おたのしみ会の考察20

 幼児教育の主な目的は、子どもたちの発達をきちんと保障することにあります。その中で、「最も大事な点。要点。」が書かれてあるのが「教育要領」ということになります。ですから、その「ねらい」とその「内容」が、発達の側面である五つの「領域」に分けて書かれてあります。この「要領」は告示化されています。告示化されることにより、最低基準として遵守しなければならない大事な点として書かれてあるのです。

それに対して「取るべき態度や進むべき方向を示す方針。」が「指針」です。保育所には、この方針が示されていました。そこには、各年齢における「保育の内容」が書かれ、その年齢における「発達の特徴」が示され、「ねらい」と「内容」が書かれていました。しかし、この保育指針は、平成20年の時の改訂の際、告示化されました。それは、「方向を示す方針」ではなく、遵守しなければならない事項に変わったのです。本来、その時にまずしなければならなかったのは、「保育指針」を「保育要領」とすべきだったのです。

もう一つ、内容として明記する事項で見直さなければならなかったのが、おおむね8つの区分で書かれてある「発達過程」です。これは、遵守すべき重要な点ではなく、一つの目安です。私も、保育者にとってこの発達過程はとても大切なこととして、保育室に貼っておきました。しかし、それは、あくまでも目安で、目標ではないのです。それをもう少し考えると、「めやす」とは、どういうもので、どのように使うものであるかということです。考えられるのは、この「めやす」と大きく違っている子をチェックするためであるということです。しかし、そのために使われる「めやす」は絶対的なものでなければなりません。ある特殊な環境の中での子どもの発達を基準にしてしまうと、違う環境の中での発達との食い違いを障害と決めつけかねません。いくら「おおむね」と書かれてあっても、平均値だというイメージはあります。平均値ということは、「普通の子」となり、それから遅れてずれていると「遅れている」「普通でない」と思ってしまいます。

しかし、発達とは、目の前にいる子が立った時に立つという発達過程にあり、いくら目安として書かれていようがいまいが、あまり関係ない気がします。ですから、「おたのしみ会」で保護者に見てもらう発達は、保育指針が先にあり、それに合わせて発達させたものではなく、子どもたちの生活と遊びの中から自ら発達したものです。それは、もしかしたら指針に書かれているめやすとは少し違ってくるかもしれませんが、優先されるのは、目の前に子どもたちがどんなことをするかです。そして、そこで見える発達を保障するために、環境を用意するのです。それによって、次の発達過程に移っていくのです。まず活動があり、その活動から領域という切り口から発達を見ていくのです。年長さんの「おたのしみ会」での表現に至るまでの姿が、コメントに書かれてあります。

「普段から、ごっこ遊びや楽器遊びが好きな年長さん。感じたことや想像したことを、言葉や体、音楽などで表現して遊んでいます。劇を作って演じたり、楽器を演奏したり、するとみんなに見せたくて互いに見せ合ったり、聞かせ合ったりして楽しんでいます。そんな日々の中で表現の仕方を考えてきたみんなは、『もりのてがみ』の台詞や動き、衣装や小道具などを役ごとに話し合って決めました。そこには、みんなのやりたいこと、見せたいことが詰まっています。」

この姿には、指針の発達過程の枠にはまらない、ダイナミックな発達が見られます。

おたのしみ会の考察20” への9件のコメント

  1. 「要領」と「指針」の言葉の意味についてそんなに深く考えることはなかったのですが、言われるように全く違うものですね。同じように告示化されても言葉の持つ意味や与えるイメージがこうも違っているのは確かに問題があるのかもしれません。しかも告示化されたとはいえ、そのことの意味が十分に浸透していない現状を考えると、意識の面でもまだまだすべきことはありますね。しかも内容をきちんと読んだ上でそこから標準的な子とか標準から遅れている子といった見方をしてしまうんだとしたら、せっかくの保育指針が逆効果ということになります。子どもたちのありのままを見ること、そしてそれぞれの違いを尊重することを保育の中で実践していけるような、そんな保育指針の捉え方をしていけるようにならなければいけませんね。

  2. 私は保育の外にいる人間なので、案外気楽な立場だということを前提に言いますが、日本では「子どもの発達をきちんと保障する」というごく当たり前のことが実際には行われていないと思います。現在の幼稚園は、小1プロブレム解消という時代の要請に応えるべく、学校教育を円滑にするための保育となっています。就学前教育とは、畢竟「就学した時に学校や子どもが困らないようにするための事前教育」という意味です。

    また、保育所も親の就労支援が主たる社会的使命で、親のために子どもを預かる施設と一般的に思われています。だから幼稚園とは違い、あくまでも福祉事業であって教育施設ではないのです。この根強い社会的通念のせいで、幼保一元化も迷走し、今また「3歳以上がこども園」という誤った方向性が打ち出されてきたわけです。保育指針が保育要領にならなかったのは、こんな背景があったからかもしれません。

    人はえてして、他人と比べて自分を評価しようとします。隣の家と比べてうちは貧乏と思ったり、キムタクのようなハンサムだったらと鏡を見てため息をついたりします。評価とは物差し次第で相対的に決まるものです。発達過程も指針の上では、一応の目安のはずが、現場での扱い方によっては、「基準」として独り歩きすることがあります。自分たちの保育の評価として反省材料になればいいのですが、その子の発達を「早い」「遅い」と決めつけてしまう可能性も考えられます。両刃の剣ですね。子どもの成長の過程は、千差万別、十人十色でいいと思います。大人でも早熟、大器晩成と様々な人がいますから。

  3. 確かに保育園と幼稚園、保育所保育指針と幼稚園教育要領、「指針」や「要領」といった言葉をあまり意識したことはなく、同じようなものと思っていました。しかし、そのどちらも告示化されていて、その言葉の意味合いを考えるとすこしその言葉に疑問が出てきますね。しかし、現場にいてもあまりその告示化というものを感じたことはありません。とても重要なことであるのにそれが浸透しないということは現場にいるものから改めて考えていかなければいけないことなのだと思います。その中で、指針に書かれている子どもたちの発達はあくまで「概ね」です。この概ねという言葉はくせものでうね。概ねを書くことでその捉え方がまた難しくなってくるように思います。だからといって、はっきりとこうだと示されてもおかしくなりますし、目安がないということも保育をしていく上で、指標は欲しいものです。あくまで参照、参考という捉えかたをしないといけないですね。保育者はそういった視点を持っていないと子どもたちにとっては負担が大きくなりますし、大人も焦ります。異年齢になることでこういった視線をズラすことになりますし、発達というものを実感できるようになります。保育指針を意識したうえで、どう保育園として子どもたちの環境や関わりを持していけばいいか、整理していかなければならないですね。

  4.  保育指針が告示化され遵守すべき内容となりましたが、「指針」という文字は方向を指し示すという風に捉えてしまい、告示化をされても遵守せず、参考程度にしている保育園が多いような気がします。しかし保育の養成校では保育指針をしっかり学び、現場に実習などに行くと思いますが、指針と現場の違いに戸惑い、困惑する学生も多いと思います。それは現場で子どもの発達に関しても、少しでも他の子どもと違うと「遅れている」「普通ではない」と決め付けてしまいます。発達ももちろん個人差があるので早い子もいれば、遅い子もいます。その中で子ども同士が関わり、少しずつ発達していきます。それなのに、教え込ませたり、大人が主導になる事で、本来の発達を飛ばしてしまうとそれこそ、問題です。保育指針をしっかりと読み込み、それを現場の子ども達にどう下ろしていくのか、まだまだ私自身、学ぶことがたくさんあります。

  5. いみじくも、「おたのしみ会考察」のブログで、私たちが日頃拠って立つところの「幼稚園教育要領」と「保育所保育指針」の意味及び課題が明確にされています。そして、最も大切なことは、現場で働く「保育者」と呼ばれる人々はこの「意味及び課題」をしっかりと意識しておかなければならないということです。私が今でも忘れられないことは、先進的な保育をおやりになっている先生方の集まりの時「保育所保育指針、あれはお上がつくったものだから・・・」と暗に無視するようなことを公言したり、または別な時には「おれが保育指針」だと公言して憚らない園長さんの事を聞いたりしたこと、です。そういえば、私たちの集まり以外の保育園関係者の集まりでは「保育所保育指針では云々」ということが話題に上ることがあまりないような気がします。これは一体どうしたことでしょう?「指針」「領域」「発達過程」、こうしたことに関して今回のブログで問題提起されているようなことを次の改訂までにはしっかりと提言しなければなりませんね。「おおむね」と書かれても、現場で「計画」を策定する際には「おおむね」の部分は捨象され、その後が断定的に記述され基準となって子どもの発達を見ていくでしょうね。「遅れている」「普通でない」と目の前にいる子どもたちを判断していきます。「子どもの存在を丸ごと信じた」ことにはなりません。私たちの園の「おたのしみ会」は確かに「指針の発達過程の枠にはまらない、ダイナミックな発達」を見て取ることができます。「指針の発達過程」とは一体何だろうと考えさせられます。今回のブログは基本中の基本について書かれています。熟読して常に意識していきたいと思いました。

  6. ドイツ(ミュンヘン)の保育施設には、保護者に掲示する物という認識がある「週案」の中に、その州の統一保育プログラム「バイエルン」のどの部分に当たる活動かを表示していました。保育者の意図を、保護者にこうして伝えようとしていることから、そのプログラムの重要度が感じられますが、日本でも、保育所保育指針は告示化されているという事実を把握し、考え直さなければいけないようですね。こうして、子どもの実際の活動を通して、「おたのしみ会の考察」から指針のどの部分に当たるかを明確にしてくれると、実に楽しみながら照らし合わせることができます。そして、その指針はあくまでも「めやす」であり、「おたのしみ会」におけるその意味の受け取り方についても考察されています。優先されるのは「目の前の子どもたちがどんなことをするか」であるために、その発達を保障する環境を構成していく使命が私たちにあるわけで、「子どもが主体」であることを行事面からもアプローチしていく必要があることを感じます。

  7.  僕は藤森先生のブログ、特に素晴らしいと感じたブログの日付を記録してまとめているのですが、この度のブログもその中に入れたいと思います。
     この度のブログを読んで〝発達〟というものにも一種の刷り込みをもっているのではないかということを初めて感じました。僕にとって発達とは保育所保育指針に書かれていることでしたし、本に書かれていることでした。目の前の子どもについて悩むことがあれば、そのことについて書かれている本を読みました。それは情報としてはとても参考になるもです。そしてそれを参考にして目の前の子どもに合わせたものにして保育に下ろしていくように、指針においての発達もまた、〝めやす〟といういわば参考媒体なのであるという解釈をしていいのではないかと思いました。指針に書かれている発達や発達過程とは目の前で育つ子どもを抜きにして優先されることではないということです。それを絶対的なものとすることで苦しんでいる保育者、そしてそれをそのまま受けざるを得ない子ども達がいると思います。
     日本の子どもの為に、日本の保育者の為に、日本の保育園の為に書かれたものが、なぜか実際の現場にはそこにいる人たちを苦しめることになり兼ねないものへと変貌してしまいます。藤森先生のような考え方が園全体に浸透することがどれだけ心地が良いものなのかを、見学などを通してぜひとも多くの人に味わってもらいたいと思うところです。こればかりは百聞は一見にしかずであると思ってしまいます。

  8. 目安という言葉を普段も何気なく使っていました。目安とは何か深く考えたことはありませんでした。よく考えると目安と大きく違っている子をチェックするには、その目安は絶対的なものである必要がありますね。そうなると、目安が平均値だとすると、少しでもズレると遅れているとか普通じゃないという不安は出てくるのかもしれません。先生も書かれていますが、発達とは、目の前にいる子が立った時に立つという発達過程にあり、いくら目安として書かれていようがいまいが、あまり関係なく、「おたのしみ会」で保護者に見てもらう発達は、保育指針が先にあり、それに合わせて発達させたものではなく、子どもたちの生活と遊びの中から自ら発達したものなのですね。

  9. 保護者に見てもらう発達は〝子どもたちの生活と遊びの中から自ら発達したもの〟とあり、保育指針が先にあるものではなく、子どもたちの活動が先にあり、領域という切り口を通してみていくということが書かれてありました。
    保育する上でとても大切なことですよね。指針からずれているから、遅れているからというものの見方ではなく、あくまでその子自身をみてあげる、信じてあげるということがそこからみえてきます。
    そのような発達を保障してあげる環境を用意していくのが、自分たち保育者の使命になってくるところであると思いますので、専門性を高めて、子どもたちが主体性を発揮できる環境を整備していかなければなりませんね。

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