偉大な旅7

 人類は、世界どの地においても人にものを分け与えるという遺伝子を持っているそうです。それは、赤ちゃんが満1歳を過ぎるころから人にやたらと物をあげようとします。それは、どの国でも見られることで、いつの間にか文明が「物を貯めこむ」「物を所有する」という行動になってしまい、それによって遺伝子を途切れさせるような争いが起きるようになったと言われています。

 世界へ偉大なる旅に出た人類が、熱帯雨林を住処として、そこで生きていくための知恵をつけています。それは、もしかしたら、つけていくのではなくもともとの人類の遺伝子の中で、ある知恵を残していくと言った方が正しいかもしれません。熱帯雨林に住む先住民族であるマチゲンガ族では、焼き畑を営みながら採集狩猟をして暮らしています。男は弓矢で狩猟をし、女と子どもが果実や魚、虫、貝などを採集します。豊富に採れる採集物は、各自のものですが、狩りで獲得した獲物は解体し、みんなで分配します。マチゲンガでは、ケチが最も嫌われますが、それは高温多湿のためにモノを蓄えることができない熱帯雨林の環境の影響が大きいのです。こうしたモノの平等の他に、心理的な平等も重んじる習慣がマチゲンガにはあるそうです。

 私たちの社会は、物を貯めこむことで将来の不猟、不作に備え、蓄財によって分業が始まり、これが偏在と身分の差を生みました。一方、マチゲンガなどモノを貯めこまない社会で重要なのは、モノを必要としている者に正しくモノが行き渡ることです。彼らも所有権はしっかり持っています。野生のヤシの木でも、最初に見つけて利用したものが所有者になります。実際「これは俺のモノだ」という意識は強いのですが、われわれの感覚とは違うことも多いそうです。モノに固執せず、そのとき必要ないモノであれば、欲しがっている者に簡単に譲るか貸してしまうそうです。グループ内でたらふく食べている者がいる一方で、同時に飢えている者がいるということはないそうです。少人数の集団で、独り占めするような者が現れれば限られた食料をめぐって争いが起きるでしょう。皆にモノが公平に行き渡るので争いは起きません。
人類「偉大な旅」を自ら体験した関野さんは、マチゲンガ族のことをこう言っています。「皆が“いい人”で、“気前がよく”“モノ離れがいい”のかというと、おそらくそうではありません。自分だけ、あるいは自分の家族だけ良ければいいと思うこともあるでしょう。しかし、自分の赴くままに生きていけばグループ内に争いが始まり、そのグループは生き残れない。独り占めせず、皆で分けた方がコンスタントにモノが手に入り、争いが起きにくいことに気づき、かつ長い期間それで共同体がうまく維持できれば、それが常識として倫理化されます。そして、この倫理に則った振る舞いが期待されるようになるのだろう。」

過酷な環境の中で生きていくためには、生きる知恵を学習能力は高い気がします。今は、どうして争うようなことを繰り返し、少しも学習していかないのでしょうか?

さらに、岡野さんは続けます。「さらに面白いことに、マチゲンガはモノをもらった者が持つ負い目をも無くそうとします。」手柄を立てたときも、獲物をしとめたきも、決してはしゃぎもせず、威張らず、必要以上に自慢もせず、だからこそ、モノをもらっても負い目を負う必要がない社会なのだと岡野さんは強く感じたようです。

偉大な旅7” への7件のコメント

  1. 多くの争いの根本はモノの所有ということが関係していますね。所有や貯蓄ができるように発展したことが原因ですが、太古の人類の姿はそれとは違う共同体のシステムもしっかり存在するんですね。人類の本来の姿と言いますか、余計なものがないからこその太古の人類の姿は共に生活するということの大切さを教えてくれます。「社会は贈与によって成り立つ」というような言葉も聞いたことがあります。なかなか想像できずにいましたが、このマチゲンカ族のモノに固執せずに欲しがっている者に簡単に譲ったり、貸したりという姿とその言葉が繋がったように感じます。誰かに何かを贈ること。つまりモノに固執しないことで上手く社会を作っていたんですね。誰かに何かを贈るということは物質的なことばかりではなく、気持ちの部分も多く含まれていると思いますが、この贈りの姿勢というのは現代では希薄になっていっているという印象を受けてしまいます。個人に絶対的な価値が置かれているからこそなのかもしれませんが、このマチゲンカ族の姿から学ぶものはたくさんありますね。それにしても「マチ・ゲンカ」というのはなんとも逆説的な名前ですね。

  2. 自分の家族だけ良ければいいと思うこともあるのに、平等に、そして威張らず皆に分け与え、倫理に則った振る舞いという期待を決して裏切らないマチゲンガ族。粋ですねぇ。モノをもらっても相手が負い目を負う必要がないようにと、相手を気遣うところなんかも、憧れてしまいます。マチゲンガ族と共通な遺伝子を持っているとすれば、他人に物(玩具)を“どうぞ”と渡す子どもの行為は、“僕は一人では生きていけない。助けが必要なので、これをあげます。だから、決してこのことに負い目を感じないでくれ”という意味での、子どもからのプレゼントであり、メッセージではないでしょうか。その行為に対して“ありがとう”という言葉をかけても、何事もなかったかのように歩き去っていく子どもの後ろ姿が、その仮説にさらなる拍車をかけるのです。

  3.  先週末、家族でこの展覧会を見に行きました。チビ達が何をどう感じたかはわかりませんが、各コーナーにあるビデオと展示物を、じっと眺めていました。

    以前、友人とこんな話をしたことがあります。

    友人:「いじめはいつから始まったんだろうか?」
    私:「農耕が始まってからじゃない」

    人は物を蓄えることが出来るようになると、結果として集団が大きくなり、社会的な階層構造ができて、平等でない社会になっていくのだと思います。「物が蓄えられても平等な社会」は、理想的な気もしますが、現実的でないような気がしてしまいます。

  4. 関係はないのですが、読んでいてあるアスリートの姿が浮かんできました。勝っても負けても大騒ぎすることなく、感謝の意を表して淡々と終えていく姿です。自分自身が何に価値を見出すかによって態度は大きく変わるんでしょうね。自分の態度によって他者のあり方にも影響を与えることができると考えると、そのことに無関心でいてはいけないですね。
    それと、多く獲ったから多く稼いだからといって人の2倍も3倍も食べるわけではないので、共同体の中で分配する考え方が望ましいと思います。今地域で行われている活動なんかはそうした考え方が目立つように感じているのですが、国全体としては反対方向に向いているような気がするんですよね。偉大な旅から学ぶことはまだまだ多くありそうです。

  5.  私自身、食べ物でも何でも独り占めしたくなる瞬間というのはあります。変に悪気があるというとかではなく、わがままというか何と言うか・・・。赤ちゃんは生まれて1歳をすぎる頃から、何の見返りも求めず人に物をあげる行動をしているのを見て、自分が恥ずかしくなる瞬間もあります。私は人に物をあげる時も実際には言いませんが、見返りを少し求めてしまいます。おそらく、こういう感覚は環境がそうさせてしまっているのかもしれません。また個人レベルで見るのでなく世界レベルで見ても同じような事が起こっていると思います。自国の領土を広げるために紛争が起きていたり、天然資源に関しても何かと争っています。物が豊富に溢れると人は皆で分け与える行動をすると思いきや、真逆のことが起きています。現在も狩猟民族として生活しているマチゲンカ族は明らかに文明は進んでいませんが、彼から人間としての生き方、私たちが忘れている重要な感覚を思い出させてくれます。

  6. 物が限られていた過酷な状況の中で生き抜いていくために一つのクループとしての助け合うシステムが成り立っていたということは人間社会の大切な部分を物語っているように思います。ある程度、ものが不足している時代だからこそ、こういったことが起こっているのかもしれませんね。今の時代はものがあふれかえっていますし、その物自体をためることができる時代です。当然貧富の差は大きくなりますし、争いも起きてくるのかもしれないと自分なりに考察しました。「ものや状況に対して無いから工夫する」という時代と「ものや状況が無いから買い足す」時代、どちらのほうがより人とかかわるかと考えると、今の時代の利点も見えてきますし、その反面の欠点も見えてくるように思います。

  7. 仏教では、「これは私」「これは私のもの」という観念に固執することから離れることを奨励します。我と自己所有、そしてそれらへの執着が互いを認め合わず、自分や自分のものを守ろうとして他者との衝突を招いてしまうのですね。今回のブログを読みながら、マチゲンガ族の社会は我と自己所有はあってもそれへの「固執」「執着」がない分、仏教的な社会のような気がします。というより、そもそも人類とは仏教興隆以前よりマチゲンガ族の社会のような集団形成、共同体構築を行い、よって滅亡の危機を逃れてきたのだろうと思います。そして、我と自己所有からの乖離が人類のそもそもの特徴であることを考えると、できれば私たちもそうした生き方をしていくことが正しいのだろうなと思いました。関野氏が紹介する「威張らず、必要以上に自慢もせず、だからこそ、モノをもらっても負い目を負う必要がない社会」を持つマチゲンガ族の生き方に私たちは範を求めてもいいのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です