汝を知る

 最近、ドイツの幼児施設や小学校を見ると、力を入れているであろうことが目に付きます。日本での施設の課題は、今、第三者評価に代表される他者による評価があります。それは、施設に限らず、いわゆる成績は、他者による評価の結果です。数年前にドイツに行くと、玄関に貼り出されてある第三者評価結果が目に付きました。それが、ある年、保護者による評価結果が貼り出されているのを見るようになりました。それが、最近は、子どもによる評価を貼り出してある園を見るようになりました。一昨年訪れた園で、給食を食べ終わった食器がワゴンによって調理に戻されるときに、子どもが笑っている顔、普通の顔、泣いている顔の札がくくりつけられているのを見ました。それは、子どもが今日の給食はおいしかったのか、まずかったのかという評価を表わしている顔だそうです。

 あわせて、数年前から、子どもによる自己評価をいろいろな場面で見るようになりました。例えば、学びの部屋にある文字コーナーの遊びによって、自分は文字に触れることができたと思うと、そのコーナーを表わす色のおはじきを自分のビンの中に入れます。そのようにあ自分の取り組みを評価します。そして、そのおはじきの色を見ることによって、自分はそのコーナーではあまり取り組みがないと判断し、そのコーナーを次の機会には選んだりします。自己評価をし、その結果を次の活動に結び付けていくのです。

 昨年見学した小学校2年生の算数の授業でも、取り組んだ問題の答えがあっているかではなく、その問題が自分にとって難しかったのかどうかを自己評価する力をつける授業をしていました。
 EQという「こころの知性」の要は「現在進行中の自己の心的状態を認識する」であり、ソクラテスが箴言した「汝自身を知れ」ということだと言います。ゴールマンは、その説明に日本の古い話を持ち出して説明しています。「血気はやるサムライが禅僧に、地獄とは何か極楽とは何か、と問う。しかし禅僧はサムライの問いを一笑に付す。“この無骨者が。お前なんぞに関わる暇は持たぬ。”体面を傷つけられたサムライは激怒し、刀をぬいて大声をあげた。“無礼な!切り捨ててくれる!”“それを地獄と申す。”禅僧は静かに答えた。怒り狂った自分の心をズバリ突かれて我にかえったサムライは、刀を鞘におさめ、禅僧に向かって一礼した。禅僧は再び口を開いた。“それを極楽と申す。”」

 心が乱れている自分の状態に突然気づいたサムライの話は、感情にとらわれて我を忘れた状態と感情に押し流されている自分自身を認識している状態との決定的な差異を物語っていると解説しています。ニューハンプシャー大学の心理学教授のジョン・メイヤーは、自分の感情を認識することとそれを変えようとして行動を起こすこととは論理的にはは別だが、二者が事実上同一不可分だと指摘しています。不愉快な気分を認識することは、すなわちその気分から脱出しようと考えることだからと言います。ただし、こうした認識は衝動にもとづく行動そのものを抑止することとは違います。こんな例を挙げています。幼児が怒りに任せて遊び相手に殴り掛かった場面で「やめなさい!」と命ずれば殴る行為そのものは制止されますが、怒りは解消しないのです。「だって、あの子がおもちゃをとったんだもの!」子どもの思考は依然として怒りの原因に向けられ、怒りの感情は収まらないのです。情動の自己認識は、強い嫌悪感をコントロールするうえで特に効果的だといわれています。「いま自分が心に抱いているのは怒りだ」という認識は、怒りに任せて行動するのをやめるという選択肢だけでなく、怒りという感情そのものを放棄する選択の自由を与えてくれるのです。

 幼児のころから、自分の心に向き合い、自分の心を見つめることをすることが大切で、けんかをしようとする前に止めたり、大人の命令で止めさせたりすることは、決して解決にはならないということを幼児教育に携わっている人は知るべきです。