子ども組

 柳田国男の「こども風土記」には、伝統的集落の中の子ども組の姿が描かれてあります。「正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子どもの自治が行なわれていた。或いは年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とは一切が親玉の権能で、これに楯つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘な児でも、ここへ来ると欣々然として親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。」

このような子ども組は、「他にも飛び飛びに見られる土地は多い」と柳田は書いています。しかし、これらの子ども集団での学びは、青年たちを組織していた「若者組」ほど日常的なものではなく、その多くは、正月15日の小正月の他、3月、5月の節句、盆行事、11月の亥の子行事、などの年中行事の際に組織されていたものだったようです。特に、小正月は「子どもの正月」とも言われ、鳥追い、かまくら、もぐらうち、カセドリ、サギチョウ、ドンド、など地方によって多彩な行事が子ども等の手によって行われていました。子どもたちが、自主的に、木や藁、あるいは正月の飾りなどを集め、小屋や円錐型の建物を建て、雪でかまくらを作り、子どもたちがその中で共同生活するのが特徴でした。

このような季節限定の子ども組では、「我儘な子でもここに来ると違っている」というのは、明らかに家庭における子育てでのしつけと違う役目を持っていたと思います。また、ここでは威張っている子が、若連中に入っては使い走り、だまって追いまわされていて一向に頭が挙らないというように、様々な立場による人間関係を体験していきます。これも、異年齢集団における大きな役割でしょう。その集団では、「年とった者は少しでも干渉せず」というように、年を取ると「見守る」という立ち位置になるようです。

 これらの地域少年集団は、近世に広く認められる地域の子ども集団で思われますが、その後、学校教育の普及、旧暦から新暦への切り替え、など様々な近代化の波によって、消滅したり、あるいは子ども会へと衣替えしていったようです。

 また、それ以前を考えてみると、よくブログで取り上げた、江戸時代に薩摩藩での「郷中」、いまNHK大河ドラマ「八重の桜」で描かれている会津藩の「什」、他にも連(熊本藩)、社(土佐藩)など武家社会にも子どもらの自治的な集団が存在しました。これらの子ども集団の特徴も、同じようなものでした。まず、異年齢児集団であるということ。そして、大人の介入なしに子どもたちの自治であること。この中で子どもたちが学んだ人間関係は、大人になってからの「生きる力」になっていったでしょう。

子ども組” への6件のコメント

  1. いつも近所の同級生とその兄弟達とで遊んでいたのを思い出しました。とは言っても、私たちの世代(というように一括りにしてしまってはいけないとは思いますが)は異年齢での交流が大変に少ない生活を送ってきたように思います。私自身の体験や周囲の様子からそんなことを感じます。「様々な立場による人間関係を体験していきます」というのは本当ですね。多くの集団があって、その集団内での自分の立ち位置はどれも同じではありませんね。それは、その集団の状況や場の雰囲気を把握できるからこそ、様々な人間関係の中での自分の役目を掴んでいけるのではないかと想像します。どんな集団においても、どんな場でも「自分のスタイルはこうだから」と自分を曲げないという人がたまにいますが、なかなかその場の雰囲気を掴むことが難しいのかなとも思ったりしました。

  2. 『自治』という意味を調べてみると、「自分や自分たちに関することを自らの責任において処理すること。」と書かれていました。この能力が「生きる力」を育むならば、子ども自らが責任を感じる環境を用意し、それを処理する時間を与えなければいけませんね。ずっと考えていたことですが、昔の人は、子どもに対してあまり干渉していなかったように感じます。それは、子どもへの関心・興味・愛がなかったからなのでしょうか。きっとそうではないと思います。「あの子なら大丈夫」「何かあれば言ってくるだろう」「信じてみよう」という思いが、強かったからだと思います。保護者や周囲の大人たちのそういった子どもへの思いが、自治を生み、子ども社会を成り立たせていたのだと感じました。

  3. ここに書かれているような子ども集団が今はなくなってしまったんですよね。形を変えてできたという子ども会も、子どもによる自治というよりも大人の力が前面にでているものが多いように感じます。とにかく何もせずにいると、子どもの自治による集団活動は起こりにくいのが現状なんでしょう。だからこそ子ども集団の大切さ、必要性をじっくりと訴えていくことがますます求められてくるんだと思います。ある特定の価値観のもとで、ある特定の年齢の子どもとの関わりの中では体験することのできないことを乳幼児期にどう保障していくか、そんな大きな役割をもった保育園という場をもっともっと意味のあるものにしていきたいと思います。

  4. 私の幼少期ではもう、異年齢での集団というものはほとんどなく、そういう場は学童などの事業でしか、日常の遊びの中であるということはなかったです。しかも、その時代の子どもたちは自分たちで自治を作っており、ある程度の組織化された集団というのは驚きです。今までの文化や伝承その中で起こってきた発展、それらが脈々と受け継がれていたものが子どもたちにあるというかかわりはとてもその時期の子どもたちにとってはいい経験だったんでしょうね。郷中教育がここで紹介されその素晴らしさを感じましたが、その環境が今日では少なくなっているのは残念なことです。そこでのいろんな立場の関わりはまさに人間社会での「生きる力」に通じているんだと思います。

  5. 「こども風土記」に書かれている子ども組と呼ばれる集団は今でも存在するのでしょうか。私は「子ども会」という物を経験したことがありませんが、町内では色々な経験をしたのを覚えています。夏にはキャンプに行き、冬にはスキーなど色々な企画に参加し、様々な年齢の子ども同士で遊んでいました。ただそれらの企画はお父さん達が企画していたので、その辺が「風土記」に書かれている子ども集団の違いですね。子ども達で集まり色々な遊びを企画し、実行するのは、まず楽しいでしょうね。そして楽しいの中にも上下の人間関係を学ぶことができるのは大きな学びです。おそらく年齢別の小学校では異年齢での関わりというのは少ないように思います。更に学校の外に出てしまうともっと少ないでしょうね。そう思うと学童や児童館の存在というのは大きな物に感じます。自分の園の学童を見ていて、異年齢で関わっている小学生と見ると特に思います。私の小学校の頃は普通に行われていた子ども集団も今思えば貴重な体験だったのですね。

  6. 異学年集団で遊んでいたのは、小学校4年くらいまでだったような気がします。最大3学年の違いで遊んでいました。沼の近くや山の中に入って「秘密基地」を拵えて、何とも言えない緊張感とワクワク感、そして自分たちで小屋をつくったという達成感、そんな感じを楽しんでいましたね。それでも小学校高学年では同級生、しかも自分と気が合う同級生と遊んでいました。近くの小高い山に登り、眼下に静寂な湾、そして太平洋、を見、また尾根づたいを歩いていって別な集落に降り行ったこともありました。アルマイトのお弁当箱にご飯と梅干1個の日の丸弁当、それから水筒持参。途中の山いちごの実を食べ、目の前をスルスルと横切るやまかかしに驚き、頂上に達した時は吹く風に爽快感を感じました。中学に入ると部活のおかげで先輩たちと関わりました。高校も同じですね。同級生同士の関わりと同時に先輩たちあるいは後輩たちとの関わり、これらのおかげでその後があるような気がします。

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