人形考2

 子どもが遊ぶ人形と言えば、世界では、「ヴァルドルフ人形」が有名です。この人形には、目鼻がありません。他人の表情は、目鼻、特に目やまゆ毛、口などで表します。しかし、この人形は基本的に目鼻をつけないのは、表情をつけないためです。目鼻をつけるときは、色鉛筆でうすーく小さく描くだけで、やはり表情はあまりつけないようにします。なぜ表情をつけないかというと、その人形で遊ぶときの子どものその時の気持ちを受け止められるようにということからです。これは、シュタイナーの教育理論に基づいて作られているのです。

 しかし、かつて子供たちが遊んだ多くの人形には目鼻がついていませんでした。それは、宮本さんの「子供の世界」に書かれてあります。「商品としての人形の入手できないところでは、子供たちは竹・トウモロコシの皮・紙・草などを用いて人形を作る。たいていは姉様人形で、伊豆の島々ではクサノ、東海地方ではオカンジャケといっている。竹を小さく割ったり草で作った人形には、髪形だけで顔はないが、子供たちはそれで十分美しい女を頭に描くことができた。」
 顔のない人形は、その時の子供の気持ちを映し出すだけでなく、子供の想像力をかきたて、自分の好みの顔を頭に描いたのです。それは、人形だけでなく、子どもたちが作るおもちゃにはいろいろな創造力が込められていました。それは、多くの有り合わせの材料を用いて作るものが多く、特に自然物を用いることが多いため、それをいろいろなものに見立てて遊んだからです。

宮本さんは、こんな光景を描いています。「麦刈りのころになると、みなきまったように麦わらをとって、それを編んで平たいひも状のものを作り、それを縫い合わせて帽子など作ったり、またカゴのようなものを作ったりする。ホタル籠なども麦わらで作った。わら蛇もこれで作る。」麦は、他にも麦笛などの楽器になったり、「男の子たちは麦わらで水車を作り、流れの上にそれをかけて、くるくるまわるのをたのしんだ。」麦わら一つでもいろいろな遊びに工夫しました。
自然にあるものは、子供たちは何でも遊びにします。「つくしの節のところにははかまがついている。そのある節をぬきはなして、もう一度さしこむと、どこで切れているかわからぬものである。そのきれたところをいいあてるあそびは、つくしつみに行った子たちが申し合わせたように行うあそびだ。」そのほか、ほうずきなど植物を使う遊びの中から、木や草にも深い愛情を持たせる動機になっていると宮本さんは言います。

子どもは、なんでも遊びの対象にします。植物だけでなく、小さな虫などは、子どもにとっては、楽しい遊び相手である者が多かったようです。カブト虫に糸をかけ、牛に見立てて耕作のまねごとをしたり、太郎蜘蛛にけんかをさせたり、せみとりなど遊びは多く、遊んだあとは、たいてい野に放ってくるのが普通だったようです。それは、「いじめたり殺したりするとたたりがあるとか、不幸なことがおこるとか信じられていた。」からのようです。それにしても、「これらの遊びが、子供たちに深い観察眼を与えたことは大きかった。」と宮本さんは書いています。

これらの遊びは、子どもたちにとっての大いなる学習であったことが、大人になって初めてわかります。

人形考1

 民俗学者であった宮本さんは、「子供の世界」という著作の中で、そのころの子どもの姿を描いています。その章の中に、柳田さんと同様「オモチャ」について書いてあります。まず、おもちゃについて、「子供の成長にともなって、耳からだけでなく、目や動作を通じての教育がなわれる。その中で重要な役割をはたしていたものは、オモチャである。オモチャはモチアソビということばに敬語のオがつき、語尾が省略されてできたことばである。田舎ではいまもモチアソビとか、モチヤソビちかいっているところがある。そして内容的には、大人の用具の模型、または子供たちだけの遊び用具をオモチャといっている。」

 この説明は、柳田さんと同じですが、その語源を説明するところから、おもちゃは、もともと「子どもが持って遊ぶもの」という機能があり、その内容を大きく二つに分けています。一つは、例えばおひなさまのように、大人の用具のミニチュアで遊ぶことで、大人になるための準備をしているというものと、「子供たちだけの遊び」というのは、子どもが自ら作り出し、それは、その時期の子どもに興味があるもの、その役目として、その時期の発達を促すものであるのではないかと思います。

 宮本さんは、そのなりたちから最近のおもちゃへの経緯を説明しています。「その初めのモチアソビは、きわめて素朴なもので親たちが作って与えたもののほかに、子供たち自身で作った者も少なくなかった。」そもそもオモチャは、身の回りのものから工夫して作られたものでした。しかし、当時でもこのような変化が起きます。

「ちかごろ都会の玩具店や、土産店にたくさんならべられて、人気のあるコケシは、もともと東北地方の木地師たちがつくって温泉地の土産として売ったものである。木地師たちは椀や盆をつくるのがその主業であったが、そのあまった木屑で、人形をつくったのである。コケシというのは、木屑を意味する言葉のようであり、西日本では、木屑をコケラとよんでいる。木屑で人形を作ることは東北だけでなく、西日本にもあった。つまりロクロをつかって木地ものをつくるところでは、そうした人形を子供たちのためにつくる風があったのであろう。その人形をオボコともネブリコともいっている。」

そういえば、私の子どものころは、旅行に行ってのお土産に「こけし」が多く、家には、日本各地の大小様々なこけしがケースの中に所狭しと並べられていました。そして、その形、顔が少しずつ違っていました。今でも、子どもたちは、こけしではありませんが、人形を持って遊ぶことが多いようです。子どもが人形を持って遊ぶというのは、世界共通なのでしょうか、ドイツでも人気です。

日本における人形の発祥は、やはり宗教上からのようです。「もともと人形は神の依代としてつくられたり、人間の災厄をはらうときに用いる。形代としてつくられたのが起源であろうが、こういうものが子供のモチアソビになっていった歴史はきわめて古いと思われ、ヒイナ遊びのごときは、平安時代以来の文献にしばしば見えるところであり、それが3月3日に行われるものとはきまっていなかった。そして今日ではヒイナ遊びとよばず、ヒナ祭りというようになってしまって、モチアソビとは違ったものにまでなっている。」最近のヒナ人形は、持って遊ぶと怒られるほど高価になり、見るだけになってしまっているようです。

民俗学から見た子供

柳田国男の「こども風土記」には、当時の子どもの姿が生き生きと描かれています。「風土記」とは、諸国の風土・風俗・産物・伝説などを記した本のことですが、柳田の「こども風土記」は、諸国に伝わる子どもの文化を記したものです。その研究は、民間伝承の調査を通して、主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究する学問である「民俗学」と呼ばれるものですが、この学問は、イギリスで起こり、日本では柳田国男らにより体系づけられました。師範学校を出たのですが、渋沢敬三に見込まれて民俗学の道に入り、戦前から高度成長期まで日本各地をフィールドワークし続け、膨大な記録を残した人が、宮本常一です。彼は、昭和62年に「日本の子供たち」という本を出版しました。

彼は、この本の「はしがき」で日本の素晴らしさをこのように書いています。「古い時代から日本の国民は貧しかった。中世の終わり頃、日本を訪れたキリシタンのパードレたちもそのことを書いている。しかし人びとはそのまずしさによごれまいとして、心だけは高く清いものにしようと努力した。戦国争乱の世の中でありつつ庶民はうそをつかず、物をぬすまないと異邦人たちは感嘆して書いている。」海外の人から見た日本人の印象は、ほとんどこのようなものでした。そういう意味では、日本人は、ホモ・サピエンスの生存戦略の多くを残していたと言えるでしょう。それは、日本人が、生存戦略の一つである「幼形成熟」をより持っていると言われていることからもわかります。

そして、このような日本人だからこそ、「子供たちのしつけの中で重要視されたのは、この清潔にして貧乏に負けない意欲であった。だから貧乏さえが美徳であった。」そして、日本人の子ども感をこう書いています。「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供にこれを具現してもらおうとする意欲があった。子供たちにも、またけなげな心構えと努力があった。」子を思う親の心は、今でも変わりません。しかし、未来を見る力、何が子どもにとって必要なのかを見る力が衰えてきた気がします。

「子供たちも過去から現在へ一貫して模倣―工夫―創造を、そのあそびやまつりや、仕事の中にくりかえしつつ成長しているのであって、しかしそれが親と子のつながり、大人と子供のつながり、子供同士のつながり、学校と子供のつながりなどによって、子供自身が人格として形成されていく。このような関連を環境と名づけるならば、日本における子供の環境は、決して悪いものとはいえなかった。ただ、組織的でなかったために、不幸な者が周囲にはみ出し勝ちだったし、学校と一般社会の融合に長い年月を要した。」

子供の成長、人格形成は、様々な人との関係の中ではぐくまれてくると言います。その関係において、日本では恵まれた環境であると言い、その様々な人とつながりを持つことができる恵まれた環境の中で、子供たちは世界の人々が感心するような高く清い心を持ってきたのだと言います。

宮本が言っているように、模倣―工夫―創造という時に、最初は、「模倣すること」から始まるとしたら、まず、「模倣すること」が、他人との関係の中で行われなければならないのです。それは、人類の遺伝子でもあるのです。そのかかわりの学びは、かつては「神のまつり」に参加させたり、仕事を手伝う中で、そして、もちろん遊びの中で子どもたちは学習していったのです。

女児のままごと

 子どもは、2歳になるころから盛んにままごとをするようになります。それは、大人の所作を真似るということがあります。ですから、ままごとは家庭で行われる家事を真似しますから、多くはお母さんを真似ます。そこで、ままごとをする子の多くは、女の子であることが多いのです。しかし、最近は、父親も料理をしますし、父親が配膳をすることもありますし、ほんの最近でしょうが、父親が化粧もするようで、その真似をするのは男の子も多くなりました。

 しかし、外国ではあまりままごとをする子たちは見かけません。ロールプレイングコーナーというのはあるのですが、そこでは、ままごとはそれほど人気がなく、例えば、郵便屋さんごっことか騎士ごっことか、いろいろな職業になりきる場合が多いようです。「こども風土記」のなかでは、「女児のままごと」ということで柳田さんは書いています。柳田さんのころは、やはりままごとは女の子の遊びだったようです。しかも、日本で発達したものであると書かれてあります。

 「この遊びが日本では特別によく発達しているということを、皆さんは多分まだ心づいておられぬだろうが、同じ年をとった人たちの所作を真似るという中でも、ままごとのお手本はそう手近いところにはないようだ。そうして男の子の鳥追いやもぐら打ちと同様に単なる遊戯という以上に、まだ一部分は村の公務といってもよい状態が残り伝わっているのである。」

彼は、男の子でも、大人のやることを真似て遊ぶのは、ままごとと同様であると言います。そして、その役割は、子どもの遊びというよりは、村の公務を学習する機能を持っていたと指摘しています。しかし、その手本となるものは、子どもの身近なところには少ないと言います。そこで、こんなままごとはどうかと提案しています。

「これを発見するには最初にまずこの遊びに、季節または機会があるかどうかを注意して行くのがよいかと思う。カマクラと称する秋田県の雪小屋などは、以前の鳥追歌や御火焚棒がまだ残っているにもかかわらず、今では女の児が火鉢なんか持込んで、静かに煮炊きをして楽しむ場所になっている。他の地方の正月小屋でも、餅を焼いて食べ、または世話をする宿があって、子どもばかりの食事をするのが彼らにとっては重要な事務であった。ただしこれだけは女の子を入れない。」

異年齢の子ども集団の中で、子どもたちの自治で行われていた活動は、やはり大人になるための学習であったようです。その多くは、男の子の活動でしたが、女の子の集まりもあったようです。
「天竜川筋の雛送りのように、三月節供の日に川原に蓆(むしろ)を敷き、火を焚いて飲み食いを中心にした少女の集まりがあるが、もとは東京の近くの馬入川筋の村にもあった。ままごとの地方色はいろいろある中に、若狭の常神村などでカラゴトというのが、やはりその川原事であったらしい。ただし三月の雛遊びの日に限らず、盆に川原に出て川原粥・川原飯を炊いて食べる方が、むしろずっとひろい風習であった。」

このような風習は、地域の中の様々な場所で行われていたようです。そして、「屋外で食べるだけでなく、調理までをするというのが一つの特色で、それによって辻めし(美濃)、門飯(五島)、門まま(紀州)などの名があり、またたいていは中元の行事であったゆえ、全国を通じて盆かまど・ボンクド・盆飯・盆粥という例が多いのである。食べ物を野天でこしらえるということは、大人でも興味を持つほどの珍しい事件なのに、ましてやこれに携わった者がいつの世からともなく女の童であった。」

このようなことをどうしてするのか、彼らにはわかっていないようです。「ただその面白さを忘れることができなくて、折さえあればその形をくりかえして、おいおいと一つの遊びを発達せしめたのである。」と柳田さんは言っています。

おもちゃ考1

 子どもは、長い棒を振り回して遊ぼうとするのは、どの国にもみられることなのでしょうか?また、それは、テレビの影響と言われることが多いのですが、テレビがない時代では、棒を振り回して遊ばなかったのでしょうか?また、私の孫が半年過ぎたころからいろいろなもので遊ぶようになりましたが、そのおもちゃは、おもちゃ屋さんで売っているものではなく、身の回りにある不思議なもの、それは概して大人にはさほど興味のないものを手に取ります。また、大人が使っている携帯電話とか、リモコンとか、掃除機、フライパンなどの生活用品にとても興味を持っていました。そして、それは遊ぶというよりも、なめまわすという感じです。

 柳田国男が、「こども風土記」の中で、「おもちゃの起り」という項を書いています。そこでは、かつておもちゃといわれたものを三通りに分けています。「最も数多いのは子どもの自製、拾ってすぐ棄てる草の実やどんぐりのようなものから苗株あねごとか、柿の葉人形とかの、うまくできたらなるだけ永く大事にしてしまっておこうとするものまで、親も知らないうちに自然に調えられる遊び道具、これを子どもは“おもちゃ”というものの中に入れていない。」とあります。子どもたちの身近にあったものは、自然物だったのでしょう。それは、遊ぶものというだけでなく、子どもにとっては宝物のように思えたものもありました。散歩に行くと、子どもたちは落ちている木切れや石ころを大切に持って帰ります。どんぐりなどは、まさに子どもたちにとっては宝物のようです。それは、自然界にあるものだけでなく、子どもたちは、身の回りにある者の中から宝を見つけ出すのが得意です。それは、大人にとってはガラクタでも、使えなくなった廃物でも、そこに何かしらの価値を見出すのです。

また、子どもは遊びの天才と言われるようにどんなものでも遊び道具にしてしまいます。それを支えている能力は、「見立て」という行為にあると思います。戦前物にある物を、何か身の回りの物に見立てて遊ぶのです。昔の多くはきっとそれが遊びのほとんどであったと思います。椿の葉を草履に見立てたり、人形に見立てたりして遊びます。どんぐりなどの実も、様々なものに見立てられて遊んだことでしょう。

ここで、柳田さんは、「おもちゃ」という名前の由来を書いています。「オモチャという語のもとは、東京では知らぬ者が多くなったが、今も関西でいうモチヤソビの語にオをつけたものにちがいない。その弄び物(もてあそびもの)を土地によっては、テムズリともワルサモノともいって、これだけは実は母や姉の喜ばぬ玩具であった。もっとも普通に使われるのは物さしとか箆の類、時としては鋏や針などまで持ち出す児があって、あぶないばかりか、無くしたり損じたりするので、どこの家でもそれを警戒した。そうしておいおいとその代りになるものを、こしらえて可愛い子には与えたのだが、最初はそれもただ親たちの実用品のやや小形のもの、たとえば小さな籠とか桶とか、箒や農具の類が多く、子どももまた成人と同格になったと思ってそれを喜んでいたようである。」

私の孫が、買ってきたおもちゃよりも生活用品に興味を持ち、それを触りたがるのは、「おもちゃ」という言葉の由来である「生活品をもてあそぶ」という行動そのものなのかもしれません。
時代が進み、おもちゃは買ってくるようになりました。それは、柳田国男が「こども風土記」の中でも触れています。

長い棒

「こども風土記」は朝日新聞に連載され、昭和十七年に朝日新聞社より単行本として出版されたものです。この単行本の小序に「子どもとそのお母さんたちとに、ともどもに読めるものをという、朝日の企てに動かされたのであったが、私にはもうそういう註文に合うような文章を書くことができなくなっているらしい。」と書かれているような依頼をされて書いたのですが、実際は年配者に読まれている内容になってしまったと書いています。しかし、この時代に書かれたものですが、その内容から子どもの原点見ることができます。

例えば、よく園から相談される内容に、「子どもが剣を作って戦いごっこをして困る」というものがあります。ブロックにしても、どうしても長くつなげて棒のようにしたり、新聞紙を丸めて棒のようにしたりします。
「こども風土記」のなかに「祝い棒の力」という章があります。ここには、「小児は全体に木切れを持って遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり昂奮する。なんでもないことのように我々は考えがちだが、実は隠れたる由来のあったことかも知れぬのである。」とあります。柳田氏は、子どもが長い棒を持つと昂奮するのは、きっと、何か文化や風土に由来があるのではないかと考えるのです。

どうも、昔から棒には何か力があると思われていたようです。それを「祝い棒」と呼んだようです。例えば、「正月の十五日前で、これを子どもが持つと、ちょうど神主さんの笏や扇子と同じく、彼らの言葉と行ないに或る威力がある、という風に昔者は今も感じている。単に目に見えぬ害鳥虫をあらかじめ駆逐し、または果樹を叩いてその木を豊産になしえたのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな児を生むとさえ信じていた時代があった。」と書いています。それは、日本各地に同じようなことがあるようです。

この祝い棒をダイノコと呼ぶ土地もあり、東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩き棒、九州の各地でハラメン棒、対馬でコッパラなどといったのも、すべてこの正月の祝い棒の名前です。『枕草子』にも、宮中の人たちが、隠れて女を打とうとしたことが面白く書いてあるのですが、柳田氏は、このような行事は戯れになりやすく、小児はまた決していたずらが嫌いではないため、しだいに今日の公認せられた悪戯となったのであるとしています。今の子は、棒を振り回す行事を見ることは少なくなりましたが、棒を振り回して戦う姿をテレビなどで見ることは多くなったため、いたずらとして棒を振り回すのは当然かもしれません。

また、「神としての木の棒があって、あるいは神が憑依するものとしての木の棒があって、その告げるものを聞くと言う原初的なもとの形があり、時にはそれが巫女による代弁という姿をとり、巫女が口の前で舞わせながら代弁する姿が童戯となって、ベロベロなめるベロベロの神を経てオシャブリになり、やがて人形のこけしとなる」とも言っています。古代の昔から、人類は長い棒に意味を持たせていました。それが、いろいろな文化に分かれていきます。そんな遺伝子が、子どもたちが長い棒を持つとテンションが上がるようになっているのかもしれません。しかし、地域に流れている長い棒の用途には、決して人を傷つけたり、人を攻撃するためには使われていません。

「こども風土記」の中で、柳田國男が棒にまつわる童戯のなかに、様々に発展する始原的な「もとの形」を的確に見ている視点は、子どもを考えるうえで、とても参考になります。

子ども組

 柳田国男の「こども風土記」には、伝統的集落の中の子ども組の姿が描かれてあります。「正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子どもの自治が行なわれていた。或いは年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とは一切が親玉の権能で、これに楯つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘な児でも、ここへ来ると欣々然として親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。」

このような子ども組は、「他にも飛び飛びに見られる土地は多い」と柳田は書いています。しかし、これらの子ども集団での学びは、青年たちを組織していた「若者組」ほど日常的なものではなく、その多くは、正月15日の小正月の他、3月、5月の節句、盆行事、11月の亥の子行事、などの年中行事の際に組織されていたものだったようです。特に、小正月は「子どもの正月」とも言われ、鳥追い、かまくら、もぐらうち、カセドリ、サギチョウ、ドンド、など地方によって多彩な行事が子ども等の手によって行われていました。子どもたちが、自主的に、木や藁、あるいは正月の飾りなどを集め、小屋や円錐型の建物を建て、雪でかまくらを作り、子どもたちがその中で共同生活するのが特徴でした。

このような季節限定の子ども組では、「我儘な子でもここに来ると違っている」というのは、明らかに家庭における子育てでのしつけと違う役目を持っていたと思います。また、ここでは威張っている子が、若連中に入っては使い走り、だまって追いまわされていて一向に頭が挙らないというように、様々な立場による人間関係を体験していきます。これも、異年齢集団における大きな役割でしょう。その集団では、「年とった者は少しでも干渉せず」というように、年を取ると「見守る」という立ち位置になるようです。

 これらの地域少年集団は、近世に広く認められる地域の子ども集団で思われますが、その後、学校教育の普及、旧暦から新暦への切り替え、など様々な近代化の波によって、消滅したり、あるいは子ども会へと衣替えしていったようです。

 また、それ以前を考えてみると、よくブログで取り上げた、江戸時代に薩摩藩での「郷中」、いまNHK大河ドラマ「八重の桜」で描かれている会津藩の「什」、他にも連(熊本藩)、社(土佐藩)など武家社会にも子どもらの自治的な集団が存在しました。これらの子ども集団の特徴も、同じようなものでした。まず、異年齢児集団であるということ。そして、大人の介入なしに子どもたちの自治であること。この中で子どもたちが学んだ人間関係は、大人になってからの「生きる力」になっていったでしょう。

児童文化

 幼児教育について、意図性とか誘導性とかが教育と捉えたときに問題になります。どれだけ保育に保育者は意図を持つか、それが専門性であり、質であると言われることもあります。しかし、このようなことはいつ頃から始まったのでしょうか。少なくとも、江戸時代まで、いや近代まで幼児教育において、子どもたちは大人の介入なしに遊んでいたはずです。柳田国男の「こども風土記」には、こう書かれてあります。

 「児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精一杯遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、今とよっぽど違った点があったのである。」子どもたちは、野山、町の中で遊びまわっていました。そこには、大人の介入はありませんでした。まして、大人の意図性など込められていませんでした。しかし、子どもたちだけで、何のルールも、秩序も、何の意図もなく遊びまわっていたでしょうか?現在、子どもだけでただ「遊べ!」と言って、いろいろなものを自ら創造し、遊び込むことができるのでしょうか?それが、一人で本を読むとか、一人でゲームをするとか、一人で遊ぶ場合は可能かもしれませんが、野山や町の中を遊びまわるときには、多くは大勢の子ども集団で遊んでいたはずです。そんな時には、子どもだけで任せては無理な気がします。そこで、柳田氏が言っているように「今と違った点」があったのでしょう。それは、なんなのでしょうか?

 柳田氏はこう書いています。「第1には、小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識したゆえ、悦んでその任務に服したのみならず、一方、小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気込んでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、おかげで、いろいろの珍しいものが伝わっていることをわれわれ大共も感謝するのである。」

 異年齢で遊ぶことで、いろいろな遊びが子どもたちの中に伝承されていったのです。その伝承ゆえに、特に大人の介入なしに遊び込むことができるのです。私は、幼稚園が保育者の意図性とか、大人の介入が保育者の専門性というのは、同年齢での保育をしていることも一因でないかともいます。子どもはもちろん、放っておいては何も学ばないかもしれませんし、遊びが広がらないかもしれないのです。それを、子ども同士の関係の中で達成するような働きかけこそ、高度な意図性であり、それこそが高い専門性なのです。柳田氏は、他にもポイントを挙げています。

 「第2は、小児の自治、彼らが自分で思いつき考え出した遊び方、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいえないほど面白いものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くために後回しにする。」こどもたちは、いろいろなものを想像していきます。それが集団の中では形になっていきます。この子供が生み出したものを柳田氏は集めてこのこども風土記などを書くことになるのです。

 そして、第3は、「今日ではあまり喜ばれぬ大人の真似、小児はその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔の大人は自分も単純で隠し事が少なく、じっと周囲に立って視つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それが遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。」

 大人の真似は、大人になってからすることになることの準備をすると意味もあったと言います。それは、必ずしも大人の間でだけでなく、年上の子の真似も同様で、それは、異年齢で遊ぶからこその機能です。

偉大な旅8

 人類が世界に拡散していった「偉大な旅」は、その途中で様々な文化を開花させていったようです。特に過酷な環境は、フルに人類が受け継いできた生きる知恵を人々の生活に根付かせたようです。乾燥地帯であるエチオピアのコエグ族も、モノを蓄えない人たちのようです。では、将来に対する備えをしないのかというと、別な形でしているようです。自分たちの親族内ではどうしても食糧が足りないときには、村の同じ年齢集団の中で助け合います。それでも足りないときは、近隣の牧畜民の中にいるベルモを頼ると言います。「ベルモ」というのは、いわば「義兄弟」のような関係だそうです。

 コエグ社会で最も大切なことは、「モノをあげたり、もらったりすること」と「人々が集うこと」だと言います。こうしていつも人々の結びつきを強くしておきます。「人のネットワーク」を強固にすることが、将来の蓄えとなります。コエグ内では、人々は「親族集団」と「年齢集団」に所属しますが、こうした行為によって他の民族ともベルモを介したようにネットワークが作られます。「モノを蓄える代わりにヒトを蓄える」のが、彼らの生きる知恵なのです。

 今回、国立科学博物館で開催されている「グレートジャーニー 人類の旅」の企画者である国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ員である篠田謙一氏は、関野氏が挑んだ日本人への道をこう説明しています。「DNAや化石の証拠から、現在ではわれわれ現生人類であるホモ・サピエンスは、およそ20万年前にアフリカで誕生し、6万年ほど前に出アフリカを成し遂げて世界中に広がったと考えられている。この学説に従えば、地球上に展開したあらゆる人類集団の起源の地はアフリカということになる。私たち日本人もアフリカで誕生したのだ。」

 ほんの10年ほど前までは日本人を含むアジアの現代人は、北京原人など100万年以上前のアジアに棲息した人類から進化したと考えられていました。しかし世界に展開した人類の歴史が従来説よりはるかに短いことが認識され、人類の世界展開のシナリオがDNAの系統が分析によって描かれるようになると、日本人の起源の地を問うことには、あまり意味がないことがわかってきたのです。

 現代では、日本人の成立の経緯を知るということは、その起源の地を探すことではなく、現代の私たちにつながる集団が、いつ、どのような経路を通って、なぜこの列島に流入したのかという問題を解明することだと認識するようになっているそうです。日本人の旅は、アフリカを出発した人類が成し遂げた壮大な旅路を一部を形成していると篠田さんは言います。

 人は、いろいろなことが解明されていくことで様々なことを納得します。それは、その人が携わっている分野から見て、非常に興味深いものでしょう。篠田さんは、人類史という観点から、アフリカから世界へ拡散したルートを知ることから、その民族の形成にどのような影響を与えたかということから、それぞれの文化の形成を知ろうとします。私は、最近、人類の誕生から、ホモ・サピエンスが生存戦略に成功し、誕生の地であるアフリカを出発して世界に拡散していくその途上で根付いていく文化を見ることで、人類本来の遺伝子を知り、その遺伝子を、次世代を担う子どもたちにどう繋いでいくか、何を繋いでいくべきかを考えることにとても興味があります。それは、その人類の遺伝子を、誕生まもない赤ちゃんから、幼児期にいたるまでの行動に直接感じることができるような気がしているからです。

 私にとっても、この人類の旅は、育児、保育を考える旅でもあるのです。

偉大な旅7

 人類は、世界どの地においても人にものを分け与えるという遺伝子を持っているそうです。それは、赤ちゃんが満1歳を過ぎるころから人にやたらと物をあげようとします。それは、どの国でも見られることで、いつの間にか文明が「物を貯めこむ」「物を所有する」という行動になってしまい、それによって遺伝子を途切れさせるような争いが起きるようになったと言われています。

 世界へ偉大なる旅に出た人類が、熱帯雨林を住処として、そこで生きていくための知恵をつけています。それは、もしかしたら、つけていくのではなくもともとの人類の遺伝子の中で、ある知恵を残していくと言った方が正しいかもしれません。熱帯雨林に住む先住民族であるマチゲンガ族では、焼き畑を営みながら採集狩猟をして暮らしています。男は弓矢で狩猟をし、女と子どもが果実や魚、虫、貝などを採集します。豊富に採れる採集物は、各自のものですが、狩りで獲得した獲物は解体し、みんなで分配します。マチゲンガでは、ケチが最も嫌われますが、それは高温多湿のためにモノを蓄えることができない熱帯雨林の環境の影響が大きいのです。こうしたモノの平等の他に、心理的な平等も重んじる習慣がマチゲンガにはあるそうです。

 私たちの社会は、物を貯めこむことで将来の不猟、不作に備え、蓄財によって分業が始まり、これが偏在と身分の差を生みました。一方、マチゲンガなどモノを貯めこまない社会で重要なのは、モノを必要としている者に正しくモノが行き渡ることです。彼らも所有権はしっかり持っています。野生のヤシの木でも、最初に見つけて利用したものが所有者になります。実際「これは俺のモノだ」という意識は強いのですが、われわれの感覚とは違うことも多いそうです。モノに固執せず、そのとき必要ないモノであれば、欲しがっている者に簡単に譲るか貸してしまうそうです。グループ内でたらふく食べている者がいる一方で、同時に飢えている者がいるということはないそうです。少人数の集団で、独り占めするような者が現れれば限られた食料をめぐって争いが起きるでしょう。皆にモノが公平に行き渡るので争いは起きません。
人類「偉大な旅」を自ら体験した関野さんは、マチゲンガ族のことをこう言っています。「皆が“いい人”で、“気前がよく”“モノ離れがいい”のかというと、おそらくそうではありません。自分だけ、あるいは自分の家族だけ良ければいいと思うこともあるでしょう。しかし、自分の赴くままに生きていけばグループ内に争いが始まり、そのグループは生き残れない。独り占めせず、皆で分けた方がコンスタントにモノが手に入り、争いが起きにくいことに気づき、かつ長い期間それで共同体がうまく維持できれば、それが常識として倫理化されます。そして、この倫理に則った振る舞いが期待されるようになるのだろう。」

過酷な環境の中で生きていくためには、生きる知恵を学習能力は高い気がします。今は、どうして争うようなことを繰り返し、少しも学習していかないのでしょうか?

さらに、岡野さんは続けます。「さらに面白いことに、マチゲンガはモノをもらった者が持つ負い目をも無くそうとします。」手柄を立てたときも、獲物をしとめたきも、決してはしゃぎもせず、威張らず、必要以上に自慢もせず、だからこそ、モノをもらっても負い目を負う必要がない社会なのだと岡野さんは強く感じたようです。