児童文化

 幼児教育について、意図性とか誘導性とかが教育と捉えたときに問題になります。どれだけ保育に保育者は意図を持つか、それが専門性であり、質であると言われることもあります。しかし、このようなことはいつ頃から始まったのでしょうか。少なくとも、江戸時代まで、いや近代まで幼児教育において、子どもたちは大人の介入なしに遊んでいたはずです。柳田国男の「こども風土記」には、こう書かれてあります。

 「児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精一杯遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、今とよっぽど違った点があったのである。」子どもたちは、野山、町の中で遊びまわっていました。そこには、大人の介入はありませんでした。まして、大人の意図性など込められていませんでした。しかし、子どもたちだけで、何のルールも、秩序も、何の意図もなく遊びまわっていたでしょうか?現在、子どもだけでただ「遊べ!」と言って、いろいろなものを自ら創造し、遊び込むことができるのでしょうか?それが、一人で本を読むとか、一人でゲームをするとか、一人で遊ぶ場合は可能かもしれませんが、野山や町の中を遊びまわるときには、多くは大勢の子ども集団で遊んでいたはずです。そんな時には、子どもだけで任せては無理な気がします。そこで、柳田氏が言っているように「今と違った点」があったのでしょう。それは、なんなのでしょうか?

 柳田氏はこう書いています。「第1には、小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識したゆえ、悦んでその任務に服したのみならず、一方、小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気込んでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、おかげで、いろいろの珍しいものが伝わっていることをわれわれ大共も感謝するのである。」

 異年齢で遊ぶことで、いろいろな遊びが子どもたちの中に伝承されていったのです。その伝承ゆえに、特に大人の介入なしに遊び込むことができるのです。私は、幼稚園が保育者の意図性とか、大人の介入が保育者の専門性というのは、同年齢での保育をしていることも一因でないかともいます。子どもはもちろん、放っておいては何も学ばないかもしれませんし、遊びが広がらないかもしれないのです。それを、子ども同士の関係の中で達成するような働きかけこそ、高度な意図性であり、それこそが高い専門性なのです。柳田氏は、他にもポイントを挙げています。

 「第2は、小児の自治、彼らが自分で思いつき考え出した遊び方、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいえないほど面白いものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くために後回しにする。」こどもたちは、いろいろなものを想像していきます。それが集団の中では形になっていきます。この子供が生み出したものを柳田氏は集めてこのこども風土記などを書くことになるのです。

 そして、第3は、「今日ではあまり喜ばれぬ大人の真似、小児はその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔の大人は自分も単純で隠し事が少なく、じっと周囲に立って視つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それが遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。」

 大人の真似は、大人になってからすることになることの準備をすると意味もあったと言います。それは、必ずしも大人の間でだけでなく、年上の子の真似も同様で、それは、異年齢で遊ぶからこその機能です。

児童文化” への6件のコメント

  1. 「教育」というような言葉を使って、子どもにいろいろなことを教えたり、あることを出来るようにするということを目的にしておられる方に間接的に接することがありました。「できる」や「分かる」ということに価値を置かれているので、「できない」ということに対して見下すようなその姿勢に間接的ではありますが、こちらの気持ちが滅入ってしまったのをおぼえています。柳田さんの言葉は見守る保育とつながりますね。私たちも実践していて、この子ども同士の関係から広がる子どもたちの姿にいろいろな気づきをもらっています。また、「子ども同士の関係の中で達成するような働きかけこそ、高度な意図性であり、それこそが高い専門性なのです。」という部分は本当に大切にしなければいけないことですね。同時に私たちが一番自信をもって保育をしていくための揺るぎない信念でもあります。

  2. 幼い頃、広場で年上のお兄さん達とキックベースをしていたことを思い出しました。お兄さん達は、人数に合わせてルールを自分たちで決めたり、見たこともないような技を使っったり、試合を楽しげに進めていました。自分も仲間に入れてもらおうと、急いでルールを覚え、試合に参加できるようになりました。次第にその技を自分も真似をするようになり、いつの間にか、年下の子どもにもその知恵が伝わっていました。今思うと、そのような集まりは、自然な異年齢集団だったのだと感じています。現代における“キックベース”はどこにあるでしょうか。そのような環境を用意することが、「高度な意図性であり、それこそが高い専門性」ということですね。子どもには子どもの社会があり、その社会をしっかりと保障する必要があります。子ども社会をしらけさせる大人の介入ではなく、次回、子どもたちの遊びや社会が、発展・充実・伝承するための少し年上・年下の子ども、または大人の介入、が求められているのですね。幼い頃は、少し年上のお兄さんやお姉さんでも、なんだか大人とはまた違った大人のように映り、特別な憧れのような思いを感じていたものです。

  3. 環境が変わってきていることによる大きな変化が、今回書かれているようなことなんですね。子どもたちの中で自然と子どもたちの文化が伝承されていた時と比べると、確かに今は何かの意図を持って関わることがなければ伝承が進んでいかないようにも感じています。一旦転がり出すとどんどん転がり大きくなっていく雪玉のように、模倣の対象が少なくなった環境では最初に意図をもって押してあげることが必要だと感じています。もちろん後は子どもたちで転がしていけるように押してあげることが大事で、その押し方が専門性なのではないかという捉え方です。そのようなことを考えていたところだったので、非常にタイムリーな話題でした。

  4. 今の時代と昔とでは子どもの遊びにおける環境は大きく変わってきたんですね。今では公園などで年齢の違う子どもたちが遊んでいる姿というのは見ることは少なくなってきましたね。「異年齢」というものも、保育園や幼稚園などで「あえて」その環境を作りださなければいけないような時代です。「子どもの関係の中で達成できるようにする」ということがとても大事なキーワードのように思います。子どもだけでは何も学ばない、しかし、大人が介入しすぎることで「じっくり考えること・かかわること」が少なくなるように思えます。そのバランスをうまくとれることが「保育士の専門性」だということをよく感じます。「子どもの発達」「本来の社会」ということをどうとらえていくか、こういった議論を時代に合わせて、より議論していくことは必要ですね。

  5.  保育士は意図性、誘導性を持って保育することが専門性であり保育の質と言われることがある。確かに何も目的を持たないで保育をするのはおかしいので、何かしらの目標を定めて保育することは必要かと思います。しかし意図性、誘導性と聞くと大人が子どもの先頭に立って遊びを提供し、指導し、一緒に楽しむという姿を連想する人も多いかと思いますが、本来の意図性、誘導性というのは子どもが自ら遊びを考え、学んでいくことが出来る環境を保育士が用意したり、言葉がけをする事だと思います。とは言っても、それでも大人の介入は若干あります。ブログに柳田氏の「今と違った点」として三つ述べていますが、基本的に大人の介入はひとつもなく、ほとんどが子ども同士の関係です。異年齢で関わることで年長者が年少者に教える、子ども同士で遊ぶことにより自ら遊びを考える事で多くのことを学ぶ、そして大人の行動を真似ることで、将来への準備をする、どれも自発的に遊んで身につくことです。しかしながら今はそれが薄れてきている為に、保育士の質が問われるのかもしれませが、だからと言って間違った解釈をしてしまっては意味がありませんね。

  6. 私は割といい加減なことと、他人様のお膳立てで動くのが得意ではないので、「意図性」とか「誘導性」とか、まことしやかに言われると、どうも反発する、かわいくない面を持ち合わせています。自分の生い立ちを振り返った時、大人が私たちの遊びや関心事に介入するのは、私たちの遊びや関心事を基本的には辞めさせようとする時でした。もっとも、おそらくは、大人の目から判断して、危ない遊びと映ったからでしょう。私は、子どもたちの遊びの環境には、さまざまなものがあってもいいと思います、但し発達を見極めて。もちろん、子どもたちがすぐに遊び込めるモノはそのままにしてもいいと思うのですが、遊び込めていない遊びについては、まず大人がやり方、遊び方のデモンストレーションをし、子どもたちの様子を見ながら遊び込めたら、その場を離れ、次の遊びの環境を用意する、でいいと思います。用意すべき環境は子どもたちが既にその遊びの片りんを示し、その遊びの片りんを発展させられるような環境です。幼稚園の先生たちは、先生の指導が命、のようなところがありますから、意図性とか誘導性、ということになるのでしょうね。子どもが自ら遊びこむ力、学ぶ力をもっと信じてあげてもいいと思うのですが。

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