遊び場考2

 私の子どものころの遊び場は、道路でした。その遊びは、キャッチボールや徒競走であったという宮本さんの「子供の世界」に書かれてありますが、道路での遊び場は、次第に追いやられていきます。「自動車や自転車の発達で、そういう遊び場所がうばわれてしまった。道路は歩くところであり、街上でのあそびは交通妨害になるととめられるようになったが、それにかわるべき広場が与えられてはいない。」と宮本さんは指摘しています。

 そうすると、子どもたちはどうするかというと、「せまい場所であそべるようなあそびが多くなる。ギャングあそびや、メンコやバイまわしなどせまい場所でもあそべるものである。」まさに、私の子どものころの遊びは、ほかに紙芝居とか、型抜きあそびなどでした。そんな子供時代を過ごしたせいか、私は広い場所を使うようなスポーツは苦手です。得意なスポーツは、バレーボール、卓球、バスケットボールなど体育館でやるようなもので、苦手なのが、野球、サッカー、ゴルフ(今は全くやりませんが)などです。

 このように、「あそび場の広狭が、子どもの思想や行動を決定することは極めて大きい。」と宮本さんは言います。「子どもの遊び場派の問題は、もっとも重要な問題であるにかかわらず、せばめられてゆく一方である。大人のあそび場は最近急速に拡大せられて来た。観光地をはじめとして、町の中のバー、喫茶店のようなものまで含めると、その数も面積も厖大なものになって来ていると言っていい。しかし、子供たちのそれは逆になって来つつある。子供たちにとって好ましい遊び場の条件は、自由にあそべる自然である。しかも日常生活の中にそれが必要なのである。」

 この指摘も面白いですね。子どものあそび場がなくなってきたということは今でもいわれますが、逆に大人のあそび場が増えているということは思いつきませんでした。宮本さんは、この子どもの外でのあそび場の減少が、子供たちがテレビの前に釘づけされるようになっていった理由の一つであると思っています。それについての対策は根本的にかつ急を要すると危惧しています。それは、「子供たちが集団生活のルールを身につけてゆくのは遊び場である。」からだと言います。

 「しかも、それが愛着を持つあそび場でなければならぬ。かれらはみな夢を持つその夢を夢のままでおかないで現実にしようとする。子供たちにとっての現実は稚拙である。それはかれらが描いた絵とおなじようであるが、その中に意図するものは十分あふれている。かれらは自然や環境に対しても、自分たちで何らかの手を加えることによって天国になったようにさえ思いこむものである。したがって子供たちのほしがっているものはそのような環境であり自然であって、完成せられたものではない。自分たちの手を加えることによってささやかな理想の実現するような場である。」

 「しかも、幼時の生活環境が、その人の一生を支配してゆくことが多い。子供たちの体験しうる生活の場のひろさや、体験のゆたかさが、その人の一生を支配する場合は多い。」これは、宮本さんは、少年犯罪の増加が物語っていると言います。それは、集団生活のルールを学ぶ場である子どものあそび場が減ってきたこともあり、それは、大人の責任であり、「その責任が子供にかかり犯罪者として扱われているのは、深く反省しなければならない。」と言っています。

 もう一度、地域の中での子どものあそび場の役割を認識し、その確保を大人の責任で用意していかなければならないと思います。