ゆとり世代

 子どもたちにとって必要な学力とは、OECDが行っているPISAの学力調査での問題や、有名校への受験問題などが変わってきたことなどから、今までのただ知識を蓄える量の問題でないことはずいぶんと前から言われてきました。また、実際に社会に出ても、知識量の多さだけでは生きていくうえで役に立たないこともわかってきました。それでもなお、必死に知識を増やそうとしたり、一斉に何かを教えようとすることが教育であることから抜け出せないのでしょうか。

逆に、最近の大学生が、あまりにいろいろなことを知らな過ぎる、あまりに常識と言われる知識さえ知らないと嘆く教授たちも多くいます。また、学力調査でも、学力が劣り始めていることがわかりました。そして、それは、ゆとり教育の申し子で、ゆとり教育の弊害であると言われます。しかし、彼らが、ゆとり教育で、知識でなく何を学んできたのでしょうか。習得した知識が減った分だけ、他にどんな学力が増したのでしょうか。ただ、何もしないでぶらぶらしていたのでしょうか。また、このような教育を受けた若者たちが、社会に出たとき、役に立たないのでしょうか。

Business Mediaの中で桑原正義氏は、こんなことを言っています。「“若手社員が思うように育たない。その原因は“ゆとり教育”にある”と思っている人もいるだろう。しかしこの考え方は、本当に正しいのだろうか。原因は学校教育にあるのではなく、バブル崩壊以降の働き方の変化にあるのかもしれない。」確かに、社会に出たときの若者での問題は、「ひきこもり」や「現代うつ」、また会社経営者の悩みとして「「若手社員が思うように育たない」「早期離職者が増えている」「メンタル不全者も増加傾向にある」などがありますが、これらの原因は、ゆとり教育にあるのでしょうか?私は、ゆとり教育世代が高等教育になるにつれて、学力低下を起こし、それが問題になりゆとり教育を見直しましたが、では、その世代が世の中に出て働き始めたとき、学力が知識だけで社会に出たときに、どのような問題が起きるかをきちんと検証しなければならないと思います。

桑原氏の言う「仕事内容の変化」は、どんな変化なのでしょうか。それは、「国内経済の成熟化やIT化」、「グローバル化の進展によって企業間の競争が激化」だと言います。彼が、この厳しい環境下において成長している若手とそうでない若手を比較分析したところ、興味深い事実が見えてきたと言います。「成長を分けていたのは学力や知識・技量ではなく、厳しい環境下でも逃げずに向き合い、何とかしようとする行動力でした。私たちはこれを“現実対峙力”と呼び、今の新人・若手育成において最も重要な育成目標に置いています。」

では、この“現実対峙力”が低下してきた原因はどこにあるとしているのでしょうか。それは、今の若者が育った環境の変化にあるとしています。その環境は、「少子化」「都市化」「経済的豊かさ」「教育・しつけの変化」などをあげています。その環境の中で次のような重要な経験が不足してくると言います。「厳しい指導・叱られること」「不条理」「我慢・軋轢」「挫折・失敗」「自己決定」という経験が減り、「与えられる」「思い通り」という経験が多くなります。その結果“現実対峙力”である「働きかける力」「逃げない心」「自己信頼」が減少し、逆に「成長欲求」や「貢献欲求」は増していると言います。

こに教育の難しさがあります。世の中に出て必要な力をつける教育とは、学校内で行われるものだけでもありませんし、家庭内で行われるものだけでもないのです。また、知識だけが必要なのではなく、知識がいらないわけでもないのです。それが、今までのIQという知能に加えてEQという「こころの知能」を育てていく必要が生まれてきたということなのです。

おたく

 最近、「おたく」という存在が社会において重要ではないかと言われています。「おたく」とは、ある分野での専門家ということもいえるわけで、これからの時代では、広くいろいろな知識を知っているよりも、なにかを詳しく知っているとか、ある部分を楽しめる人材が必要になってくるからです。それは、昔からある「職人」と呼ばれていた人たちと通じるものがあるのです。しかし、職人というのは、一つの優れた技を持っている半面、少し偏屈で、自分にとことんこだわり、一人で仕事を黙々とやる職業というイメージがあります。最近増えてきている「ひきこもり」の若者が問題になっているのは、かつての職人のような一人で黙々とやる職業がなくなり、ほとんど人とかかわる職業になったからだと言われています。では、「おたく」のような人がこれからの時代には重要な役割を持つようになると、それらの人たちは、一人の技、技術を高めることが必要で、EQと呼ばれる「こころの知能」は必要ないのでしょうか?

 「こころの知能」の高い人は、自分の気持ちを自覚し制御できる人、他人の気持ちを推察し対応できる人であるので、職人のように限られた、親しい人たちだけの付き合いが中心であっても、それらの人間関係においても、組織の中で泳ぎまわることの必要な職業同様、自分の能力をうまく発揮できる心の使い方を自覚している分だけ、人生における満足度や効率が高いということがわかっています。自分の感情をコントロールできない人は、内面が混乱していて、仕事や思考に能力を集中することができないのです。

 日本では、文部科学省により、全国的に子ども達の学力状況を把握する「全国学力・学習状況調査」を平成19年度から実施しています。この調査は、小学校では、国語・算数とし、中学校調査は、国語・数学としています。この調査自体は、実態の把握としては必要かもしれませんが、この結果によって、都道府県単位において、これらの教科だけの競争になってしまい、学校生活が一つの価値観に限定されてしまわないかと心配になります。それは、この学力の高さだけが、将来の子どもたち一人一人が幸せに生きる力となるのか、将来、社会に貢献することになる力となるのか、成功にいたる力となるのかが疑問です。

 そして、そのための頭の良さを「知能指数」といわれているIQ の高さを調べるのです。この知能テスト信仰は、第1次大戦中にスタンフォード大学の心理学者ルイス・ターマンが新しく考案した筆記式のテストを使って200万人のアメリカ人男性を知能指数別に分類したのが始まりだと言われています。その後、「IQ的思考」の時代が続きます。それは、「頭がよいか悪いかは生まれつきでどうしようもないのだ」という考え方です。この考え方に、昨日のブログで紹介したハーバード大学のガードナーが異議を唱えたのです。「大学進学適性試験も知能テストと同じで、たった一つの基準で人間の能力を評価し将来を決めてしまおうというものの考え方でした。こういうものの考え方は、社会全体に浸透しています。

 ガードナーは、知性のキーワードを「多重性」と言っています。確かに、学力調査でいうところの「国語」にあたる「言語的知性」とか、「算数」にあたる「論理数学的知性」は必要ですが、ほかのも「空間的知性」とか、「身体運動的知性」、そして、最も大切な知性である「対人知性」「心的知性」とよばれる知性によって構成される「人格的知性」があるとしています。彼は、「小、中、高、大学生を苦しめつづける種々のテストも、人生で本当に重要な才覚や能力からずれた狭い範囲の知能を問うものでしかない」と言っています。

 いろいろな分野で才能を持った子どもたちを、ひとつの価値観で判断してしまうのは、もったいないですね。インドから、多くの天才が生まれているのは、子どもたちが変にいじくりまわされていないからかもしれません。

人生の成功者

 “Emotional Intelligence” (邦訳『EQ こころの知能指数』)の著者であり、心理学者であるダニエル・ゴールマンは、自らの研究分野である心理学には公然の秘密があると言います。それは、「学校のテスト、知能指数、SAT(大学進学適性試験)など広く世間で信用されている評価基準は人生における成功度の予言としてはあまり当てはまらない」という事実があることだと言います。なお、このような付け足しを言っています。「たしかに、大きなグループ全体として見れば、IQと生活水準のあいだには相関関係は存在する。IQの高い人々の多くは高給取りになっている。けれども、例外なくそうなるわけではない。人生での成功度とIQとの相関関係には例外がある。例外の方が多いくらいだ。人生を成功に導く要因のうち、IQが関係するのは多く見積もってもせいぜい20%どまりだろう。」

 もちろん、それは、分野によって違うでしょう。しかし、冷静に見まわしてみて、成功者と言われている人たちは、どうでしょうか。親たちは、わが子を成功者にしたいと思っています。だからこそ、勉強をさせ、成績が良くなることを望みます。しかし、自分の子どものころにいろいろなことを知っていた、成績が良かった、という子が、いま成功者になっているでしょうか?必ずしもそうでない場合が多いかもしれません。また、そんな人が自分の人生に満足しているとは限りませんし、友人や家族との人間関係や恋愛面で幸せだとも限りません。それなのに、なぜ、わが子の教育に必死になるのでしょうか?こんなことを言っている人もいるとゴールマンは紹介しています。「ある人間が社会でどのような地位に落ち着くかは、社会階級から運不運にいたるまで、およそIQとは無関係な要因であらかた決まってしまうものだ。」

 では、成功は偶然なのでしょうか?運なのでしょうか?努力しても意味がないのでしょうか?教育とはなんなのでしょうか?逆に、では、どんな力が成功者となるために必要なのでしょうか?自分の人生に満足し、幸せを感じる人生を送るために、どのような力が必要なのでしょうか?教育とは、子どもたちにどのようなことを教え、どのような力をつけることなのでしょうか?もし、自分にある才能があった時に、それを生かすためには、どうすればいいのでしょうか?

 ゴールマンは「こころの知能指数」というEQが必要であるとしています。「こころの知能指数」とは、自分自身を動機づけ、挫折してもしぶとく頑張れる能力のことです。衝動をコントロールし、快楽を我慢できる能力です。自分の気持ちをうまく整え、感情の乱れに思考力を阻害されない能力のことです。他人に共感でき、希望を維持できる能力です。これらの能力であるEQが、IQと同等、あるいはそれ以上に人生を生きる間に生じてくる個人格差を生み出していると言います。しかも、IQについては経験や教育の力で大きく変えることは不可能だという説がありますが、EQについては重要な部分は子どものうちに教えれば向上さることが可能であると言います。

 ハーバード大学教育学部の心理学者ハワード・ガードナーは、「そろそろ才能というものをもっと広範囲にとらえるべき時期にきていると思います。子どもの発達のために教育がなしうる唯一最大の貢献は、その子が自分の才能に最もふさわしい方面に進んで能力を発揮し満足して生きられるよう応援してあげることです。私たちは現在、そのことが見えなくなっています。今の学校教育は、生徒全員を大学教授に仕立てようとするかのような内容です。そして、そのような狭い基準に負うかどうかだけですべての学生を評価しています。学校はいいかげんに子どもをランク付けするのをやめて、子どもたちがそれぞれに持って生まれた才能や資質を見つけ、それを伸ばしてやることに力を注ぐべきです。成功にいたる道は何百何千とあるのだし、そのために役立つ能力だって実に多種多様なのですから。」

 日本では、どうでしょうか?

情と知

 今、私たちの心は、胸にあるのではなく、脳にあることは誰でも知っています。胸にあるのは、血液を全身に送り出す心臓という臓器があるだけで、感動するという心は脳で感じることです。しかし、だからといって、ヒトには「こころ」がないということではありません。そして、その心は、「頭では分かっているが、心では納得できない」というように、しばしば頭と心は闘うことがあります。また、よく理性と感情というように、このような思いが、同じ脳の中の営みであるにもかかわらず、相反することを人は感じることができるのでしょうか?理性と感情は、脳の違うところの働きなのでしょうか?

 ヒトは、怒りとか、共感とかをコントロールしているのは、知能テストの対象となる大脳新皮質とは全く別の、情動の脳なのです。しかも、この情動の神経回路は、子ども時代に経験を通じて形づくられていくことがわかっています。では、この情動は、理性的な判断とは関係ないのでしょうか。それぞれが、脳の中での違う場所での働きですので、別々に働くのでしょうか?たしかに、片方が壊れてももう一方は動きます。しかし、アメリカでこんな事例がありました。情動をつかさどる部分が損傷してしまった患者が、知能指数や認知能力は全く損なわれていず、知能が高いにもかかわらず、意思決定をするときに問題が起きてしまったそうです。仕事や私生活において破壊的な選択をし、ひとと会う約束を何時にするかという決定までもできなくなってしまったそうです。この時の研究結果から、意思決定ができないのは情動に関わる記憶が失われてしまったからではないかということになりました。そして、理性的な判断を下すために感情は不可欠な要素であると、この研究を行ったアイオワ大学の神経科医ダマシオ博士は主張しています。感情によって私たちはまず大まかな方向性を与えられ、そこで初めて論理的知力を発揮できるというのです。

 このことは、非常に重要な意味を持ちます。子ども時代に経験を通じて形づくられる情動の神経回路がなければ、大人になっていくら理性的な知識を学んだとしても、理性的な判断が下せないということです。情動は理性にとって重要な存在であり、情動と理性の掛け合いのなかで、情動の脳は理性の脳の思考を助けたり邪魔したりしながら私たちの下す判断を方向づけているというのです。逆に、同じように理性の脳も情動をコントロールする役目を果たしているのです。

 このことから、EQを提案したゴールマンは、私たちのなかには二種類の脳、二種類の知性があり、それは、考える知性と感じる知性であると言います。私たちが人生をうまく生きられるかどうかは、両方の知性のバランスで決まるとしました。それが、知識の知能指数であるIQと心の知能指数であるEQで、ともに大切だというのです。感じる知性がなければ考える知性は十分に機能できないからです。大脳辺縁系と大脳新皮質(あるいは扁桃核と前頭前野)は、互いに補い合って精神生活を支えているのです。この協調関係がうまくいくと、EQもIQも向上するというのです。

 この彼の主張する考え方は、それまでの理性と感情を対立する精神活動としてとらえる従来の考え方をくつがえしました。旧来の、感情の影響力から解放された理性を理想とみなしてきた考え方から、情と知の調和を達成することが大切であるとしたのです。したがって、情と知が調和した生き方をするために、私たちはまず感情をかしこく操縦する法を知らなくてはならないと訴えます。

脳の進化

 以前のブログで、私が「情動の科学的解明による…」という会議に出ていることを紹介しましたが、その会議はまだ途中ですが、実はゴールマンは、脳科学からもEQについて説明しています。その内容は私たちからすると少し難しいのですが、この説明が多くの人を納得させました。ゴールマンが注目された「EQ・こころの知能指数」という本の中で、脳の進化の過程がわれわれの感情や反応行動にどのように影響しているのかを描写しています。彼は、何百万年という進化の過程で脳が3つの主要部分から構成されるようになった経緯を第1章で概説しています。

 脳の中で最も古い部分は脊髄の上端に位置し、脳のいちばん下にある「脳幹」という部分です。この脳幹は身体機能や生存本能をコントロールし、脳の最も原始的な部分で、考えたり学習したりする機能は持っていません。ですから、生体を維持し、命を守るのに必要な機能は、あらかじめ決められたプログラムに従って調節するのです。爬虫類の時代には、この脳が主役だったのです。

 やがて、情動を支配する部分が発生し、さらに何百万年という時間を経て、脳幹のすぐ上に思考する脳である大脳辺縁系が発達していきます。この進化を見ると、思考する脳が生まれるずっと前から、情動の脳は存在しているということになるのです。ところが、原始哺乳類の登場とともに、情動を支配する脳に大きな進化が起こります。この脳によって脳は独自の感情機能を持つようになるのです。そして、この脳の部分は、進化につれて「学習」「記憶」の能力を向上させていきます。学習と記憶という二つの能力が革命的に発達したおかげで、哺乳類は生死を分ける場面で適切な選択ができ、対応に工夫することができるようになります。大脳辺縁系には扁桃核と呼ばれる領域があり、その重要性は1980年代にジョセフ・ルドゥーが指摘しているそうですが、脳は視覚やその他からのインプットに対する情動的で生存に直結する反応を扁桃核に記憶します。扁桃核は状況によっては脳を「ハイジャックする」ことができるようで、考える間もなく人の反応を文字通り乗っ取り、ある状況に対する即時対応を引き起こします。この扁桃核は時として、合理的思考や熟慮の上での反応能力を征服するような衝動行為の引き金となることがあるのです。

 そして、いまから1億年前、哺乳類の脳は一気に大きく成長します。計画し、近くしたことを理解し、身体の運動を調節する働きを担っていた皮質の上に何層もの脳細胞が付け加わって、大脳新皮質ができたのです。以前のブログで「ヒトの脳の大脳皮質が極度に発達しているのは社会集団の中で生き抜く社会性を身につけるためだった」と書いたのですが、私たちホモ・サピエンスは、他のどんな動物よりもはるかに大脳新皮質が大きく発達しています。人間の人間らしさは、この大脳新皮質に由来しているそうです。

 感覚器官を通じて得た情報を、人減の脳はここで総合し理解します。また、自分が抱いている感情について考えることができ、思考や芸術や記号や空想に対して様々な感情を抱くのも、この大脳新皮質が備わっているからなのです。そして、私からすると人間にとって最も重要な働きともいえる母子間の愛情をはぐくむこともできるようになったのです。親子の愛情は、家族生活の基盤であり、長い時間をかけて子どもを一人前の人間に育てていくために必要な感情です。反面、爬虫類のように、この大脳新皮質を持たない動物には、母性愛はないのだそうです。

 では、どうして人間は時として理性を失い、思考を停止させ、情動に任せて行動をしてしまうことがあるのでしょうか。また、母子間のあいだでも、子どもに愛情を感じないことがあるのはなぜでしょうか。ここに、IQからEQの必要性が出てくるようです。

インド報告15

インド政府では、保育内容についてっ整備をしようとしていますが、同時に教員養成についても検討し始めています。それは、現在、乳幼児対する教員養成コースの要件や基準を規定する法規が存在せず、様々なアクターが、異なる形態のコースを提供しているからです。私が訪れた施設では、1年間の養成校に行って資格を取ると言っていましたが、国立教員教育協議会(NCTE)の認可組織である「全インドECCE」では、2年間の保育士訓練(NTT)コースが実施されています。このコースを修了すると、ディプロマが授与され、英語を教授言語とする民間や、政府系の正規の就学前教育施設の一部で採用条件とされています。また、通信教育でも資格が取れます。インディラ・ガンディー国立オープン大学では、後期中等教育(第12学年、日本の高校3年生に相当)修了者に2年間のディプロマコースを、国立オープン学校協会では、前期中等教育(第10学年、日本の高校1年生に相当)修了者に1年間の資格取得コースを提供します。しかし、アンガンワディでの保育士養成は、わずか2週間程度で修了してしまうそうです。

インド門(デリーの凱旋門)

まず、インドでは、いわゆる義務教育の整備が課題で、2010年に「無償義務教育に関する子どもの権利法」が施行され、6歳から14歳の子どもは無償教育を受ける基本権をもち、政府はそれを提供する義務を有することが規定されました。しかし、この法律では、6歳未満の子どもは「基本権」保有者の対象外」とされてはいますが、第11条の中で、「3歳より上の年齢の子どもの初等教育への準備と、ECCEの提供のため、所管政府はこれらの子どもに無償の就学前教育を提供するのに必要な措置をとることができる」と明記しています。そこで、まず、1年間のECCEクラスを公立小学校に設置するよう準備が進められています。

モトワニさん宅にあった日本とインドのコラボのはめ込みガラス


また、日本ではすでに批准している「子どもの権利保障」を目指す政策的方向によって、いままであまり手を付けなかった乳幼児期についても、その保育を受ける公平性と質を保つため、女性子ども開発省が、2012年、「国家ECCE政策」、「カリキュラムの枠組み」、「ECCEの質の水準」というECCEに関する3つの草案を起草しています。そして、ECCE(乳幼児期におけるケアと教育)を統制する最高機関となる「国家ECCE協議会」の設置し、ECCEに関する連邦レベルの政策枠組み及びこの政策を実施するための法的枠組みの策定、認可登録制度の構築、設置・運営基準の設定、モニタリング・研究・評価・教員訓練の強化などのための法制度整備が進み、すべてのECCEプログラムに共通するカリキュラムの指針、乳幼児の発達にあわせた教授法や教材、教育プログラムの計画方法など、実践に役立つガイドラインも提示されています。

 今後、日本は同じアジアの国々と乳幼児教育についての交流をしていかなければならないでしょう。私の書いた「見守る保育」の英語版がありますが、現在、韓国語版と中国語版が計画されています。今回の最終日に、まずネルー大学に行きました。1969年、ニューデリー南部に建設され、面積4平方キロメートルという広大な敷地で、総学生数は約7,000人もいるそうです。ここは、基本的には大学院大学で、今回通訳してくれた方は、この大学の大学院生の方でした。

 最後の晩は、ネルー大学大学院教授であるモトワニ博士の自宅で、手料理をごちそうになりました。インドの料理は油を多く使いますが、油少なめで、あまり辛くなく、とてもおいしい料理をいただき、
 そのあと、空港に向かいました。

インド報告14

 今回のインドでの乳幼児施設での見学は、まず、保育内容としては「モンテッソーリを基本にしています。」と言います。しかし、実際のモンテを保育に導入しているのは、最後の園だけで、他の園には、教具はもちろん、その「お仕事」と称されるような指導も援助もなく、何を指しているのかはよくわかりませんでした。それは、ドイツでも同じことで、「モンテッソーリ教育を取り入れている」ということをよく聞きますが、ドイツではインドと逆に、どの園にもモンテッソーリが開発した教具が置いてあるのですが、それの使用については、保育者は子どもに全くつかず、その使い方の援助もなく、コーナーに置かれていて、子どもたちは自由に、使い方も自由に使っていました。ですから、ドイツにおける保育者は、モンテッソーリ教育の指導法は学んではいませんでした。どうも、園や保護者は、何か保育メソッドの名詞に当てはめようとするようです。今日の朝、職員から個人面談の中で保護者から「この園は自由保育ですよね。」と言われ、多くの保護者は、そう思っていると言われたそうです。職員は、どの場面の、どのような保育を見てそう思ったのかと思ったそうです。朝晩、送迎のときに子どもたちが自由に遊んでいる姿を見てそう思っているのかもしれないということで、「もっと保護者にいろいろと意図を持って保育をしていることを伝えた方がいいのではないか」と思ったという報告を受けました。しかし、昨年の園の利用者調査では、調査機関から「こんな高い比率は初めて」と言われたほど、「園の理念を理解していますか?」という問いに対して90%以上の保護者が「理解している」と答えているのです。
しかし、どのような保育メソッドを参考にしようが、取り入れようが、どの国でもきちんと自分の国、地域における保育理念を作成しているか、しようとしています。1980 年代以降、インド政府は、世界銀行の支援の下、母親と乳幼児を対象とした総合的な福祉プログラム(Integrated Child Development Strategy)を開始しました。これは、各コミュニティに「アンガンワディ・センター」と呼ばれる保健所と幼児教育機関を兼ねた施設をつくり、一定期間トレーニングを受けた「アンガンワディ・ワーカー」と呼ばれる地域住民の女性が、就学前の子どもに幼児教育を提供すること、そして、出産前・乳幼児をもつ母親に対しては、家庭訪問を通じて出産・育児支援することを目的としたプログラムのようです。そして、就学前の子どもは、アンガンワディ・センターで、文字の読み書きや絵・歌・遊戯などを学び、給食を食べたり昼寝をしたりして過ごします。このようなアンガンワディ・センターという施設が、現在、インドでは最も普及している就学前教育の場(受益者は2011年現在では約3,800万人)ですが、まだまだそれが徹底しておらず、州政府やNGO が運営する幼稚園・保育学校では、独自に運営しているようです。しかも、この活動は、健康・栄養状態が思わしくない乳幼児の発育を広範囲にわたって支援している点で評価されてはいるのですが、その主たる対象が3?6歳の幼児となっており、より支援を必要とする3歳未満の乳幼児に十分なサービスが届いていないこと、また教育的要素が十分機能していないことが指摘されています。
また、管轄する省庁もインドでは、ECCEの提供において主要な役割を担っているのは、女性子ども開発省(Ministry of Women and Child Development)です。ここでは、ただ就学前教育についての管轄ではなく、1975年より、農村地域やインドの少数民族、スラムや低開発地域の子どもを対象に、アンガンワディ(Anganwadi、ヒンディー語で「中庭の施設」の意)と称する地域センターで、保健・栄養・教育を含む子どもの統合的発達サービスを無償で提供しています。現在、受益者は約7,800万人とICDSの受益者の倍近くにものぼります。

インド報告13

 日本において、保育者の社会的地位の低さが問題になっています。特に保育園における保育士さんは、社会的地位だけでなく、その処遇の低さも問題です。人生において、ヒトとしての重要な時期を担い、国としての将来の投資であるべき乳幼児教育、また、それだけでなく、最近は保護者や地域の人々の安全基地としての役割まで求められてきているのです。その低さは、日本だけの問題でもないようです。それは、長い間、乳幼児期を相手にする仕事は、子どもの面倒を見る、世話をするというということであり、特に専門性を要しないと思われていたことと、保育者は、母親の代わりというイメージのためにほとんど女性だったために、処遇が低いようです。それが、最近の研究で、とても重要な時期としての乳幼児という捉え方に変わってきているのです。

 インドでは、非常に格差が激しく、中、上流家庭では、子どもの面倒を見たり、食事や掃除などの家事をするメイドさんがいます。それにならって、幼児施設にも、先生とメイドさんがいます。先生は保育室内で子どもたちにいろいろと教育する担当で、メイドさんは、廊下で待機していて、子どもがトイレに行くとき、服を着替える時などを手伝います。よくアメリカなどで見られるケアギバー(child-care giver)よりも、子どものやることを手伝うようです。そして、先生と呼ばれる教員は、モンテッソーリ教育の指導などを養成校で受けた人ですが、私立の就学前教育施設に従事する教員の多くは、教員訓練を受けた経験が乏しい無資格教員であり、低い給与で雇われているようです。それは、インドではいまだに乳幼児の世話は女性が行うものという社会通念もあって、幼児施設の保育者の多くは女性であり、これら低賃金で子どもの世話に従事する保育者は、法的にその身分が守られず、経営者によって搾取されていると指摘するひともいます。

 三日目に訪れた、ビルの1階の自宅を改装した保育施設では、1歳から3歳までは9時から12時まで、3歳から10歳までは8時30分から18時まで保育しているそうです。保育の目的は、最近の核家族によって失われてきた「仲間づくり」です。職員配置は、一クラス13?17人で、教員2人にメイド1人です。ここにいる教員は、1年間養成校で、絵を描いたり、子どもの面倒をどう見るか、モンテをどう教えるかを学ぶそうです。また、園長は、大学で修士課題をクリアした人と言っていました。この園の近くの家庭の保護者の年収は50,000インドルピー(現在レートで83000円くらい)で、共稼ぎで年収8?10万インドルピーだそうです。この乳幼児施設の入園料は6000インドルピー、保育料は月1600インドルピー(2670円)だそうです。ほかの園もほぼそれくらいだそうです。それに対して、保育者の給料は、月給4000?5000インドルピー(6700?8350円くらい)だそうです。

 最後に訪れた園は、純粋にモンテッソーリ教育を行っている園でした。入り口近くに、教具が部屋いっぱいに並べられており、保育者が一つずつ、その意味を丁寧に説明してくれたので黙って聞いていたのですが、正直そんなことは知っているということばかりでした。
 そのほかの保育室は、他と同じように、部屋にはカラフルな机といすが並べられ、壁には英語で書かれたり、生活に関係する図、棚には、車やぬいぐるみなどが並べられています。

 いよいよ最終日は、今回の目的である私の著書「見守る保育」を英訳してくれたネルー大学の大学院教授モトワニ氏の表敬訪問で、彼のご自宅での夕食に招待されています。

インド報告12

 インドの幼児施設で、今回見学した園はモンテッソーリ教育を基本とすると言っても、どの園でも年齢別にクラスを構成していました。それは、まだ多くの園では、スクール形式と呼ばれる一斉に椅子に座り、前を向いて先生のやること、話すことを聞くというスタイルですから、年齢別に分けて保育をすることになったのでしょう。今回のインドでの訪園は、冬休みだということもあり、子どもたちの普段の活動を見ることができなかったので、どのくらい子どもたちが自主的に遊んでいるか、主体的に生活しているかを見ることはできませんでした。

 そんな理由で、最初の見学園では、4,5歳児の保育室も3歳児の保育室とほぼ同じような設定で、部屋に数人が集まれるような机と、化粧コーナー、絵本コーナー、隠れ家が用意されていました。インドは、幼児教育については、まだまだプログラムを統制する規則や基準が存在しておらず、提供主体によってカリキュラム、教員の保有資格、教育の質が大きく異なっています。この園は、大きな法人で、幼児施設だけでなく、小、中、高校まであります。園の見学の後、同じ経営の小、中、高校を見に行き、その校長から話を受けました。
 校長先生は女性で、校長室でチャイをごちそうになりながら話を聞きました。おおむねの方針は、「いまの競争から学力を上げようとする風潮には反対で、ひとに対しての感情を育てたい。競争すると、子どもたちは自分を見失ってしまう。そのために、まず他の子どもに対して観察すること。そして、世界を知らせるために、経済的問題のある子、障害のある子など多様な子どもと共に学ぶことをする。そのために、彼らに対しても就学援助をしている。いくら英語を教えるにしても、最初は母国語で話す。そして3歳では自信をつけさせ、聞いて、考えて、そして話すことをしていく。早期教育は必要ないと思っている。その年齢に合った活動をする。きちんと子どもの成長を見たら、まず、自己肯定感をつけることが重要である。」

 そして、いまの子どもたちの様子、家庭での状況についてこう分析しています。「核家族化が進み、子どもに対してのはっきりしたビジョンを持つ家庭が少ない。また、価値観が多様化し、見失っている。知識をインターネットから知る人たちが増え、実体験からの知識が減ってきている。今後は、人同士の関わる力が必要である。」というような内容は、人口増加が課題であり、人口が多いインドでも、欧米にある少子社会国家でも同じようであることには少し驚きました。その原因を、この校長は、核家族化ということを言っていましたが、ネット社会や、豊かな社会における協力の必要性の減少などにも原因があるように思います。この問題は、次の日に訪れたビルの1階の自宅から園を立ち上げたところでの園長先生が指摘していました。こちらの園は、それほど高い階級の子どもたちを保育しているわけではないのですが、やはり核家族化による子ども同士の関係が希薄になっていることを危惧していました。

 次の日に訪れた「PLAYWAY SCHOOL & KIDS CLUB」では、園長先生の話ではこの園はとても人気があり、今度新しくもっと広い別の場所で開園するそうです。当日は、冬休みに関わらず、特別に私たちのために子どもたちを登園させてくれて、保育を見ることができました。しかし、狭い部屋で、みんな前を向いて、一斉に歌を歌ったり、手遊びをして見せてくれた保育は、先日に見た保育が先駆的というか、私たちの考えに近いという意味が解りました。また、部屋は、三部屋あったのですが、どの部屋もディズニーキャラクターの絵で壁が覆い尽くされていました。
政府による、早い時期での質保証を実現するための法制度整備を進めつつあるのは、納得がいきます。

インド報告11

 インドで見学した保育園は、どこも基本を「モンテッソーリ教育」においているということでした。しかし、その取り入れ方は様々で、最初に見た園では日本でよくみられる教具は一つもありませんでした。何がモンテッソーリなのかと思ったら、保育形態のような感じでした。普通の園は、保育室はスクール形式で、子どもたちはみんな椅子に座って前を向いて、先生の話を聞いて、その指示に従って色々なことをする園がほとんどだそうです。確かに三日目に訪れた園「PLAYWAY SCHOOL & KIDS CLUB」では、普通の子どもたちが通う地域にある園で、ビルの1階にありました。園長先生の自宅を改装して保育園にしたすで、人気があるので、近くに新築しているそうです。
それに比べて、二日目に最初に訪れた園は、高級住宅街にある園らしく、立派な門と、警備の人が入口にいました。園長先生の話の後、保育室を見たのですが、3歳児の部屋は、部屋というよりも、別棟で、それぞれが建物として分離していました。それぞれの建物は、草木が絡まり、とてもいい雰囲気です。中に入ると、がらんどうとした中に、机が固まって隅にありました。担任によると、一斉に前を向いて先生の話を聞くのではなく、子どもたちがやりたいものを出してきて、床に自分用のゴザを敷いたり、机の周りに座ったりしていろいろなことに取り組むと言っていました。その形式がモンテッソーリ教育だということのようです。
あと、保育室にはいわゆるコーナーらしきものが3か所用意されています。その形はクラスによって様々でしたが、どのクラスにも設置されていました。また、この三つのコーナーは、4,5歳児の部屋にも少しグレードが上がっていますが、用意されています。その一つは、絵本棚です。壁についていて、表紙が見えるようになっています。取り付け場所はクラスによって違い、教卓の後ろにあったり、入り口のドアのわきにあったりと様々です。

もう一つのコーナーが、鏡を置いた化粧コーナーです。ドレッサーのような鏡と、その前にはくしなどが置かれてありました。この場所は、入り口の近くにあることが多く、出かける前に身だしなみを整えるという意味もあるのでしょうか。
もう一つ、どの部屋にも設置されているコーナーが、小さな隠れ家的空間です。2007年1月15日のブログ「隠れ家」で紹介しましたが、書斎のような小部屋やスペースを指す「DEN」という空間があります。ブログではこのように紹介しています。「この言葉は、住宅業界で使われている言葉ですが、本来は英語で、獣のすみか、穴倉を意味します。不動産用語では、お父さんのための書斎、隠れ家の意味で用いられ、特に広さや形、機能での基準はなく、住宅の中では小部屋を指し、趣味を楽しむための部屋や家事室として使用される空間も含み、使い方自由の多目的スペースをさす場合もあります。」このような空間が、この園の保育室にはどの部屋にも必ず設置されています。その材料はまちまちで、段ボールで作っている場合が多いです。3歳児の部屋では、その隠れ家にピカチューなどのぬいぐるみが所狭しと並べてありました。
あとは、壁に貼り出された教材です。前に書きましたが、その表示はすべて英語で書かれてあり、文字、数のほか、生活に関するものの英語表記のものが多くみられました。