正7(1918) 年から9(1920) 年にかけてのスペイン風邪の流行等、都市化・工業化・国際化に伴う新たな疾病が生じたためと考えられています。

こうしてみると、産まれる子どもたちと、死んでいく人とのバランスが、少しずつ変化しているようです。その変化は、戦後一気に子どもの数が増えた団塊の世代を除けば、普通出生率は、1920 (大正9)年の36.2 をピークにゆるやかな減少に転じ、長期低落傾向に入っています。一方、乳児死亡率は、19 世紀末から1920年代前半までほぼ150~170 と江戸時代の農村と大差のない高水準で推移していましたが、1925(大正14)年には150 を下回り、1940(昭和15) 年には90 にまで低下しています。

私は、いわゆる団塊の世代ですが、この世代は、昭和22(1947)年から24(1949)年までの高出生率の世代を言いますが、その後はその反動で、急激な低下、乳児死亡率の著しい減少が起こります。同時期の合計特殊出生率はそれぞれ4.54、4.40、4.32(出生数で268 万人から270 万人)の高水準を示した後、昭和32 (1957)年には人口置換水準をわずかに下回る2.04 にまで急降下します。この原因として、昭和23 (1948)年、優生保護法の制定により人工妊娠中絶が合法化されたことが大きいと縄目氏は言います。それは、昭和24 (1949) 年の人工妊娠中絶数が10万件だったのに対し、昭和28(1953)年には100万件を突破し、以後昭和36 (1961) 年まで年間約104 万∼ 117 万件、対出生比で57.2%∼71.6%という極めて高い水準で人工妊娠中絶が行われたことが数字で表れているからです。

日本では、中絶を宗教的禁忌とする文化的背景がなかったということもあり、昭和32 (1957)年の出生数157 万人に対し、人工妊娠中絶数は112 万件であり、両者を足すと潜在的な出生数は団塊出生時と変わらないそうです。また、人工妊娠中絶の大規模な実施がベビーブームを短期間に終わらせたという点で戦後の日本は異例だそうです。

こうした傾向は、家族というもののあり方も変化させていきます。戦後日本の家族をイメージさせる言葉は夫婦と子どもだけで構成される「核家族」でした。しかし、この核家族は、すでに戦前の大正9(1920) 年において全普通世帯の過半数を占めていました。その理由として、戦前は兄弟数が多く、親との同居を要しない者が多かったこと、合同家族からの脱却は既に江戸時代に生じていたこと、既に戦前において都市部への人口集中が始まっていたこと等によるものと縄目氏は考えています。その後、核家族の割合はゆるやかに増加し、団塊世代が結婚した時期に当たる昭和50(1975) 年にピークを迎えます。

しかし、戦後に生じた家族形態の大きな変化は、核家族の増加ではなく、むしろ一家族当たりの子ども数の減少と子ども数の集束なのです。戦前に出産した世代では4人以上出産する者が多かった一方、子どもを産まない者も現在以上に多く、あるパターンに限られるのではなく、多様性が見られます。それが戦後出産した世代になると、産む子ども数が2~3人、特に2人に集中する傾向が見られるようになります。そして、昭和8(1933)年~12(1937)年では「2人っ子」が過半数を占めるようになり、以後この傾向が続くことになります。

結婚、離婚

江戸時代は、私たちが思っている以上に少子化であり、その対策を幕府や各藩が行っていることにびっくりします。また、当時の都会である江戸では、今の東京に見られる現象と同様なことが起きていました。それは、有配偶率、特に男性の有配偶率の低さです。縄目氏の調べたところによると、幕末江戸各地の男性の有配偶率は、5割程度となっており、農村部の「皆婚」ぶりと比べ極めて低いものとなっているようです。現代の東京と比較しても男性の有配偶率は大差がなかったというのです。最近の少子化の原因として大きく上げられる結婚しない男性ということがありますが、江戸時代において江戸各地では、同じことが起きているのです。住民の職業を見ても日雇稼、棒手振等の不定期就労者が多く、昔も今も江戸(東京)は独身者と非正規雇用が多い街だったと縄目氏は指摘します。

また、最近は、離婚が多いという話もよく聞きますが、明治以降の推移をみると、明治初期・中期の離婚率が現代より高かったことがわかります。明治民法施行(明治31 (1898) 年)以前の日本の離婚率の高さが推測されるのですが、江戸時代の離婚率は、どうだったのでしょう。縄目氏は、陸奥国下守屋村と仁井田村を例にとっています。それによると、平均普通離婚率は4.8 に達しているといいます。これは現代の米国を上回る高水準なのです。また、武家の離婚率も高かったと推測されています。また江戸時代は、配偶者との死別に伴う再婚も多く、夫婦が一生寄り添うという家族のイメージは、離婚率が低下し、平均寿命が延びた明治以降に形成されたものだと縄目氏は、指摘しています。

そういうわけで、江戸期の人口と家族について言えば、1家族4人程度の直系家族、低かった出生率、人口の減少、都市部での高い未婚率、現代より高い離婚率− 江戸期の人口・家族を巡る状況は、ある意味で明治∼昭和前期より「現代的」な側面があったとさえ言えるのではないだろうかと縄目氏は考えています。

では、明治から昭和中期にかけてはどうだったのでしょうか?明治中期から1920 年代にかけての高出生率・高死亡率の「多産多死」の時代がやってきます。そして、1920年代から戦中を挟み1960年代までの「多産多死」から「少産少死」への「第一次人口転換」の時代を迎えます。そして、1970 年代から、人口置換水準を下回る少子化の進行による「第二次人口転換」の時代が始まり現在まで続いてきているのです。

第一次人口転換では、戦後日本において想定されてきた、夫婦が2~3人程度の子どもを生み、また夫婦何れかの親と同居する場合もあるという 「標準的」 家族像が、江戸期に成立した直系家族を出発点としつつ、出来上がっていきます。数字的に見てみると、明治初期の出生率は比較的低かったものの、 明治中期以降高い出生率を維持し、 1920(大正9)年には普通出生率が36.2 とピークに達します。この年の出生数は200 万人を突破し、1873(明治6)年の出生数(約80 万人)の2倍半に達しています。この結果日本の人口は同時期に3,481 万人から5,596 万人へと2,000 万人以上増加しており、正に人口爆発といっていい急増ぶりを示しています。一方、死亡率も高く、普通死亡率は一貫して20 を超えている。 この時代が多産多死であったことがわかります。

この傾向について、縄目氏は、農地の生産性に縛り付けられていた江戸時代から、工業化の時代を迎え、生活水準が向上し、出産を抑制する必要が少なくなったこと、医療・衛生・栄養等の改善等により平均寿命が伸びたこと等を考えています。しかし、私は、出生率と、戦争は大きく関係していると思います。特に日露戦争で一般庶民において多くの犠牲者を出し、そのために多産が奨励化されたということがあるように思います。それは、ある意味で兵隊という労働力を多く必要としたからです。しかし、縄目氏は、戦争の影響については触れていませんが、どうなのでしょうか。

江戸時代の出生率

最近、問題になっているのは、人口減少というよりも少子化です。江戸時代での出生率はどうだったのでしょうか?縄目さんは、江戸時代の出生率を、各地の「宗門改帳」によって推測しています。この宗門改帳とは、江戸時代に、キリスト教禁圧のため、全住民が仏教徒であることを証明するため、世帯毎に各家族や奉公人が所属する宗派・寺院を記したものです。 そのための宗門改は毎年行うことが原則とされ、各世帯の人員構成や続柄、出生、結婚、死亡等が記載されるため、人口学上極めて貴重な資料となっているのです。

例えば、この宗門改帳等により推計される粗出生率(人口1,000 人当たりの出生数)は、陸奥国下油田村(1773-77年:18.4、1808-12年:28.2、1832-36 年:19.1)、(イ)信濃国横内村(1671-1871 年:26.3)、(ウ)尾張国神戸新田(1838-70 年:31.2)、(エ)美濃国西條村(1773-1868 年:31.9)、(オ) 和泉国塔原村(1792-1851 年31.48)、(カ)備前国吹上村(1693-1860 年:26.0)、(キ)肥前国野母村(1766-1871 年:28.8)等となっています。

この数字によって縄目さんは、「東北地方の出生率が低かったこと、中部以西の出生率が比較的高かったことがうかがえるが、総じて多産という江戸時代のイメージより出生率が低いという印象を受ける。 」と書いています。それに比べて、明治33 (1900) 年の全国の普通出生率は32.4、大正元(1912) 年は35.1、昭和元(1926) 年は34.6、「団塊」の出生期であった昭和22 (1947)年は34.3 であり、私たちが今の少子化について比較する数字は、この時代のものであり、江戸時代は明治∼昭和前期より出生率が低かったようです。

確かに、江戸時代の資料にはいろいろな問題がありますし、いろいろな事情がありますが、それを加味しても確かに江戸期の出生率は、明治~昭和前期に比べ高かったとは言い難いようです。しかも、当時の乳幼児死亡率の高さ、 医療、衛生、食料等を考慮すれば、なるべく多い子どもを産む必要があったでしょうが、江戸後期の出生率は必ずしも十分ではなかったと言えるのではないかと縄目氏は考えています。

この少子化の傾向は、幕府や各藩の政策ではありませんので、悩みであったようです。それは、生涯出生数は地主や比較的大規模な自作農の方が、小規模自作農や小作より高く、 出生力の低い小規模自作農や小作は絶家となる例も多かったために、耕作減少に結びつくからです。そのために、各藩、さらに幕府は、間引きの禁止や「赤子養育」のための養育金支給等の施策を行いました。少子化による、年金を支える若者の減少に対して、様々な手を尽くそうとしている今の政府にとても似ています。江戸後期は意外と出生率の低く、「少子化対策」に苦慮する社会であったと縄目氏は説明しています。

一方、現代の政策も東京を中心とした都会に対する取り組みが多くなりますが、江戸時代でも、当然江戸の町に対しての政策が多くなったでしょう。では、江戸の人口・家族はどうだったのでしょうか?すでに、江戸時代中期以降の江戸の町の人口は、100 万人を超える大都市でした。しかし、縄目氏は、ここに男女比の異常さに目をつけています。「享保6年の男女比は男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民により人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」と書いています。

その片寄りはどうしてでしょうか?