子どもと祭り

 先日、遠足の後、職員数人でブラヘイジに行きました。園から歩いて行けるところに「鳩山邸」があり、その庭はバラがきれいなのでそこに行くか、または、その日は浅草の三社祭の中日なのでそこに行くかということで、参加職員に聞いたところ、三社祭がいいということだったので、三社祭に行きました。私が高校生まで住んでいた下町では、夏が近づくと、三社祭、神田明神祭り、鳥越祭りと続きます。それらの祭りの特徴は神輿を担ぐことです。

 私の子どものころ、その鳥越神社のすぐ裏手に住んでいました。「一貫神輿」と言われている本社神輿を町内が担ぎ繋いで、最後、私の住んでいる宮本という町会の法被を着た担ぎ手が「宮入り」といって神社に奉納します。そのころはすでに外は真っ暗で、神輿の周りにつけた灯をともした提灯が、怪しい光を放ち、おばけ神輿と呼ばれていました。この本社神輿は、毎年担がれず、1年おきに「表祭り」と「裏祭り」があり、表祭りの時に担がれました。祭りが近づくと、皆「今年は表?裏?」という会話をしました。

 それは一大イベントでしたが、祭りはそれだけでなく、各町会で、大人神輿と子供神輿を持っていて、それを担ぎました。幼児は山車を引くのですが、小学生になると子供神輿を担ぎます。祭りは、土、日に行われ、土曜日は、登校したら出席をとっただけですぐに家に帰って神輿を担ぎます。ということで、子どもにとっても、祭りは重要な年中行事でした。民俗学者である宮本常一著の「日本の子供たち」に中にも「まつりと子供」の章があります。そこには、こう書かれてあります。
 
「民間には、多くのまつりが、それぞれ一定の日におこなわれている。そうしたまつりは、もともとは為政者がきめたものではなく、いつのころからか、民間におこなわれていたものが多い。そしてその起源もきわめて古いものが多いのだが、そうした行事に、子どもの参加することが少なくない。これはもともと、子どもが神聖視されていたためでもあると思う。そして子供が参加しないと、神のまつりのおこなえないという事態もあった。」

 このように、子どもの存在は、しきたりとして、また伝承としても大切にされていたようです。それは、次世代を担うという明確な意識ではなく、子どもに未来を感じていたのでしょう。だからと言って、大人はいつも子どもと関わっていたわけではないのです。こう書かれてあります。「働いている親たちは、そのいそがしさから子供のめんどうが見られず、ほったらかしにしているのであるけれども、親の目はたえず子供にそそがれており、子供を大切にする気持ちは強かった。」この距離感が、私は日本に伝統的に行われてきた「見守っている」ということだと思っています。「常に目は子どもに注がれている」ということなのです。そして、いざとなれば、全身で子どもを守るのです。それは、こんな記録でわかると宮本さんは言います。

 「享保17年の飢饉は、西日本では陰惨をきわめたものだが、当時の惨状を知るために、寺の過去帳をしらべてみると、死者は子供に比して大人がだんぜん多い。このときの飢饉は、疫病がともなわなかったから、ほんとの餓死であったが、親たちは自分がたべなくても、子供だけは食べさせたことがよくわかる。そして、“子は宝”という考え方は、日本のすみずみまでゆきわたっていたようである。」

 韓国の烏山大学の孔教授の講演で、最近の保護者を評して「子どもを受容はするが、理解が伴っていない。やりたい放題のわがままをゆるしている。」と言っていました。