おもちゃ考1

 子どもは、長い棒を振り回して遊ぼうとするのは、どの国にもみられることなのでしょうか?また、それは、テレビの影響と言われることが多いのですが、テレビがない時代では、棒を振り回して遊ばなかったのでしょうか?また、私の孫が半年過ぎたころからいろいろなもので遊ぶようになりましたが、そのおもちゃは、おもちゃ屋さんで売っているものではなく、身の回りにある不思議なもの、それは概して大人にはさほど興味のないものを手に取ります。また、大人が使っている携帯電話とか、リモコンとか、掃除機、フライパンなどの生活用品にとても興味を持っていました。そして、それは遊ぶというよりも、なめまわすという感じです。

 柳田国男が、「こども風土記」の中で、「おもちゃの起り」という項を書いています。そこでは、かつておもちゃといわれたものを三通りに分けています。「最も数多いのは子どもの自製、拾ってすぐ棄てる草の実やどんぐりのようなものから苗株あねごとか、柿の葉人形とかの、うまくできたらなるだけ永く大事にしてしまっておこうとするものまで、親も知らないうちに自然に調えられる遊び道具、これを子どもは“おもちゃ”というものの中に入れていない。」とあります。子どもたちの身近にあったものは、自然物だったのでしょう。それは、遊ぶものというだけでなく、子どもにとっては宝物のように思えたものもありました。散歩に行くと、子どもたちは落ちている木切れや石ころを大切に持って帰ります。どんぐりなどは、まさに子どもたちにとっては宝物のようです。それは、自然界にあるものだけでなく、子どもたちは、身の回りにある者の中から宝を見つけ出すのが得意です。それは、大人にとってはガラクタでも、使えなくなった廃物でも、そこに何かしらの価値を見出すのです。

また、子どもは遊びの天才と言われるようにどんなものでも遊び道具にしてしまいます。それを支えている能力は、「見立て」という行為にあると思います。戦前物にある物を、何か身の回りの物に見立てて遊ぶのです。昔の多くはきっとそれが遊びのほとんどであったと思います。椿の葉を草履に見立てたり、人形に見立てたりして遊びます。どんぐりなどの実も、様々なものに見立てられて遊んだことでしょう。

ここで、柳田さんは、「おもちゃ」という名前の由来を書いています。「オモチャという語のもとは、東京では知らぬ者が多くなったが、今も関西でいうモチヤソビの語にオをつけたものにちがいない。その弄び物(もてあそびもの)を土地によっては、テムズリともワルサモノともいって、これだけは実は母や姉の喜ばぬ玩具であった。もっとも普通に使われるのは物さしとか箆の類、時としては鋏や針などまで持ち出す児があって、あぶないばかりか、無くしたり損じたりするので、どこの家でもそれを警戒した。そうしておいおいとその代りになるものを、こしらえて可愛い子には与えたのだが、最初はそれもただ親たちの実用品のやや小形のもの、たとえば小さな籠とか桶とか、箒や農具の類が多く、子どももまた成人と同格になったと思ってそれを喜んでいたようである。」

私の孫が、買ってきたおもちゃよりも生活用品に興味を持ち、それを触りたがるのは、「おもちゃ」という言葉の由来である「生活品をもてあそぶ」という行動そのものなのかもしれません。
時代が進み、おもちゃは買ってくるようになりました。それは、柳田国男が「こども風土記」の中でも触れています。

おもちゃ考1” への6件のコメント

  1. 昔に比べて、「見立て遊び」をする頻度は減少しているのかもしれません。玩具の種類にもよりますが、椿の葉を草履や人形に見立てるような、ないものを想像しながらの遊びよりも、「こうやって遊ぶ物」とあらかじめ決まっているおもちゃで遊ぶ機会が家庭では増えている印象です。「ゴールが分かってしまうおもちゃ」の普及は、子どもから「遊びの天才」という称号をなくしてしまう可能性があると感じます。そうは言っても、きっと子ども自らが、その遊びよりももっと魅力のある見立て遊びを探して見つけてしまうものだと思っている部分もあります。大事なのは、そういった遊びを制止しないということであり、昔でいう「小さな籠とか桶とか、箒や農具の類」といった物のように『触ってもよいもの』を与えることですね。
    なんだか、おもちゃの良し悪しが分からなくなりました。良い玩具や、悪い玩具というのは、子どもにとってではなく、大人の都合で作り上げられた価値観なのかもしれません。

  2. 「nobara」という名義でコメントをしておりました森口です。間接的ではありますが、先日の件を受けまして、これからは本名でコメントをさせていただこうと思います。よろしくお願いします。
    おもちゃのは身の回りの生活用品から生まれたものなのですね。おもちゃというモノがあって…という全く反対の捉え方をしていました。生活用品からという捉え方をするとまた、おもちゃの幅も広がっていきそうな気がして、ワクワクします。確かに赤ちゃんを見ていてもいろいろなモノを舐め回します。それはおもちゃもそうですが、本当にいろいろなモノに興味を示しています。あるモノでじっくり遊ぶと次へ、次へとどんどん…遊んでいるというより、そのモノを確かめているといるようにも見えたりもします。これが終わったから次へ、というようにも見えるのですが、でもお気に入りのおもちゃもあったりとただ確かめるという作業だけではないような気もします。見ていて、不思議なことばかりです。そして、まだまだまだ分からないことばかりです。

  3. おもちゃはもてあそびものですか。面白いですね。子どもたちを見ていると確かにその姿は見られます。大人が使っている生活用品を見ると必ずと言っていいほど寄ってきますし、それを使おうとします。でも大人は困るからそれを制止するわけで、そこのバランスのとり方が難しいと感じるところです。でも生活用品を使う姿を見ることは見立て遊びにもつながることで意味はありますし、遊びの要素としても意味のあるものは多いはずです。生活が遊びだということはもっと考える必要があると思います。それと同時に、自然の中にあるものに触れる機会も十分にとることのできる環境であることを、もっときちんと意味を整理して生かしていくことも必要だと感じました。ただ「自然の中で遊ぶのっていいですよね」というのではなく、その意味を保育者は理解しておく必要はありますね。

  4. 「おもちゃ」というものを最近考えることが多いです。最近では「見立てる」ことが少なくなったように思います。また、「子ども用」というものが豊富にあり、本物に触れることも、そこでおもちゃを発展させていくこともすくないのかもしれません。昔は家庭の中で本物に触れる機会が多くあったと思いますし、また、それだけ家庭の中で大人の動きを見る機会も豊富にあったということがあるのではないでしょうか。「おんぶ」の話のときに同じような話がありましたが、それだけ大人と子どもの社会がかなり遠くなっているのかもしれません。物が豊富になってくる時代になったことで、それだけ「おもちゃ」の種類は増えたかもしれませんが、自然物にあるような工夫次第でいくらでも変化する「おもちゃ」は少なくなっているのかもしれません。

  5.  「おもちゃ」の由来を初めて知りました。「弄ぶ物」物が語源で、子どもが何でも興味を持つ中に危ない物もあり、それに代わる物を与える事が始まりで、現代のブロックやパズルに進化したのですね。しかし当時は大人が生活で使う箒や農具などを与えて子どもは大人の真似をして遊んでいたのでしょうね。今でも子どもと一緒に掃除をする時に私は少し大きい箒を使っていると「先生のを使いたい」という子がたくさんいます。また畑で使う大きな鍬にも興味津々な様子です。おそらくおもちゃ屋さんに行った時と同じくらいの目の輝きのように感じます。そういう姿を見ていた分、「生活品をもてあそぶ」という言葉にとても納得します。子どもは大人の姿を見て色々な事を真似ようとします。お手伝いと言いながらも子どもにしてみれば立派な遊びなのかもしれません。今回のブログを読むとおもちゃに対する考え方が大きく変化したように思います。今回のブログも連載が続きそうなので、しっかり学びたいと思います。

  6. 「おもちゃ」も時代を反映します。わが子が2,3歳の頃、私のパソコンのキーボードをパチパチ叩いて遊んでいました。流石に、壊れるのでは?と私は危惧し、古いキーボードを用意して、わが子のおもちゃにしました。次に、おもちゃにし始めたのが、私たちが使っているノートです。なんだかよくわからないものを描いていました。えんぴつで遊び、消しゴムで遊び、それから何と、アイロンで遊び、ついに火傷を負う、というオマケまで経験したようです。私も子にはいろいろなおもちゃを購入して提供しましたが、結果は、あまり見向きもされずじまい、でした。そこで、得た教訓は、子どもが欲しがるようになったら購入する、ということで、親の勝手なせこい思いでおもちゃを購入し与えるのは辞めよう、ということです。お金をわざわざかけなくても、子どものおもちゃになるものは身の回りにたくさんあります。そういったものの方が子どもにとってもいいようです。

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