運動会の考察10

普段、園で行っている運動遊びは、いわゆる習熟度別に、挑戦する運動の難易を選びます。小学校でも、例えば跳び箱を飛ぶときでも、3段、4段、5段と段数を変えて、自分が跳べる高さに挑戦します。しかし、運動会当日は年齢別に披露します。
ある年、職員からこんな意見が出ました。「年齢別にしないで、その子ができる運動を披露したらどうか?」という意見です。その時に、小学校において、かけっこの取り組みについて試行錯誤をしたことを思い出しました。私が子どものころは、背の順に並んで、順番に6人くらいが一緒に走り、ゴールに先生がいて順位を決めて、その順位が書かれた旗のところに並びます。高学年になると、運動会の係として、ゴールした子を旗のところまで連れていくという役割がありました。そして、順位によって、色のリボンをもらって、手首に輪ゴムで止めます。それが、一時期、競争するとか、子どもの順位を決めるのはかわいそうだということで、全員リレーとか個人別徒競争とかリレーを行わないことがありました。また、背の順ですと、あまりに子どもの速さによって差が出るので、事前に個々にタイムをとって、タイム順にグループを作り、タイムの近い子ども同士で走ることをしたこともありました。その方法は、今もしている学校もあるかもしれませんが、子どもたちから聞くと、当日1着を取りたいので、練習の時のタイムはわざと遅くして、遅いグループに入って1着をとるということをすることがあると言います。また、それでも、どのグループに入るかで、結局、差が出てしまうということもあります。

子どもによって速さに差が出ることは差別でしょうか?また、勝負は子どもにはよくないことでしょうか?足が遅いと悲しい思いをするのでしょうか?確かに負けると子どもは悔しがります。それは、させてはいけない思いでしょうか?

 職員から出た意見は、「年長さんは、皆とび箱を跳ばせるが、跳べない子は無理に跳ばせないで、その子ができる、例えば、台の上からのジャンプなどを見せればいいのではないか」というものでした。また、保護者にしても「わが子の運動能力の発達を見るという点で、どのくらいのところができるのかを見てもらう方がいいのではないか」という意見です。確かに、普段の運動遊びでは、挑戦する運動は、年齢で決めるのではなく、その子ができるところに合わせています。では、運動会ではどう考えたらいいのでしょうか?そんな意見交換の場で、私はこんなことを投げかけてみました。「例えば、母親はわが子の運動神経が鈍く、運動が苦手であることを知っている。そのわが子が、年長児になっても跳び箱を跳べない。そんなわが子が、2歳児と一緒に台から飛び降りるのを見て、『こんなことができるのか』と感動するであろうか。または、同じ年長児と跳び箱を跳ぼうとして跳べなく、『やっぱりうちの子は、運動は苦手だ』と思うのと、どちらがいいと思うか?」

 私は、後者の方がいいと思っています。そして、「運動は苦手だけれど、何かを作るのは好きで、得意だ。」と考えることが必要な気がします。人はそれぞれ得意なものを持っています。その得意なものを見つけるためには、不得意なものを見つけることでもあるのです。そして、その得意なものには優劣があるべきではなく、社会にとって、それぞれの意味があるはずです。ということを考えられるような教育が必要です。戦争やバブルの頃など価値観が統一されている時代は、他人を優劣で序列してしまいがちです。ダイバシティーの時代では、それぞれの違いは、それぞれに価値があるのです。かけっこだけ、跳び箱だけで人を判断するのではないことがわかると、かけっこで順位を決めても、跳び箱と跳ばせても問題はないはずです。

運動会の考察10” への7件のコメント

  1. 本来、民主主義社会における人間の平等とは、男女の差、社会的な地位・職業の如何にかかわらず、等しく人間として尊重されることを求めていると思います。違いを認め合うところから出発しているのです。ところが、戦後日本の教育は、子どもの世界での勝者と敗者は社会的格差であり、教育の世界から「競争」をあえて排除する傾向が続いてきました。文科省も日教組もこの点では同罪です。

    「子どもの個性を尊重しよう」と言いながら、運動会の徒競争で手をつないでゴールしたり、成績のいい子を褒めなかったりするのは、いいほうの個性を殺すための教育になっているのです。悪しき平等主義と言われている所以です。結局、学校では自分の得意が見つからないまま社会に出るから、非正規やフリーターになるしかないのです。

    たしかに今どきの親は、過保護で子どもを甘やかすから、子どもが自立しないのも分かります。しかし、教育現場まで子どもを傷つけまいと余計な“配慮”をすると、子どもはますます自立できなくなります。僕自身、幼稚園の時代に池で溺れて泳げなくなった。学校では夏が来るのが嫌だった。だけど、運動ではだめだけど人一倍勉強して英語が得意になった。おかげで大学の英文科まで行くことができました。挫折や失敗も子どもを成長させる糧になります。喜びよりも苦しみから学ぶ人生の教訓のほうが多いのだ。

    「習熟度」もその本当の意味を取り違えると、結果的に逆差別のようなことになってしまうのですね。やっぱり子どもの自由な「選択」とセットで考えた方がいいようです。

  2. 運動会も保育の一つであることから考えると、今回書かれていることは全く同感です。むしろそうでなくてはいけなくて、それを当たり前のことと捉えられる場であることが重要なんだと思います。発達をみせるといっても、その日に見せる姿がその子の全てではなく、いろんな面で得意不得意をもっているのが人の当たり前の姿です。そう考えると運動面の発達を見せる運動会、言葉や表現の発達を見せる発表会、そしてそれを含めた様々な面の発達を見せる成長展、どれもが子どもの個性を知り成長を喜ぶ大事な行事だということがわかります。何かを仕込んでできるようにさせるのが行事であると捉えてしまえば、決してこのような発想には行き着かないと思います。行事も保育であり、保育は社会で生きていくための大事な基礎をつくっていく場であることを土台に行事のあり方を考えることの重要性を忘れてはいけませんね。

  3.  小学校の頃の徒競走の順番は既にタイム順に走る順番を決めていました。小学校、中学校、そして高校の頃、足が速い人は羨ましく思いました。足が速い人、運動神経がいい人はクラスではやはり注目される存在になります。いま、見守る保育を学び、藤森先生の講演を聞いて思う事は、運動神経が良くなくても他の物で得意な物があれば、それで十分という考え方になりました。人はそれぞれ違いがあり、それを認める事が重要です。運動が得意、物を作ることが得意、歌うのが得意など、それぞれの特性をお互いに活かし合うことが、これからの時代に大切だと思います。

  4. なにをもって発達を見せていくかという視点でみると、「できない」としてとらえるのと「不得意、苦手」と捉えるのとでは大きく違いますね。保育をしていくうえでも、できるだけ、前向きに見せていけるようにしていくことは必要なことだと思います。今の社会どうしても均一にしようという社会になっているように感じます。だからこそ、その中でどうしても苦手なものはより苦手になるような社会になっています。しかし、時には苦手なものもあります。それぞれの特性を認め、それぞれを認め合うことができるように保育を進めることが重要ですね。それを自分で納得し、認め合うことのできるような子どもたちや保護者、社会にしていかなければいけませんね。そのためにも保育園はこういった視点で保育や行事といった取り組みを進めていかなければいけないと思います。

  5. 私の息子は走るのが好きですが、どうも運動会ではかけっこで良い成績を納められずに小学校を卒業します。まぁ、それでも「運動会」は楽しんでいたようです。私たちの園の「運動会」の目的は「身体や運動の発達」を保護者に観て頂くことですが、そうした運動会の見方が身についているせいか、小学校の運動会も同様の見方をして、わが子をはじめとして、わが子の同級生や卒園児たちの身体や運動能力の発達を楽しめるようになりました。何もない限り毎年家内と一緒に出掛けて小学校の運動会を楽しんできました。「運動会」の在り方については自分でも考えることがあります。踊りや組体操、「協力して成し遂げることを経験する」ことの表し方なのでしょうが、個人的には、常に???です。なぜ、そうしたことをやるのか、私たち園が「発達のめやす」表を添えて保護者の理解を求めるように小学校からも「なぜ、その種目をやるのか」その教育的意味をわかりやすく伝えてもらったとするならもっと運動会が有意義な活動として私たち親も興味深く参観することでしょう。私は運動会を子どもたちが楽しんでやっているのならそれでいい、と思っています。少なくとも、やらせ感たっぷり、変な平等、軍隊方式、・・・はやめてほしいものです。

  6. この順位を決めない方法だったりとか、背の順やタイムの近い子同士で走る方法は、私自身、経験がありますし、順位を決めない方法は、園のかけっこのなかで、走り終わったら、みんなが同じ所に集まるといった形があります。そして、かけっこの走るグループも好きな子ども同士でという風になっていますので、子どもが一位をとりたいと思っている子どもは、自分より、遅い子どもと走るような姿があります。子ども自身から自然と一位をとりたいという気持ちが出てきているようです。藤森先生の言われるようになにもできないから挑戦しなかったではなく、挑戦することで、子ども自身も、自己を知り、そして、保護者へも子どもの得意なところと不得意なところを見ることができると思います。大人は、知らず知らずに子どもへ期待してしまうことがあると思います。子どもが今できることを見ることが子どもへ期待の重圧とならない気がしました。

  7. 先生と職員とのやりとりの中で、「例えば、母親はわが子の運動神経が鈍く、運動が苦手であることを知っている。そのわが子が、年長児になっても跳び箱を跳べない。そんなわが子が、2歳児と一緒に台から飛び降りるのを見て、『こんなことができるのか』と感動するであろうか。または、同じ年長児と跳び箱を跳ぼうとして跳べなく、『やっぱりうちの子は、運動は苦手だ』と思うのと、どちらがいいと思うか?」とありました。そして、先生は後者の方が良いとおっしゃっています。運動会に限らず、行事では子どもの得意なこと、不得意なことを見つけることができるのですね。私が運動会嫌いの理由の1つに、足が遅いからということがあります。しかし、これまで運動会では、先生のおっしゃるように得意不得意を見つけ、その得意なものに優劣をつけるのではなく、社会にとって意味のあるものという雰囲気がなかったように感じます。それがあったら、運動会を嫌いになることはなかったかもしれません。

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