運動会の考察4

 学校の運動会の種目は、その時代を反映している部分があります。例えば、戦時中では「ゲートル巻き」のように軍隊生活に直結する種目や「バケツリレー」のような種目があったそうです。さすが、そのような種目は、今はなくなっていますが、違う意図で、騎馬戦や棒倒しは残っている学校もありますし、整然と並んで入場してくる入場行進を見ると、私はどうしても学徒出陣のときの行進を思い出してしまいます。決死の覚悟の顔をして、一致団結という表情で、オリンピックの入場のように晴れやかに、楽しそうに、それでいて決意を込めた表情とどうしても比較してしまいます。学校の運動会における「入場行進」は、どの意図を踏襲しているのでしょうか?

 また、学校の運動会でよく見られる体操やマスゲーム、ダンスなど集団で演技する種目は、集団行動の訓練になっています。ですから、現在も、運動会前に多くの練習を費やすのは、この集団での演技とか、集団行動が必要な種目が多いのです。それは、演技自体ではなく、皆そろうことが目的の一つだからです。

 しかし、入場行進が批判されていた時期もありました。1980年代後半には競技での順位や勝負などが子どもたちに優劣感を与えると、順位や勝敗を付けないようにした学校もありました。よく伝説のように言われている、「ゴール前でみんな手をつないで、仲よくゴール!」というものですが、私が小学校に勤務していた時にそのようなことが行われていましたが、手をつないでゴールなどというのはうわさで、実際は、多くの学校では徒競争の代わりに、全校リレーといって、1年生から6年生までバトンをつないでいくリレーとか、走り終わって順位の旗に並ばないで、クラスで並ぶというようなものではあったのですが、やはり奇妙ですね。

 そんな小学校の全校行事としての運動会の教育的価値について、山口大学の海野勇三氏が、考察しています。それは、逆に、子どもが新しい文化創造の主体へと自己形成を遂げていくうえで日常の授業では得られない運動会に固有の値うちはなにか、という問題についても考えています。まず、学校の教育実践を、それが果たす機能の差異によって区別すると「教科指導」と「生活指導」の二つの教育形態があるとしています。そのうち教科指導は、「科学・技術・芸術といった文化的価値体系の基礎を系統的に教授?学習し、これを通して子どもの学力を形成することを主たる機能とするもの」であり、それの展開される領域が教科教育と言われる授業です。これに対して生活指導では、「子どもの実生活における自主的・集団的・創造的な活動を指導することを通して行動、態度、人格の形成をめざすこと」に主たる機能があり、それが展開される領域は教科外教育であるとしています。

 このように考えて、海野氏は、生活指導が展開される教科外の領域は、学級会、児童会・生徒会といった自治的活動、および行事、クラブ・部活動などの文化活動、遊びその他における自治的・集団的な行動の領域からなり、体育的行事としての運動会もここに属するものであるとしています。そうすると生活指導として展開される運動会とは、どのような目的と性格に基づいて組織されることになるのか、また体育授業のそれとどのように区別されるのかを考えることが必要であろうと指摘します。

 私の出身高校での体育祭は、そのような要素がたぶんにある行事でした。私は、1年生の時に体育祭準備委員で演技係したが、準備は、全く生徒の自治で、演技指導は生徒がすることになっています。私たちは、体育の授業を体育教諭に借りるために頼みに行き、その時間内で演技指導をします。それを、各クラスにするわけですから、当然、その間の自分の授業には出ることができません。運動会当日も、教師は来賓として席に座っているだけです。一切、教師からの怒声も指示も指導もありません。あるのは、生徒の自治だけで、それが行事だったのです。

 このことが、海野氏が言う「運動会が生活指導として展開されるということは、なによりもまず、学級の自治的活動を基盤とした全校集団の民主主義的な実践過程として指導するということである。そして「自治的行動能力の形成」、ここに運動会でめざす目標も收斂されていくといってよい。」ということなのでしょう。

運動会の考察4” への8件のコメント

  1. 多くの運動会で見られる入場行進ですが、見ていて何の目的でやっているかわかりにくいものでした。行進に限らず、みんなが揃うことが大きな目的になっているんですね。何を目的とするか、何が目的であるべきか、そのことが曖昧なまま進んでいくことは避けなければいけません。競争がよくないからといって競争の何がよくないのかをはっきりさせずにいるとおかしな種目も登場してしまいますし、結局はそこの整理がまだ十分ではないのが問題なんだろうと思います。保育園では保育園の、小学校では小学校の運動会が整理されていくと、子どもたちの力も変化していくでしょうね。げんじょうはまだまだ変わる余地のあると考えると、ちょっと楽しみになります。

  2. 東京オリンピックの入場行進をYouTubeで今見直してみると、あの頃は外国選手団も、オリンピックマーチにあわせて整然と行進していたことに驚きます。まるで予行演習でもやったかのようです。正面の貴賓席前に来ると、全選手が「頭、右!」で敬礼までします。先日のロンドンオリンピックの開会式とは隔世の感があります。昔はテレビに映るあの威風堂々の行進に目を熱くしたものですが・・・。確か国立競技場(旧・明治神宮外苑競技場)では、戦時中「出陣学徒壮行会」が行われたと聞いています。その時の映像とオリンピックの行進とが重なってしまうのはどうしてでしょう。

    藤森先生の時代の都立高校は、旧制の府立中学の自由な気風がまだ色濃く残っていたいい時代ですね。イギリスのパブリックスクールの「自主と自治」の精神を感じます。あれからしばらくして学校群制度ができて、都立高校が平均化。私立の有名進学校が大学入試で上位を占める時代に変わります。いい意味での国を担う気概にあふれたエリート教育が廃れ、記憶力と受験技術が勝負の偏差値教育が幅を利かせるようになったのです。「子どもの心を傷つけない」という誤った平等観による改革が、あらたな教育格差を生んだだけでなく、日本のリーダーを育成する土壌まで奪ってしまったように思います。

  3.  入場行進を行う意図を考えたこともありませんでした。全員が揃って歩く事で一体感を体験させる為でしょうか・・・それならば、別の方法の方があると思うのですが、やはり揃って歩いているのを見る事で気持ちがいいのでしょうか。時々、ニュースである国の軍隊の行進を見ますが、それと全く同じですね。やはり入場行進も戦争の名残がかなり残っているのですね。やはり、どうしても運動会は戦争がモデルになっていますね。そんな運動会の中で藤森先生の高校の時の運動会はすごいですね!準備も指導、とにかく全てが生徒だけで行い、教師は来賓として座っているのは面白いです。海野氏が言う「自治的行動能力の育成」少しずつですが運動会という行事の本質が分かってきたように思います。

  4. 入場行進にはそういった内容が見え隠れしますね。行進というだけあって、軍隊のかんがえが残っているのだろうかと思うことはありましたが、まだまだ根深く残っているんですね。その内容やあり方は今の人はそれが通説になっているだけに変えていくという意識もないのではないかと思います。また、それがない場合のものをイメージできないところもあると思います。そういった意識を変えるヒントは大人の中よりも子どもたちの中にあるのかもしれません。今いる子どもたちの可能性を受け止めれるような社会を作っていきたいですね。

  5. 「遊びその他における自治的・集団的な行動の領域」にある行事が「運動会」と山口大学の海野勇三氏は考察しています。運動会には「遊び」の要素があるのですね。ということは、保育園での運動会は普段の運動遊びをしっかりと反映させたものになるはずです。次に、「自治的」とあります。これを保育園に置き換えたときは、子どもたちが自らで律してその運動を行うこと、と言えるでしょう。自分たちでルールを踏まえ、自ら選択し決定し、そして自己責任において行うことですね。そして「集団的」とは他者への思いやり、他者支援をベースとして行われることでしょう。大人の先生たちはこうした子どもたちの遊びや自治、集団行動が可能となるよう、環境を整えることになります。従って、笛を吹いて行動を支持したり、軍隊的に行進を強制したり、どこかの国のマスゲーム的踊りやパフォーマンスを子どもたちにさせたり、という大人主導の運動会は本来の運動会ではなく、大人の自己満足のため、仕事を遂行しているという自己肯定のため、ということになるのでしょうね。まぁ、百歩譲って、せめて子どもたちが運動会を喜々として楽しめるものにしてほしいと思うのです。

  6. 集団行動というのには、嫌な思い出があります。それは、高校の体育の時間です。高校時代の体育の授業では、4月になると必ず、行進なんかを練習させられ、集団行動という授業を行います。それが、正直つまらない授業で嫌で嫌でしょうがなかったです。そして、運動会に戻ると、マスゲームやダンスも集団行動の訓練ですね。
    運動会の教育的価値ですが、これはどの行事にもありましたが、日常の授業では得られない運動会固有の価値を考えないといけませんね。
    その答えが最後にありました。「学級の自治的活動を基盤もした全校集団の民主主義的な実践課程とし指導する」というのが、運動会の指導目標なのでしょうか。

  7. 入場行進の思いでは、トラックの周りを皆が揃うまで歩き続けるといった形でした。できるまでだったので、休み時間に入ることもありました。今さらなのですが、なぜ?と疑問が浮かびます。行進がきれいになることの意味を考えてみると、学校として、いかに生徒がしっかりした子どもだったのかというように考えられます。不思議なものです。文章にあるように、オリンピックでの入場行進には、真剣さはあるものの、笑顔があったりと表情が見られます。運動会では、軍隊のような行進、オリンピックでは、どこか楽しさと真剣さが混じりあったような行進、やはり、今思うと不思議な感じです。園で行っているの運動会は、行進という形はとらず、入場という形で、トラックの周り歩きます。練習をしているわけではないにですので、横の子どもと並んでいなかったり、しっかり手を振っているわけでもありません、それでも、笑顔で運動会への意欲が感じられます。もちろん、手を振ったりもしています。
    そして、生き生きとした表情が見られます。
    子ども自らが、参加している、運動会の目的が運動発達を見てもらうとなっているのならば、目的がどのようなものなのかをしっかりと理念とするべきだと思います。

  8. たしかに、オリンピックと運動会の入場を比べると、かなりの違いがありますね。どうして、行進をしながら入場しないといけないのかという疑問がありました。
    学校の教育実践を、それが果たす機能の差異によって区別すると「教科指導」と「生活指導」の二つの教育形態があり、生活指導が展開される教科外の領域は、学級会、児童会・生徒会といった自治的活動、および行事、クラブ・部活動などの文化活動、遊びその他における自治的・集団的な行動の領域からなり、体育的行事としての運動会もここに属するということですね。
    最後のまとめで海野さんが「運動会が生活指導として展開されるということは、なによりもまず、学級の自治的活動を基盤とした全校集団の民主主義的な実践過程として指導するということである。そして「自治的行動能力の形成」、ここに運動会でめざす目標も收斂されていくといってよい。」とおっしゃっているのに、運動会のあるべき姿のあるように感じます。

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